日本の歴史教科書について(承前)

 少し前に、「日本史教科書、天皇は大王か」というタイトルで、歴史教科書について始めて書いた時のことです。
 「大王の系譜? それなに。少しむかついてくる感じです。」とか、「こんな常識みたいなことを、ねじ曲げてまで、大王と書くのは変だと思ったのです。」などと書きました。
 すると、これを読んだ人が、Facebookでこんなコメントを寄せて来ました。
 「この教科書の著者も、きっと先生みたいにむかつきながら書いたのだと思いますよ」
 ぼくは、これは一体なんのことだと思い、その意味が全く分からなかったので、こんど会ったら聞いてみようと思っていたのです。

 それはさておき、前稿の続きです。
 そこで述べたように、極めて政治的な動きの中で、1982年にいわゆる「近隣諸国条項」が教科用図書検定基準に挿入されました。
 「近隣のアジア諸国との間の近現代の歴史的事象の扱いに国際理解と国際協調の見地から必要な配慮がされていること」
 このまったく一方的で、二国間での取り決めではない、ある意味自己満足で手前勝手な馬鹿げた条文で、歴史教科書は大いにゆがめられ、自虐的な歴史観が再生産され続けて来たといえます。
 この頃の様子を、当時、文部官僚として条項導入に携わった元愛媛県知事の加戸守行氏は、こう語っています。「条項導入で、省内は中国と韓国に関する記述はアンタッチャブルですべて認めざるを得ないという雰囲気に陥りました。一方の教科書会社側は『削れるものなら削ってみろ』という勢いで自虐史観の記述を強めていき、明らかに条項導入前より過激になっていきました」

 こと中国・韓国との歴史関係の記述は、まったくすべて外国の立場に立ったものとなり、歴史の見方が日本国を主語としないものとなりました。日本国を主語としないということは、ではどこを主語としているのか。それはどこの国でもなく、地球であり、地球人の視点で、それをなんの違和感もなく受け取るのは、日本人ではなくて地球市民である。という非現実的な状況がいままで続いて来たといえるでしょう。

 韓国・中国は、韓国や中国を主語とした見解を「歴史認識」と称し、日本を主語とした認識を許さないという立場を取っているといえます。
 
 前稿の「伊藤博文射殺」表現の教科書を採択しないように、埼玉県の上田知事は訴えました。
 教科書は、学校ごとに自由に選び取るシステムになっています。これは、日本が間違った戦争をしたのは、国定教科書によって軍国主義教育がなされたからであるとの考えから、戦後は自由な教科書選択となった訳です。
 教科書会社が執筆者に依頼して教科書のひながた(白表紙本)を作る。これを文部省がチェックして、問題点を指摘する。教科書会社は、それを参考に訂正をし、問題がなくなったものを教科書見本となります。
 このチェックに関して、特に歴史や社会・公民などで、色々と問題が発生し、政治問題化し社会問題となりました。有名な家永教科書裁判は、高校日本史教科書の執筆者である家永三郎氏が、検定制度が憲法違反であるとして起こしたものでした。
 1965年の初提訴から終結まで32年のギネスブックものの永い裁判でした。だだしこの裁判は、沖縄の集団自決などが争点でしたから、「近隣諸国条項」とは直接的な関係はなかったといえます。

 ぼくは、化学の教師でしたから、「近隣諸国条項」にはまったく関係ありませんでした。
 しかし、教科書の選択はやっていました。教科書会社の営業の人がやって来ます。そういう人は、だいたい元教師だった人が多かったようです。手みやげを持って、かなり頻繁に学校を訪れ、四方山話をして、「よろしくお願いします」と言って帰って行きます。たしかぼくは、教科書会社がくれた扇子を使っていた記憶があります。
 教科書会社は、教科書作成の申請をして、白表紙本を作り、検定チェックを受けてから見本を作り、最終の採択を待つ。この間4年間を要する訳です。けっこうな先行投資なのですが、採択された場合は儲けは大きいが、駄目だったらそれで終わり。営業の人は必死だったのでしょう。

新歴史教科書 「近隣諸国条項」によって、自虐史観の歴史教科書が作られるようになって、これに対抗する動きが起こります。平成9(1997)年、「新しい歴史教科書をつくる会」が発足し、代表・西尾幹二氏のもと『新しい歴史教科書』を出版しました。これは、市販され話題となりました。しかし、これは中国・韓国から内政干渉ともいえる攻撃と国内の左翼勢力の総攻撃にさらされます。その結果、採択率は0.039%でした。
 0.039%とはいえ、この『新しい歴史教科書』は大きな影響を及ぼしたようです。
 自虐史観傾向のはなはだしかった大阪書籍や教育出版などは、全て採択率を減らしました。「自虐史観」の最も激しかった大阪書籍は、13.7%から5.9%へと採択率を半分以下に落とし、倒産してしまいました。
 日本を極悪非道に描く毒々しい表現は消えましたし、「従軍慰安婦」も注釈文は別として、本文に載せる教科書は少なくなったといいます。
 そして中学の歴史教科書のシェアに面白い変化が起こったそうです。大きなシェアを持っていた出版社が消えて行き、どちらかというと穏やかな表現をとっていた出版社が、いわば漁父の利を占める形で大きくシェアを伸ばしたのです。それは二つの出版社で、この2社だけで65%のシェアを占めることになりました。
 『新しい歴史教科書』は最近では、採択率4%となっています。(平成23年)
 ところで、この大きなシェアを持つことになった2社の教科書には、ある共通点があることを発見した人がいます。
 それは大月短期大学の小山常実教授で、彼の研究によれば、日本が古代以来、中国や朝鮮・韓国の下にあり、いつも両国の後塵を拝して来たという「中韓隷属史観」の傾向が最も顕著なのがこの二社の教科書だというのです。

