妖怪という霊の住む島・日本

暑かった夏が過ぎました。あの夏に、日本では、特に東日本大震災の地で不思議な体験をした人が沢山いたようです。
あのとんでもない大災害で肉親を亡くしたり、最愛の子供を失ってうちひしがれていた人たちは、亡くなった人にあうことが出来たのでした。亡くなった人が眼前に現れ、励まされることによって、再び生きる勇気を持つことが出来るようになったといいます。
そんなバカな、という人も多いでしょう。
ある世論調査によれば、お化けや幽霊がいると思う人は二人に一人で、これは1979年の調査からあまり変わっていないそうです。
地域的な違いは、中・小都市や農村では減っている傾向があるのに反して、大都市部では増えています。年代別では若い人ほど、いると思う人が増えている傾向は変わらず、二十歳代では39%となっています。
霊魂や神、死後の世界などの存在について、そのような現象があると思う人は、ほぼ三人に二人となっています。いちばん多いのは「虫のしらせ」(39%)で「霊が見守る」や「死後の世界」などがこれに続きます。

ぼくたちは、ただ単純に科学を信じ、科学的に説明できないことを信じようとしない傾向があります。ぼく自身もそういう人の一人です。いわゆる近代合理主義は科学的に説明できないことは存在しないと切り捨てたり、幻覚や気のせいとしてしまいます。こうした考えは当然の流れとして「無神論」に行き着くことになると思います。しかし、不思議なことにほとんどの人は、科学を信じながらまた宗教の信者でもあるようです。
1965年、27歳で初めての外国のパキスタンに行った時、ムスリムのパキスタン人から「日本の宗教はなにか」と何度も聞かれました。ぼくは「シントーイズム(神道)」と答えました。ぼくはシントーイストであるけれど、死んだ時にはブディズムの作法で葬られることになっている。そう答えたものです。
先ほどの調査によると、「あなたは何か宗教を信じていますか」という問いに対し「信じている」と答えた人は29%で「信じていない」が三分の二を占めました。ところが、宗教を信じている人は3割たらずなのに、墓参りや初もうでなど、宗教的な行為をしている人は九割以上なのです。しかも増える傾向にあります。これは一体どういう事なのでしょうか。
神を信じないという人が、仏壇の前で手を合わせ祖先の霊に祈るという全く整合性の取れない現象が日本の津々浦々に見られるということになります。

若い頃から、ぼくは日本は古来から八百万の神が存在する神道の国であり、仏教がはいってきて混ざり合うといういわゆる神仏習合、神仏混淆の状況になったと思っていました。いわゆる八百万の神は『古事記』の神々であり、すべての事物に神が宿る状態で、いってみればそれは、自然であり「東洋的自然観」に根ざすものである。自然を人間に敵対するものとして捉える「西洋的自然観」とは異なる。敵対する自然は征服しなければならないが故に研究対象となり、そこに自然科学が生まれることになったのだ。
まあそういう説明を、高校の化学の授業でもしていました。近代科学が人類の存在を脅かすような存在になったいま、人間を自然の一部と捉える「東洋的自然観」が、非常に必要となっていることを認識する必要があるなどと、説いていたのです。

ところが、数年前から、この「東洋的自然観」などという考え方は、おかしいのではないかと思い始めました。チャイナに東洋的な自然観はあるのか。韓国・朝鮮にそんな自然観はあるのか、どうやらそんなものはないようなのです。
ぼくが「東洋的自然観」と考えていたものは、じつは「日本的自然観」だったのではないか。そう思い至ったのです。
日本人の自然観はまことに日本的で日本独自のものだと思えるのです。その日本的自然には、『古事記』の山幸彦・海幸彦を始めとして多くの神々が住み、物の怪や精霊も住んでいました。日本は「妖怪の住む島」だったといえます。
最近の産經新聞の報じるところでは、「首相公邸に幽霊「承知せず」との答弁を閣議決定」というのがありました。首相公邸に幽霊が出るとの噂が広まったので、こうした閣議決定が成されたといいます。幽霊が出る出ないを閣議決定する国が日本なのです。

