Wikipediaに「ラトック」を載せる

Latok1

Latok1

先日、中村亘くんが「Wikipediaにラトックの英文は上がっているけど日本語はありませんね」といい、掲載を薦めてくれた。英文のWikipediaのURLがメールで送られてきたので早速翻訳してメールで送った。
ラトック山群は、カラコルムの3大氷河の一つビアフォ氷河の支流・バインター・ルクパル氷河の奥に聳える岩峰群である。Wikipediaには、「全ての峰はその極端な技術的困難さにおいて特筆すべきであり、世界中の高々度における、どこよりも厳しい登攀がなされてきた」と述べられている。
 そこでは困難であるだけに多くのドラマがあったといえる。
ぼくが、この山群に注目したのは当時山登りの高級誌であった「岩と雪」25号に、そのとんでもなく華麗な岩峰と岩壁が掲載されたのを目にしたときからだった。

Latok2「岩と雪」25

Latok2 「岩と雪」25


 京都の攀り屋グループの「京都登攀倶楽部」がカラコルム遠征を企画しているというので、この素晴らしい岩の垂壁を持つラトック2峰を薦めたら、隊長を依頼され「雇われ隊長」を勤めることになった。1975年のことだった。
 海外遠征は、1965年のディラン峰遠征から数えて4回目だったから、いつもの通り府教委からの許可が難航した。まず数日の年休でパキスタンに赴き、ブリーフィングなどを済ませて帰国。夏休みを待って再度出かけることになったので、出発は本隊より1ヶ月遅れとなった。本隊は、全員海外は初めていう隊員ばかりだったが、ひとり教え子で1969年のパキスタンのスワット遠征に同行した中村達がマネージャーとして加わっていたから、問題はないと思えた。
 そういう訳で、ぼくは単身本隊を追いかけた訳である。同じ時、日本山岳会・東海支部の原真隊は、ラトック1を目指しており、ラワルピンディから一緒だった。よく一緒にミセス・デイビス・ホテルからフラッシュマンホテルの生ビールを飲みに出かけた。この時にあのソニーの森田昭夫氏に会ったのだった。森田昭夫氏に会った日
 また同じ時、ミセス・デイビスに戻ってきたイギリスの登山家・ドン・モリソンと大口論になったことがあった。彼がオーガ峰から失敗して戻ってきているのに、あんな山に登る気にならないとぼくが言ったのに、モリソンは激怒したらしかった。オーガというのは人食い鬼という意味で、その山容も全然美しくない。
 では、お前はどうしてラトック2に行くんだ、と訊くので、俺はあの山が美しいから行くのだ、と答えると、彼は椅子を蹴って立ち上がり、「なにぃ、美しいからだと。俺はあの山が俺に挑戦しているから行くのだ」大声を張り上げた。
そのドン・モリソンは翌年か翌々年、ぼくが失敗したラトック2に行き、クレバスにはまって死ぬ。

 スカルドから原隊に先行して、そこで雇った3人のポーターを連れて、ぼくは単身9日間のキャラバンの末、すでに登山活動に入っている本隊のベース・キャンプに向かうことになる。
 このとき、最奥の部落アスコーレ村までは、K2に向かうあのラインホルト・メスナーと後になり先になりのキャラバンを行うこととなった。あの頃は1週間かかったアスコーレ村までは、今では車が通り、数時間でいけるという。すべては、遠く昔のことなのだ。
 このラトック2遠征のことはよほど印象深かったと見え、「続・なんで山登るねん」にはいくつもの項に書いている。
◉”やらさぬブス女”にアタック ラトック峰を巡る運命の皮肉
◉初めてのバルトロ街道 ”あの”メスナーとの道行き
◉よその隊のポーター頭に助けられたタカダ式現地人交際法
◉パンチみたいなメスナーの握手 やはりただ者ではない
などなど。興味あれば読んでください。