 教科書を採択するのは教師なり教育委員会で、教科書の内容については、「近隣諸国条項」による文部省チェックの無力化と執筆者の史観、もっぱらこの二つによるものだと思っていました。
 ところが、今回調べてみて、実はそうではなかったということが分かったのです。原因は選択を行う教師側にあったのです。
 それを明らかにしたのは、大阪・枚方の中学の長谷川潤という先生が『正論』に書いた「教科書採択の内幕」というレポートでした。「教科書問題の本質は<検定>にあるのではない。もっと重要なのはどの教科書を使うのかを決める学校の<採択>にある」と述べたのです。
 教科書の選定は教育委員会が行うことになっていますが、実際は教育委員会から委託された教師サイドの選定委員会が採択を行う訳です。選定委員会のメンバーは現場の教師で、枚方においては全員が日教組や全教(全日本教職員組合)の組合員だそうです。
 彼らは教科書選定のガイドラインともいうべき文書を作っていました。それは、B5版203ページにも及ぶものでした。そこには、「大和朝廷の天皇のことは大王と書け」などと書いてある。
 この文書を、教科書会社が争って買い求めるのだそうです。

 この文書のタイトルは「1997年度用・中学校教科書検定資料ー反差別・人権の視点を教科書にー」大同協(大阪府同和教育研究協議会)編というもので、そこには驚くべきことが書いてあります。
 出版社は、これを執筆者に渡し、この内容に即して書くように頼むことになる訳です。そうしないと採択してもらえませんから。
【古代国家の成立と展開】
●大和国家の大王の位置づけが、皇室の祖先として強調されていないか。
●記紀の内容が、皇室中心の物語として改作されたことが明記されているか。
●奈良時代の農民の生活や労働と抵抗のようすが述べられているか。
【封建社会の形成】
●中世農民のたちあがりに関して、土一揆や一向一揆などが民衆の生きるための団結した戦いとして記述されているか。
【くずれゆく封建社会】
●封建社会に対する批判的思想(安藤昌益、司馬江漢)が、紹介されているか。
【植民地化の朝鮮】
●韓国併合が朝鮮の植民地支配を意味し、それに対する朝鮮半島での反対運動について記述されているか。
【第2次世界大戦と日本】
●15年戦争が侵略戦争として位置づけられる内容で記述されているか。特に南京大虐殺についての記述があるか。
●日本人による反戦、厭戦運動についての記述があるか。

 これは、隠された「教科書検閲」ともいうべきものですが、さらに「教科書の採点簿」もあります。
●大和国家の大王の位置づけが、皇室の祖先として強調されていないか。
B社ー大和政権が連合政権であったという記述が弱い。「大王が連続して天皇になった」という記述は正確でない。
D社ー「小国の王たちが、一人の王を中心にまとまった」という記述になっていて、大和政権が連合政権であったことの位置づけが不十分である。
●朝鮮人民の抵抗・独立運動がその都度明記されているか。
A社ー三・一独立運動のところでは、「今も人々に語りつがれている」と柳寛順を紹介し・・・・より理解を深めるための工夫が感じられる。
C社ー3ヶ月にわたってのべ200万人が参加した、と記されている程度で、朝鮮の人たちの気持ちや行動の具体的な内容が欲しい。

 こう書かないと採用しないぞという脅しを感じながら、執筆者は書くことになるのでしょう。
 あのFacebookのコメント、「この教科書の著者も、きっと先生みたいにむかつきながら書いたのだと思いますよ」の意味はそういうことだったのだ。ぼくは始めてその意味が理解できたのです。
 しかしこれは、特別な一例では決してなく、日本中そこここに見られることであるのは容易に想像できます。
 そんなに多くはないにしても、手元にある教科書見本だけでも、変に画一的な表現が見られるのは、このような隠れたテキストの存在に依っているではないかと思えるのです。あの「伊藤博文射殺」にしても、例示した5社全てがやけに似通っているのは、こうしたことに依ることは容易に推測できるのです。

 まだ、〆には至りませんが、この辺りで一応筆を置き、ではどうすればいいのかを次で考えてみたいと思います。

 

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