三十なかば変身のきっかけはコーカサスのショック

前稿で、昔のダイエットのことを書いたので、この時の山渓連載の『なんで山登るねん』の記事を雑誌から直接取り出して載せることにしました。1977年の6月号ですから、34年も前の記事です。
また、この旧ソ連邦の招待に依る1971年のコーカサス遠征登山については、コーカサスの山と人<上><下>(山と渓谷社)に報告しています。

 学生時代に運動選手だったような人が、卒業してしばらくすると、ブクブクと肥りだすなどというととが多いようです。
 これは、運動によるエネルギー消費は急に減るのに、喰いもののエネルギー摂取は同じだという具合のアンバランスによるのでしょう。それに結婚などして、ホルモンのバランスもくずれるのかも知れない。
 ぼくだって、学生の頃は、そのスマートな容姿を自認していたのですが、たちまち肥りだし、六〇キロを越えたと思うと直ぐに七〇キロ、そして八三キロに達しました。
 まあ言ってみれば、いつも二〇キロ以上の荷物を背負っているようなもんです。当然苦しいはずなのですが、そこは日頃鍛えた足腰のこと、二〇キロ位の荷物など、ほとんど気にならなかったのです。
 洋服は全く合わなくなりました。でも、社会人になって、学生の頃の服を着ることなどありませんし、新調してゆく訳ですから、これも、あんまり気になりません。
 しかしよく考えてみると、いくつかの変化が、はっきりと認識できました。
 まず、オナラの音が変りました。がっては、トランペットの様な感じだったのが、なんだか、ひび割れしたブラスみたいになりました。
 風呂に入って背中を洗おうと思っても、手が回りません。腹の皮をつまむと、それはもう皮というようなもんではありません。京都の電話帳どころか、東京の電話帳みたいだった。
 顔はまんまるく、二重あごになり、そして人からは、「ほんとに円満具足という顔ですなぁなどと、とんでもないことを言われるしまつだったのです。
 でも、もしかしたら、いつも金欠でピーピーのくせして、顔だけは「金持けんかせず」みたいな調子でニごこして、おっとりかまえていたのかも知れません。
 だいたい肥ってくると、あんまりコセコセ動けなくなりますし、体質的に闘争本能も失せてくるような気がします。

 そんな頃の夏に、黒部の源流で、釣りに出掛けました。何回となく通った所ですから、自分の庭よりももっとよく分っていて川を渡る時に、どの石からどの石に飛ぶかさえ決っています。
 昔とちがって、いまは、二〇キロをオーバーする位の荷物を身にまとっているなどということは、全く失念しておりました。それでぼくは、いつもの様に、釣竿片手にヒョんと飛んだんです。
 全く、アレレという感じで、ぼくは源流の水の中でした。
 これはいかん、こんなことではいかんと、その時は思いました。しかし、そう思ったのは、その時だけで、相変らず、ブタみたいに肥ったまんま、汗をかきかき、水をガゾガブ飲んで、山を登っていたのでした。

