『陸軍中野学校』を観る

 大分前に観た記憶があるのですが、今回改めて『陸軍中野学校』を観ました。チャンネルNECOで中野学校シリーズが連続で放映されたからです。
 このシリーズは、1966年〜68年のわずか3年の間に5作も作られています。主演はあの名優・市川雷蔵が一期生として、この有名なスパイ養成機関の卒業生を演じています。
 シリーズ5作は次のようになります。
 1.『陸軍中野学校』(1966)
 2.『陸軍中野学校 雲一号指令』(1966)
 3.『陸軍中野学校 竜三号指令』(1967)
 4.『陸軍中野学校 密命』(1967)
 5.『陸軍中野学校 開戦前夜』(1968)
 いづれも、大東亜戦争の勃発直前の状況を描いています。淡々と描かれるその白黒の映像は、不思議な緊迫感があって充分に引き込む魅力を持っています。
 1と3はYouTubeに予告編が上がっています。陸軍中野学校予告編(2分37秒) 陸軍中野学校・竜三号指令-予告篇(2分11秒)
 1966年といえば、敗戦から21年、サンフランシスコ講和条約から15年も経っていたとはいえ、東京裁判史観が日本を覆っていたと思える時に、どうしてこんな映画が作られたのか、興味がわきました。
 
 そこで、自虐史観のフィルターが掛かっていない戦争映画を調べてみました。それらを列挙すると以下の通りです。少し驚きました。
 •雲流るる果てに(1953)
 •潜水艦ろ号 未だ浮上せず(1954)
 •さらばラバウル(1954)
 •人間魚雷回天(1955)
 •人間魚雷出撃す(1956)
 •潜水艦イ-57降伏せず(1959)
 •あゝ特別攻撃隊(1960)
 •あゝ零戦(1965)
 •ゼロ・ファイター大空戦(1966)
 •あゝ同期の桜(テレビドラマ)(1967年4月〜9月・26話)
 •人間魚雷 あゝ回天特別攻撃隊(1968)
 •花の特攻隊 あゝ戦友よ(1970)
 この中で、ぼくの記憶にあるのは、最初の『雲流るる果てに』だけで、その時ぼくは、17歳の高校生だったはずです。恋人が特攻に飛び立ったその日、国民学校の教員の女性が、窓の外の夕焼け雲を見ながら、教室のオルガンを弾き続けるという哀感迫るラストシーンだけを不思議に良く覚えています。
 他は全く記憶にありません。大学に入ってからは、年間200日近くを山に入っていましたから映画を見る暇などなかったのでしょう。

 チャンネルNECOでは、いくつかが放映されたので、全部録画しました。そのいくつかを観賞しました。ぼくの世代には、その時代背景や実際のシーンはむかしを実感させるものですから、それなりに楽しめました。とはいえ、「同期の桜」を唱い、家族や恋人を守るために覚悟の出撃をする。そしてバックミュージックは「海行かば・・」というステレオタイプは避け切れてはいません。
 

なかなか迫力のあるタイトル

なかなか迫力のあるタイトル

「人間魚雷出撃す(1956)」では、若い駆け出しの頃の石原裕次郎が回天の搭乗員を演じています。回天というのは、有人魚雷で操縦して自爆するという、海の特攻兵器です。
 とはいえ、零戦特攻のように目視しながら突っ込むのではなかったようです。母船の潜水艦の甲板から離脱した後、目標からかなり離れたところで潜望鏡で目視の後、複雑な計算で方向進路を定め、潜水して突っ込む。目標を外したらそれまでで、脱出は不可能でした。
右端が石原裕次郎

右端が石原裕次郎

 最大の問題は、回天の潜水深度が80メートルしかなく、そのため母船の潜水艦がそれ以上の深度に潜水することが出来ず、爆雷の犠牲になることが多かったことだったようです。
 この映画でも、2隻の敵駆逐艦の執拗な爆雷攻撃にさらされ、浸水と酸素欠乏のため、乗員が全滅の危機に瀕します。裕次郎の出撃の要請を「優秀な君たちを死なすわけにはゆかぬ」と何度も拒否していた森雅之演じる艦長は、ついに願いを聞き入れ回天2隻の発進を許可します。攻撃は成功し潜水艦乗組員全員が救われるというストーリーになっていました。

HananoTokkou これらの映画は、すべてが零戦と回天のものですが、もう一つ「桜花」という特攻兵器があったことを、『花の特攻隊 あゝ戦友よ(1970)』を見て初めて知りました。

小型の航空特攻兵器で、母機に吊るされて目標付近で分離し発射される。その後は搭乗員が誘導して目標に体当たりさせる。


「桜花」 アメリカのワシントンDCのスミソニアン博物館
、イギリス・マンチェスターの産業博物館、コスフォードのイギリス空軍博物館に展示されている。日本では埼玉の入間航空自衛隊基地の修武台記念館にある。