鳥山石燕『画図百鬼夜行』のひとつ「高女」。このような画が100以上描かれている。

鳥山石燕『画図百鬼夜行』のひとつ「高女」。このような画が100以上描かれている。

日本は昔から、いってみれば、妖怪の国あるいは霊の国であり、お化けや幽霊が住む国だったのです。最近、江戸時代に「妖怪ブーム」ともいえる現象が全国的に起こったということを知りました。それは、ちょうど八代将軍吉宗の「享保の改革」の頃でした。このころ、日本人の知的好奇心は大きな高まりをみせていました。安永5年(1776)年、狩野派の絵師・鳥山石燕による『画図百鬼夜行』が出版され、これがこの空前の「妖怪ブーム」の火付け役を果たしたようです。この『画図百鬼夜行』は、いってみれば、妖怪図鑑みたいなものでした。Wikipedia絵図百鬼夜行
江戸での「特産物博覧会」には、各地の妖怪が登場したといいます。
パリでは「日本の妖怪展」が催されたりしたのですが、ヨーロッパ人には全く理解されなかったといいます。つまり、フランスでは「モンスターは友達とは思えない」となったようです。ところが日本では友達であり、一緒に暮らしたり結婚したりもする。それは、「雪女」や「座敷わらし」その他諸々の民話の妖怪を考えれば、容易に納得できることでしょう。
こうした日本の民話に注目したのは「小泉八雲」でした。また、「終戦のエンペラー」の、八雲マニアを自認するボナー・フェラーズは、日本を理解するには八雲の作品を読めばいいといっています。
ところで、この「妖怪」という言葉ですが、これはあくまで学者の命名です。では実際は何なのか。それは、「説明のつかないもの」の総称であるということだと思うのです。
近代から現代まで、世界は、真か偽かだとか、使えるか使えないかとか、そういう合理主義のもとに進行してきました。そしてそうした近代合理主義は多くの矛盾と非合理を生み出し、行き詰まっているといえます。それはまた、「説明のつかないもの」を排除してきた結果といえるのではないでしょうか。

平田篤胤

平田篤胤

さて、江戸時代のあの「妖怪ブーム」とともに現れた偉大な思想家がいました。それは「平田篤胤」です。
現在の秋田県に生まれた平田篤胤については、来歴はあまり明らかではないのですが、20歳のとき出奔し江戸に至ります。そこで猛烈に勉強します。研究の対象は、仏教・儒教、蘭学、暦学、医学、オランダ語からロシア語まで、全く信じられないことです。おそらく、あの南方熊楠のような天才だったのでしょう。すべては独学でした。それを可能にしたのは、当時の江戸にはそうしたあらゆる分野の書物が存在したということだったと思われます。彼はまた「地動説」を唱えたりもしました。
こうした勉学の結果、彼は一つの結論に至ります。それは、外国の考えは大したものではないということだったのです。
彼は百二十冊の本を書いているのですが、その一つ『霊の真柱』で次のように述べています。
ある人が尋ねました。世の中のあらゆる物は産霊神(むすびのかみ)の神霊(みたま)が生み出したと言いますが、その産霊神は、また何神の御霊によって生まれたのですかと。
それは、伝えがないので、知ることはできない。これのみでなく、神代のこと、また常の世の中の事のなかにも、その道理もその事も、計り知れないことがたくさんあるのです。しかしながら、その知りがたいことを、強いて知ろうと思い、また物知り顔に、とかく推量で言うのは、みな異国の道の定めです。