 生れつき、ずぼらで、ぐうたらで、自分の辞書のどこを探しても「克己」などという文字のないぼくのことです。これはいかん、と思いながらも、これといったこともせず、気持だけは「そのうちにやったる。うんやったるで」と時々考えるだけでした。
 岩が昔みたいにスルスルと攀れなくなったり、何でもない所でビビッたり、というようなことはありましたが、まあ、決定的な支障はきたさなかったからでしょう。
 何回かカラコルムに出掛けて、その度毎に1〇キロほどやせたと喜こぶのも束の間、日本に戻ると直ぐ元に戻ってしまいました。
 六九年にスワット・ヒマラヤにゆき、その時に作った16ミリ映画の「ハラハリ」をみせに、東京の奥山プロに出向きました。
 「腹がでてきて困ってます」とぼくがなげくと、奥山さんは、
 「そんなこと気にしなくていいよ。腹などその気になれば直ぐへこむさ」
 と、なぐさめてくれました。
 「ぼくはね。岩登りを始めのは三〇を過ぎてからだよ。今はもうおもしろくて面白くて。夢中だよキミ」
 岩登りが少々こわくなってきていたぼくは、まるまる1〇歳も年上の彼からそういわれて、すこしあっけにとられたような、ちょっと白けたような複雑な気分で黙っていました。
 ぼくにしてみれば、若い時ならいざ知らず、岩登りなんぞ、そんなに血がたぎるほどのものでもなかったし、それに[その気]にならないことが問題だったのです。
 それから一、二年して、七一年に、ぼくはソ連のコーカサスに行くことになりました。それを知った、スワットの時の隊員のヤスダとナカムラが、ニヤニヤしながら、
 「東京の一流クライマーを引きつれて行かはるんでしょ。ちょっと位トレーニングしといてもらわんと……」
と、ぼくをコンピラに誘いました。
 正直いって、ぼくは気がすすまなかったけれど、後に引けません。ビビる気持をふるいたたせ、奥歯をかみしめ、肛門を引きしめて、膝のミシンを押さえながら、それこそ必死で、一日トップをつとめました。
 黙々と僕につづいていた二人は、帰り路、
「大丈夫ですやん。まだやれますやん」
とぬかしました。
 まあたしかに、ぼくもちょっとばかし、自信を回復したかも知れません。
 でも、そうかといって、コーカサスの岩壁を攀る積りはなく、[みなさんどうぞ気をつけて……]と隊員を送り出して、一人ベースキャンプの留守番をする積りでした。
 ところがどこがどうなったのか、一緒に攀りましょうよ」などと言われ、よく考えてみれば、もともと必死でこらえていたぼくのこと、ついムラムラとその気になってしまいました。
 そして全員で「シュロフスキー峰」と「シヘリダ峰」に攀ったのです。調子は、最高に近かったんです。
★★
 ソ連から帰ってくると、早速ぼくは減量にとりかかりました。ようやく[その気]になったのかも知れません。
 ソ連の[スポーツーマスター]どもに、そんな身体でよく攀れるものだと、変な所で感心されたのも少々のきっかけにはなったようです。でもそんなことより、五十代のクライマーがスイスイ攀っているのを目のあたりに見たのは、かなりショックでした。
 だいたいぼくは、海外にゆくといつも、何らかのショックを受けているようです。そしてその度毎に、自分の考えというか人生観・世界観……というといやに大げさでテレ臭いけれど、まあそんなみたいなものに新発見を加えたり修正したりしているようです。
 それにしても、これまでどうしても[その気]にならなかったということを考えると、やはり、コーカサスのショックは、その太陽の様に強烈だったのだと思います。
 さて、ぼくは、十二月までの三ヶ月半で一五キロの減量を計画しました。その時、体重は七八キロでしだから、年末には六三キロになるはずです。「ものの本」にも身長マイナス1OOX〇・九が標準と書いてありました。
 そもそも、あらゆる意味で、人間の身体は一つの平衡糸です。だから体重を減らすには、エネルギー消費を増すか、その取り込みを制限するかです。
 エネルギー消費を増すのは、これまでに少しは試みたけど失敗しているし、だいいちしんどいので止めました。そこで、食事のカロリーを減らす訳ですが、大宅壮一みたいに、コンニャクばっかり喰うと身体をこわします。ビタミンを含む野菜と、必須アミノ酸のもとのタンパクは必要です。
 そこでぼくは一日のカロリーを決めて、それ以上は、絶対喰わないことにしました。
 甘いものは一切禁止。コーヒーもブラックです。
 夕めしの時に、その日に食べた物のカロリーを計算します。そうすると残余のカロリーが出ますから、その分だけを食べる訳です。