 「桜花」というのは機首部に大型の徹甲爆弾を搭載した小型の航空特攻兵器で、母機に吊るされて目標付近で分離し発射される。その後は搭乗員が誘導して目標に体当たりさせる。
終戦までに11型が製造され755機生産されたといいます。桜花で55名が特攻して戦死した。専門に開発され実用化された航空特攻兵器としては世界唯一の存在と言われる。
 こうした情報は、WiKiに詳細に記述されています。
 少し前に比べると情報は比べようもなく詳しくなっていると思います。たしかむかし調べた記憶では、回天に関する記述は極めて不条理な兵器であったことだけが強調されていたように思うのですが、現在では全ての攻撃記録とその戦果が列記されています。
佐藤守元空将

佐藤守元空将

 先日のプライムニュースに登場した元航空自衛隊空将で、チャンネル桜の常連の佐藤守さんによれば、特攻の効果は必要以上に貶められ、意図的に効果がなかったと過小評価されているが、決してそんなことはなくそれなりの効果も戦果もあったということです。

 敗戦からの7年間の占領期間はもちろんのこと、講和条約締結後もGHQの日本弱体化計画で、悪い戦争のイメージが刷り込まれもっぱら反戦映画一色だったとぼくは思い込んでいました。もちろんそうした映画も沢山あったのですが、こんな日本の特攻を描いたものが沢山あったということは、ぼくにとって大変意外だったのです。
 こうした映画は、だいたい50年代60年代に集中して制作されています。そこで、その頃の時代背景を調べてみることにしたわけです。
 1950年には、「サンフランシスコ講和条約」が調印され、翌年発効します。連合国と講和したわけで、ここで初めて日本の戦争は終わったということです。1945年の「ポツダム宣言」受諾によって、帝国軍隊は無条件に降伏して戦闘は終わったのですが、戦争は終わっていなかった。GHQによる占領が続いていました。それが、この講和条約調印によって連合国との講和が成立し、日本は主権を回復し、まともな主権国家となったわけです。君が代を唱うことや国旗の掲揚が許されました。

 1950年は画期的な年でした。朝鮮戦争の勃発です。
 前年にはGHQでも大きな変化がありました。ケーディスやホイットニーなど、かなり共産主義がかった(コミンテルンの手先という人もいる)民政局のスタッフが赤狩りのウィロビーなどに取って代わられます。50年にはマッカーサーは共産党幹部の追放を命じ、幹部は地下に潜りました。
 日本の敗戦によって解き放たれたいわゆる「曳かれ者」たち、あるいは「戦後利得者」たちは面白くなかったでしょうし、コミンテルンを信奉する人たちは、巻き返しを計ったと思われます。その結果、「血のメーデー」事件を始め相次ぐ騒擾事件が多発しました。各地で基地闘争が始まります。政府は、「破壊活動防止法」いわゆる破防法を公布しました。
 市井では流行歌がはやり、伊藤久雄、大見俊郎、淡谷のり子、灰田勝彦、ディックミネが唱いました。またテレビ元年といわれる時期で、テレビが普及を始めます。
 李承晩ラインがひかれ、竹島が奪い取られますが、人々はジャズに興じ、花菱アチャコの「お父さんはお人好し」に笑い転げていました。
 力道山ブームと軌を一にして、復古調の波も訪れたともいわれていました。
 神武景気をへて、高度成長期を迎えた日本はいわゆる55年体制に入り始めます。保守合同により自民党が結成されます。
 警察予備隊(後の自衛隊)が作られました。海上自衛隊や航空自衛隊は旧軍人が追放を解かれて復活しましたが、陸上自衛隊には旧陸軍軍人は加わることが許されなかったようです。いずれにしろ、唯一アメリカに対抗できた強力な軍隊の遺伝子は自衛隊に入ったと考えることが出来ると思います。

 池田内閣の所得倍増計画が発表されます。ヴァンデルベルデの「性生活の知恵」がベストセラーとなり、インスタント食品が生まれ、「家付きカー付きババア抜き」なる言葉が流行る中で、日本国中安保闘争の嵐が吹き荒れていました。
 これくらいにしますが、日本は大変元気な時代だったといえると思います。そのなかで、今話題にしたような映画たちが生まれた。そういうことだと、かなり勝手に推論した次第です。
 そころが、これは一時的な現象に過ぎず、その後に日本は、デフレの進行とともに、真っ当な歴史観をどんどん喪失して行ったのではないか。そんな風に感じられるのです。
 祖国の存亡をかける一途な思いで、身命をなげうった二十歳にもならない若者たちの魂を安らげる為には、自分はどうあるべきなのかを考えることが、三島由紀夫が予見した豊かで空虚で無色な小国から脱皮する方法ではないか。そんな気がしているのです。

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