彼は、外国の学問はインチキだと考えました。そこで、日本に根ざした学問を打ち立てようとします。そして私淑したのがあの『古事記』研究で名高い国学者「本居宣長」でした。勝手に、それは宣長の死後2年のことだったのですが、本居宣長の弟子を名乗ります。
儒教や仏教のものだったこの世の中の価値観はどこか間違っている。彼はそう考えました。西洋人はどうもずるいと気付いた訳です。最後の最後で分からないところに行くと、西洋人は造物主・神を持ち出す。その西洋人が神を持ち出したところで、彼らは思考停止する。自分はそうした考えの彼方へ行こうと考えたのです。
宣長の弟子からは、そんな弟子は知らないという異議が唱えられました。しかし平田篤胤の教えは、その先進性と民俗信仰に根ざした分かり易いものだったので、彼の弟子は増え続けました。そして、国学での平田派を形作ることになりました。

彼は、死者の行方についてこう説きました。
民間の信仰とは、民間での死者霊は、祖霊棚若しくは仏壇に留まり、墓地にも安らうと考えられている。祭り手のない場合には、巷にさまようとされるが、浄化されて祖霊となると、山又は常世に鎮まり、招きをを受けて子孫の許を訪ねて来るとするのが、一般の信仰である。(『新鬼神論』)。こうした平田派の考えは、仏教に対抗できる論理でもありました。
また、本居宣長によると、死者は「黄泉の国」に行くものとされていました。しかし、平田篤胤は死者は黄泉の国ではなく、「幽明界」に行くとしたのです。
どういうことかというと、「幽明境を異にする」などという言葉が、弔辞などでよく用いられるのを聞いたことがあるでしょう。幽界というのは死んだものの世界、明は現世です。つまり死者の世界と現世とに分かれたということなのですが、篤胤はこの二つの世界が混じり合った世界があるという世俗の信仰を取り込んだ独自の説を唱えました。
しかし、その独自性から幕府に危険視され追放されることになります。そして、郷里に帰って2年後に亡くなりまりした。

しかし、4000人を超える弟子が日本全国に散り、平田派の国学を農民たちに広めたのです。
平田派の思想は、庶民の中にあった霊魂観、先祖は帰ってくるというような庶民の中にある宗教観を意識して、これに日本の神話を重ね合わせたものでしたから、大変分かり易く農民に受け入れられ、広く日本に広まっていったのでした。
だから、マルクス教の歴史学者が説くように、鐘と太鼓や恩賜のタバコで、天皇を宣伝しなくても、明治維新のずっと前から、尊王の思想は農民の人々に広く行き渡っていたわけです。明治維新やそれに続く日本の民衆の思想は、明治政府の独断専行に引きずられたのだとは言い切れないのではないかとぼくは考えています。
国学者の思想は、国粋主義と断罪され、戦後は全く無視されてきました。しかし、それは大きな間違いであり、再発見して、日本の歴史を書き換えることが、日本の今後に必須のことである。そして、この霊の住む国の考え方を世界に広めることが、世界をよりよくする道であると思っているのです。

追記:

1973年出版。反日出版社ともいえる岩波書店ちゃんとした本も出している。

1973年出版。反日出版社ともいえる岩波書店、中にはちゃんとした本もある。

つい最近、YouTubeでこの夏の尖閣列島そばの海上での慰霊祭のことを聞きました。この米軍による民間疎開船攻撃事件については、この<葉巻のけむり>でも取り上げたことがあります。慰霊祭に同行した石垣島の霊媒といわれる人は、魚釣島の海岸線に約百名の戦死者の方々が海岸線に並んで笑っていると涙を浮かべて語ったそうです。
日本の暑い夏に多くの英霊の御霊は日本に帰り日本の今日を案じまた喜んだのでしょうか。日本人の信仰と、国柄を広く世界に知らしめることが、靖国問題は正しく内政問題であるという考えを理解させる方法ではないかと考えました。
この稿を起こすにあたりアマゾンで買った古本の『日本思想体系』は、4センチの厚みがありずっしりと重い大冊でしたが、値段はなんと600円でした。

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