 テーブルの上にはメモ用紙があって、それで計算しながら、日本酒を三〇〇グラムも飲んでしまったから、ごはんは、三〇グラムしか喰えないな、と正確に計量してから食べます。
 一ヶ月近く、全然変化がなかったので、カロリーのリミットをどんどん下げました。体育の教師で、ハイハイミスのおばちゃんが、
 「あんた、そんなん、基礎代謝をわってるやない。死ぬよ」
と、おどかしましたが、彼女自身は、まるでめすブタみたいに肥ってるんです。
★★★
 そのうちに効果があらわれました。一キロ減って〇・五キロ増え、また一キロ減って……という具合にだんだん減ってきました。
 成果が目に見えてくるというのは、何事につけ「はげみ」になるものです。でも、ぼくの空腹にたえる我慢も、そろそろ限界でした。やたらにイライラし、神経がキリキリになって、些細なことがやけに気になります。
 カロリーの計算は、カロリー表を使ってやるのですが、正確に分らないものがあるんです。たとえば、ミンチ肉。これは量をふやすために、脂身がごってりまぜてあります。その脂身の量が気になりだすともう気になって気になって……。
 ぼくは、京都中の目ぼしい店や百貨店に電話して「肉ひき器」を探しました。ようやく「犬丸」にありました。それからは、せっせとミンチ作りです。肉だけではなく、いかや、魚や、何でもかんでもミンチにしました。
 次はパン作りにこりました。大型のオーブンを買いに、問屋を走り回っていたら、お店の人が、
 「どっかにスナックを開くんですか」
と聞いたものです。
 フランスパンなどは直ぐに上手くなりましたが、クロワッサンにはかなりてこずりました。毎日毎日、パン粉をこねていましたが、後でよく考えたら、空腹とイライラを必死でまぎらしていたのです。
 直ぐに一ヶ月が過ぎ、体重は、予定通り、十キロおちていました。
 額にさわると、コチンと頭の骨を感じ、何だかおでこが固くなったみたいです。腹の皮は、中の脂が抜けて、ダバダバになって、「ちょうちん」をたたんだみたいです。
 これは大変と、ぼくは西京極のトレーニングーセンターにゆきました。トレーナーのミナミ先生が、肋木を使ってやる腹をしめる運動を教えてくれました。
 三ヶ月がすぎ、ぼくは六三キロのスラリとした身体になっていました。もう円満具足という顔つきではありません。眼がギラリとしてきたようでした。
★★★★
 しばらく会ってない人が見たら、別人と思う位の変わりようで、それはほんとにちょっとした変身だったようです。
 正月にスキーをしたら、ギャップで身体がフワーと浮くのです。ぼくは面白くなって、コブの頭ばっかりを狙って、ピョンピョン飛んでゆきました。それまでは、エレガンスを絵にしたようなスキーだったのが、もうメタメタの滑りです。
 聞いたところによると、そばで研修をしていた指導員の一人が、ぼくの滑りをみて、 「あの人、年がいってるみたいなのに、地元の子供みたいなスキーしてる」
といったそうです。全くの話、ぼくは、この新しい感覚に酔ったようになり、子供みたいにはしゃいでいたのです。
 服装も、前の背広はみんな、ダブルみたいになって、とても着れません。ジーンズをはくことにしました。
 何万もかけて誂えた背広とちがって、ジーンズは汚れを気にしなくてもよい。ぼくは、ひまさえあれば、人の自転車をかりて乗り回しました。
 そのうちに、単車がほしくなり、「カワサキのWI」を手に入れたんです。単車に乗るのは生れて初めてでした。なに、免許は、自動車のに付いていたんです。約一年間、このバカデカイ「バイク」に夢中になりました。
 若者が、「バイクは危いから止めて、四輪にしたんや」などといおうものなら、ぼくはすかさず、
 [ワシはなあ、三十のなかばで、生れて初めてバイクにのったんじゃ。いやあ、面白うて……]
そういうことにしています。
 当然、ぼくは人が変ったようです。他人がどういおうと、ぼくは、変ってよかったと思っています。
 そして、そうした変身のきっかけは、やはり「コーカサスのショック」だった。
 別に海外でなくても、何らかの意味で「ショック」を受けるような経験は求められるだろうし、ぼく自身、できることなら再度の変身を誘わないにしても、これからも「ショック」を求める山登りをやりたいと思っているんです。
                       (京都府立大学山岳部OB)

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