倭寇に関する補遺

 倭寇について納得できない感じが残り、調べることにしました。気になりだすと放っておけないのが、ぼくの悪い癖です。
 結論から言って、倭寇というのは、コリアやチャイナでの呼び名であって、実態は交易活動であったということです。
 最近では、是正されて来たのかもしれませんが、10年ほど前の中学の教科書などはひどかったようです。倭寇の活動範囲を「侵略地域」と記載していたそうです。
 チャイナには、もともと貿易という概念はなかった。この国の皇帝は世界の統治者と思っていましたから、外国という認識はなくしたがって外国との貿易など思案の外でした。
 コリアやベトナムから貢ぎ物が届けられると、それに対して皇帝陛下が何倍もの褒美を遣わされる。という感じのいわゆる朝貢貿易だけが公認されていました。
 明の時代には、太祖・洪武帝は海禁令というものを出しました。「片板も海を下るを許さず」と、人間はもちろん板きれも海に出てはならないというもの。海辺の人間は内地に移住させ、そこに軍隊を駐屯させました。
 そして、朝貢も厳しく取り締まり、例えば日本の場合ですと、10年に1度で船は2隻と決めました。これは、日本もチャイナも大迷惑だったのですが、足利義満に取っては結構なことで、10年に1度だけだったとはいえ、国書持参が必要でしたから、彼だけが貿易を独占できた訳です。
 
 この明の禁止政策をかいくぐって密貿易を行ったのが倭寇とよばれた貿易衆でした。こうした非合法の交易によって利益を得たのは倭寇だけではありません。チャイナもコリアの人たちも利益を得たのです。交易とはそうしたものです。それも並大抵の利益ではなかった。
 当時の明と日本とでは、銀の価値に格差がありました。日本では、銀はあまり価値がありませんでした。銀銭より銅銭が通用していました。銅銭250文で銀1両と交換できました。ところが明では、銀の方が重用され銀1両で銅銭750文の価値がありました。こんなうまい商売はない。倭寇は明に銀を持って行きました。
 そこで、銀1両500文で売りますといえば、それは安いと直ぐに買い手がつく。そして250文の儲けになります。運んで行っただけで、お金は倍になりました。相手方も同じように250文のもうけですから大喜びです。

 交易の利益は、これだけにとどまりませんでした。銀を売って儲けたお金で、チャイナの特産品を買って持ち帰って売るとさらに儲かります。当時の史料によれば、寧波で銅銭10貫文で生糸10斤が買えました。これを日本で売ると、銅銭50貫文になりました。5倍です。
 ということは、日本から銀を持って行けば、それは為替差益プラス貿易利益で10倍になるということです。とんでもない利益が得られた訳です。

 貿易船が集まる港は決まっていました。明の朝廷は密貿易を見過ごす訳にはゆきません。その地方の官僚や役人に取り締まりを命じます。しかしその地方の役人には、取り締まれるだけの武力も実力もありません。
 取引上のもめ事が起きても取り締まるだけの力もない。おまけに倭寇もチャイナの方もどっちも武装しています。ややこしくなったら海に逃げてしまいます。どうしようもない訳です。
 役人たちは困り果てました。そこで、言い訳の報告書を作ったのです。賄賂をもらったときも同じです。そこで彼らはでっち上げたものが「寇盗」という言葉だったという訳です。「日本人が勝手にやって来て、明から勝手に物品を奪い取っているけれど、素早く海に逃れるので捕まえられなかった」と報告します。
 こうした報告文書が、『明史』にはゴマンと載っていますが、いつ、どこで、何人の日本人が、どれだけを奪ったかなどについては、なんにも書いてないのです。それはでっち上げだから、そうなります。
 そうした記録の中に、面白い記録があります。「日本人は、せっかく商売に来ても一ヶ月もするとさっさと故国に帰ってしまう」。いかにももっといて欲しいというニュアンスです。きっと日本人は信頼されていたと考えられます。

 要するに、倭寇というのは、私貿易の業者のことであって、乱暴狼藉ものでも侵略者でもなかったということです。太祖・洪武帝の海禁令の結果、貿易商が犯罪者呼ばわりされたということだった。それが証拠に、明朝が海禁政策を廃止して廈門を解放して貿易港とした途端に、倭寇の記録はぱったりと途絶えたのです。
 倭寇の人々は、南方に進出して行った呂宗(ルソン)助左衛門や山田長政と同列に考えるべき人々であった。
 海の上では自分を守る為には武装するしかなかった。海賊はまた貿易商でもありました。これは洋の東西を問わぬ事実です。
 例えば、イギリスのキャプテン・ドレークは、スペインの無敵艦隊を破った英雄ですが、彼の場合、完全な海賊でした。スペインの貿易船を次々と襲って略奪を繰り返していた訳ですから、いってみれば、「倭寇」ならぬ「英寇」でした。
 そこで、イギリスの歴史書はドレークを暴力的な盗賊としているでしょうか。大英帝国の歴史的立役者となっています。教科書でもそう教えている筈です。

 倭寇の場合、キャプテン・ドレークと比べたら、遥かに平和的な貿易業者であった。倭寇の活躍は日本人の海外雄飛の物語であり、日本商社の活躍の先駆けであったというのが、ぼくが得た結論です。

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