 今日、中村くんが「できましたよ」と報せてきた。なかなかよく出来ている。ありがとうの電話をしたら、ラトック4の記録が入っていませんねという。ラトック山群にはラトック1〜ラトック4までがある。
 ラトックに最初に挑んだのは、名古屋の原真隊とぼくの京都登攀倶楽部隊で、1975年、それぞれラトック1とラトック2を狙ったが、いずれも成功しなかった。翌々年1977年、イタリアのベルガマスキ隊がラトック2を狙い、この山群最初の成功を収めた。
 ベルガマスキが、ラトック1についての情報を求めてきたので、友人の原真の言によれば、「やらさぬブス女みたいな、とんでもない山だ」と言っていたと伝えた。その所為かどうか、彼はラトック2を目指したようだ。
 ラトック4に関して、英文の記述には確かに1980年という初登頂年の記載はあるものの、その内容については記述がない。調べたら、「岩と雪」の詳しい報告があるので、加筆しようと思っている。
 ラトック4は、1976年にラトック1を目指した泉州山岳会が、このラトック4に転進したのだが、クレバスに落ちて1名が亡くなったらしい。
 ラトック山群では、1975年のラトック2当時、ぼくがパキスタンで聞いた話では、その時まで各国の5つの隊が挑み、6名が死んでいる。成功した隊は発表するが、失敗した隊のことはあまり知られないので、はっきりとは分からないのだ。
 いまこのラトック1の記載を見ても6名の登頂者のうち、3名はその後まもなく、山で死んだ。ラトック3にしても3名の登頂者も内2名は数年のうちに、やはり山で亡くなった。ほとんどみんな大変親しい山仲間だった。いま名前を見て、その人たちの顔が浮かんできて、なんともいえぬ茫漠たる想いにとらわれた。

Dassyutu ラトック4に登ったのは、1980年山岳同志会隊だった。つまり、ラトック山群4座のうち3座を日本人が登ったということだ。
 1977年のイタリア隊に続いて、1979年高田隊がラトック1、広島山の会がラトック3をおとした。後で聞いた話では、ラトック1の登山許可は、最初あのエベレストの南壁を成功し、サーの称号を得たクリス・ボニントンが得ていたのだが、あまりに危険過ぎるということで、キャンセルしたという。
 この1980年のラトック4では、凄まじい脱出劇が演じられた。大宮求隊長、彼は1975年の名古屋隊の隊員だったからぼくもよく知っている。彼と岡野隊員は登頂の後の下山中、ビバークするために山稜上に雪のテラスを作っている時、突如床が抜けて、クレバスに転落する。この50mの転落で、大宮は足首を骨折し岡野は胸部打撲で動けなくなる。
 その夜はそのままそこで過ごし、翌日大宮は這いずりながら横に移動。100m進むと明るい氷の壁に当たる。この壁の氷を4m掘り進むと、稜線にでることが出来たのだった。
 そこから、イザリながら下のキャンプに達した。残った隊員の担架に乗せられ、ベースキャンプに到着。そばにいたオーガを目指していたイギリス隊に救助を求めた。イギリス隊は快諾し、2日かかって現場に到着した。岡野は無事救出された。彼は、8日間耐えていたことになる。
 大宮は、ダグ・スコットを思い出しながら頑張ったと書いている。有名なイギリスのクライマー、ダグ・スコットはオーガで多分両足を骨折し、両腕で這いずりながら6日間掛かってベース・キャンプに辿り着いたという。

 それにしても、ラトック1は一人のけが人もなく、落石雨霰の岩壁を攀じ1次・2次の2回6名が頂上に達した。
 まったくもって八百万の神々の加護はもちろん、もっと近いところで、アラーの思し召しだったとおもう。
 だいたいこのラトック隊は、日本では極めて異例の隊といえた。「岩と雪」のTO FOREIGN SUBSCRIBERSには、ーAnd it may be a success by new kind of a mountaineering party in Japanーと書かれている。
 だから、通常でないぼくが個人的に集めた隊員、つまり混成部隊だったから内紛が起こると予想され、山では分裂する、いや出発の空港で分解するなどという下馬評もあった。
 対抗して、ぼくは、普通は秘密裏に進める準備活動の内容を、同時進行ドキュメンタリーとして「山渓」誌上に連載したりしたものだった。ぼくはこの登山隊のことを、公式報告として『山岳』の「ラトック1峰遠征を終わって」において「実験登山隊」と呼んでいる。
ラトック1遠征を終わって
 このWikipediaの「ラトック」はまだまだ未完なので、幽冥境を異にする山仲間を想いつつ、順次充実させたいと思っている。
「ラトック」でグーグって見てください。

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