『サンデルよ、「正義」を教えよう』を読んで

サンデル教授の「白熱教室」がけっこう人気を呼んでいるようです。
先日の「木曜ミーティング」でも、何度か話題に上がりました。

話が横道にそれるのですが、この木曜ミーティングについて説明したいと思います。
これは、今に至るまでもう25年近くも続く集まりで、毎週木曜に集まる。
その頃は、当時やっていた会社で夜開かれ、京都府の運転免許証管理システムをコボルで書いた警察官や有名電機企業のプログラマーなどプロフェッショナルを含む20人近くが参加していた。

当時は、まだDOSの時代で、Pascal(TurboPascal)というコンパイラー言語を使って、WISWIGをどう実現するかなどの研究をやっていた。
たとえば、画面にキーボードの絵が表示され、そして線書きの手が表示される。あるキーを押すと、画面上のその指が、そのキーに動くというようなコードをどう書くか。などとゆうようなことに熱中していた。参加者も熱心で、夜半を過ぎても終わらないことも多かった。

やがて、ウィンドウズが発表されると、テーマはOOP(Object Oriented Programing)(オブジェクト指向プログラミングのことで、ウープと読む)に移った。主催者兼講師のぼくは大変で、ウープの講座を求めてアメリカ、イギリスと転々としたものだった。
この集会は、今も同じ木曜日に開かれているが、もう勉強会ではなく、四方山話をするサロンとなり、参加者も数名になった。


話を戻します。それで、サンデル教授の白熱教室ですが、アマゾンでグーグって見ますと、けっこう凄い数の著書が現れます。列記しますと、
これからの「正義」の話をしようーーいまを生き延びるための哲学。
ハーバード白熱教室講義録
サンデルの政治哲学ー<正義>とは何か
リベラリズムと正義の限界
などなど13冊が上がってきます。

テレビでの公開授業もなんども行われました。
その最初の「白熱教室」を見た時には、ぼくもその教授手法に驚きました。しかし同時にある違和感を覚えたのも事実です。最初の講義のテーマは「殺人に正義はあるか」というもの。その2講目の「殺人に正義はあるか(実例編)」で次のような実話が引用されます。
19世紀のイギリスでの話なのですが、難破して救命ボートに乗った4人の船乗りが生き延びるために17歳の少年水夫を食べて生き延びたという話。
サンデルは、この行為が道徳的に許されるかどうかを問います。この質問は、「生き延びる」ということに集中しており、このテーマに限られています。
そこには助けが来なかったら、みんなで死のうという選択肢はない。やっぱりアングロサクソンの論理だなあ、と思ったのです。

ぼくは、このことは書かないといけないと思いました。それで予定したタイトルは、「サンデル教授のおぞましさ」だった。
数日前、バーで飲んでいる時、教え子のイワシ君に「サンデル教授のおぞましさ」の話をしました。するとスマートフォンを操っていた彼は、「この本が面白いんと違いますか。先生にぴったりですよ」と教えてくれたのが、表題の本でした。

その時、ぼくは少し酔っていたのか、タイトルを「サンデルよ、日本の正義を教えよう」と読んでしまったようです。アングロサクソンではない、日本の正義が述べられていると勝手に解釈して、早速その本を買ったのです。しかし内容は大いに違いました。

この本は、「週刊新潮」に2009年12月から1年間にわたって連載された「変見自在」というコラム(多分)に載ったものを集めて単行本にしたものでした。
この連載の最後の方の2010年12月2日号所収の「サンデルよ、正義を教えよう」というのがあります。編集者は、今的でまあアトラクティブな題をということで、単純にこのタイトルを使ったという訳なのでしょう。

最終章の第五章 悪人ほど「正義」を気取る、の終わりから4番目の項「サンデルよ、<正義>を教えよう」はこんな内容です。
最近、ハーバードに留学する日本人が減り、中国人が増えている。留学生の数でその国のレベルが決まるほどの立派な大学なのか。そこのとんでもないことを言う先生の実例を示した後、著者の高山正行はこう続ける。
こんな外れもたまにいると善意に解釈したら、もっと変なのが出てきた。
「正義」について語るマイケル・サンデル教授だ。

彼は、ハリケーンに遭ったニューオーリンズで屋根の修繕屋が50倍の料金を吹っかけたケースを紹介し、これは悪徳商人か需要供給の当然の帰結かと問う。
日本人は戸惑ってしまう。
中越地震の時、道路決壊のため孤立した村のスーパーでは、食品や野菜二千円分を詰めた袋を四百円で売った。店主は「こうゆう時はお互い様ですから」といった。
阪神大震災のとき、山口組は炊き出しをやった。ロサンジェルス・タイムスの記者が「アウトロー」は略奪するものだろうと驚いた。

日本では、儲け時に安く売る。ヤクザも略奪よりはまず人々を助ける。
などと著者は述べ、さらに実例を挙げつつ、法の前の平等を説く米国は堂々と貧しいものを差別してきた。サンデルはそれを非難はしない。米国人に限らず人は生きたいのだからと。

こうした「自分だけは死にたくない」行動について問われても日本人は戸惑う、と彼は書きます。続いて、終戦直後にソ連の北海道奪取を策しての北の占守島攻略に死を賭して戦った実例を挙げた後、こう結論づける。
サンデルの頭には、こうした日本の正義はない。商売は阿漕(あこぎ)に、金持ちは命を惜しむ。それをなんとか正義で包みたい。

アングロサクソンは、こうしたことをよくやります。
話は飛びますが、かつて一世を風靡した「文化人類学」にしても、その創始者レビ・ストロースは多分欧米文化の優位性の揺らぎを認識して、負け惜しみ的にあらゆる民族の文化の等位性を言い出したのだろうとぼくは思っています。
だから同じ文脈で、自分たちの考えを自分たちの「正義」で包み隠そうという手法は分かります。
しかし、そんな理屈を押し付けられて、有り難がることなどさらさらないのです。

週刊誌のコラムだからその推論がやや雑で、サンデルの哲学論とかみ合っていないことを認めるとしても、著者の推論は正しいと思います。
こうした議論は、変にその土俵に乗ると、いいくるめられる恐れがある。アングロサクソンの理屈に乗る必要は全くないと思うのです。ほんでなんやねん、あるいはHow what!と無視すればいい。
彼の挙げる実例はあまり現実的ではなく、極めて恣意的に作られています。そしてその実例がスタートであり、それが形成された過程や理由を考察の対象にすることはない。あるいはその実例が引き起こされた前段階を、検証しようとする視点を欠いていると思えます。先日のテレビの三ヶ国を結んだ「白熱教室」「ビンラディンの殺害に正義はあるのか」を見て、特にそう感じました。

極めて突飛な考えかもしれないのですが、ぼくは、イギリスの貴族が行っていた狐狩りに於けるフェアプレーの議論を思い起こしてしまいます。
また、キャッチアンドリリースの理屈もしかり。釣ったら食べればいい。それが許されないなら、釣るべきではない。
牛豚をさんざん食べるくせに、どうしてクジラ猟に反対するのか。
とにかく、サンデルの理屈にはまり込むことは、日本に何のいいことももたらさない、そんな気がしきりにしています。