大東亜の動乱

 今日のテレビの番組でザ・プロファイラー「なぜ殺し合いは起きたのか?ポル・ポト 姿なき独裁者」というのを見ました。クメール・ルージュやポル・ポト、あるいはキリング・フィールドなどなどこの事件を扱った番組は数多く、いくつも見ています。
 しかし、その凄まじさに改めて驚きました。世の中「イスラム国」で大騒ぎしていますが、わずか3年間ほどで100〜200万人というその規模からいってもそんなものではない。さらに驚いたのは、当の首謀者のポル・ポト(本名サロト・サル)が、ことが発覚した後も終始にこやかで、70歳でなくなるまで、そんなに多くないでしょうとその大量虐殺を認めなかったことでした。

 彼は決して悪人ではない。万人が幸せに暮らす國を作ろうと夢見た。この点はスターリンも同じですし、毛沢東も変わらない。彼らはみんな理想主義者で、科学的な思考を信じ、唯物論を求めました。唯物論と共産主義が間違いだったといえます。その結果は大量殺戮という結果を生んだのだと思うのです。
 ポル・ポトは自分のことを貧農の出でお寺に入ったと詐称していましたが、本当はちゃんと学校を出て、フランスに留学しています。そこで共産主義に染まります。このフランス留学が問題だったかもしれません。天安門でけっこう多数の中国人民を殺した鄧小平もフランス留学組です。

 唯物論からいえば、人間は死ねば物体ですからどんなことでも出来ます。南京大虐殺などは、どんなことがあっても、死者を敬う日本人に出来る所業ではない。
 唯物論は駄目なら、では唯心論でなければいけないのかというとそうではない。ともかく、一つのイデオロギーとか主義に偏重し突き詰めることが問題だと思うのです。
 この番組に出ていた田原総一郎は、安倍政権を暗喩してか、政治家が早く結果を出そうとするのはとても危険だ。民主主義というのはすごく面倒くさくて時間がかかるものなんだなどと、惚けたようなことをいっていました。民主主義を求めた「アラブの春」がいまの中東の混迷を引き起こしたことを知らんのか、と思いました。

世界の過激組織のある國

世界の過激組織のある國

 中東・アラブの動乱、「イスラム国」は案の定リビアに飛びました。たぶん次はナイジェリアのボコ・ハラムが名乗りを上げるでしょう。
 他にもシリア・イラクの「イスラム国」に賛同する組織は図のように15ヶ国29組織にのぼるそうです。
 この地図を見て、少し驚いたのです。これって、大東亜戦争で独立した國ばかりではないか。

 先日、郷里の田舎に帰った時、父親の本棚で『愛国心の目覚め』という本を見つけました。1962年刊で390円。<独立と自由のために>という副題がついており、文学博士田中卓著となっていました。パラパラと読んでみたら、これが凄いんです。その内容について書かねばと思いながら日が経っていたのです。
 大東亜戦争は領土的野心による侵略だといわれていますが、それは日本を貶める言い草だとぼくは思っています。後付けのいい訳だと言われますが、やはり白人のアジア・アフリカの植民地支配に異を唱えるものだったことは、その後の歴史が証明しているといえます。

 日本は「八紘一宇」のスローガンを掲げ、大東亜戦争を戦った。この「八紘一宇」というのは、日本書紀の「掩八紘而為宇」から取られたもので、天下(八紘)を覆って一つ屋根(宇)と為す。つまり世界をひとつの家のようにしようという意味で、人間みな兄弟という考えです。大東亜戦争の「大」は、大英帝国などの大と異なり、東亜の範囲をもっと広げたという、つまりBiger East Asiaという意味で、アジア・アフリカを指しているのです。
 戦争を始めた日本は、アジアの植民地を解放してゆきました。次のようにです。

1942年2月15日 シンガポール(英国領)は日本軍により完全占領さる。
1942年3月9日 オランダ領東インド諸島軍は日本軍にたいし全面的無条件降伏す。
1943年6月16日 日本政府は、フィリピンの独立、および東インド諸島(オランダ領)原住民の政治参与保証の声明を行う。
1943年7月4日 日本に来訪中のチャンドラ・ボーズがインド独立連盟の会長となり、翌5日、インド国民軍が結成。
1943年8月1日 ビルマ(英国領)が独立宣言を発し、米英に対して宣戦を布告。
1943年9月5日 日本はジャワ(オランダ領)の原住民に政治参与の諸法令を公布。
1943年10月14日 フィリピン(アメリカ領)は共和国として独立宣言を行う。翌年9月23日、米英に宣戦布告。
1943年12月8日 日本は東インド諸島(オランダ領)の原住民に政治参与の諸法令を公布。
1944年9月7日 日本はインドネシア(オランダ領)の独立を確約。
1945年3月11日 安南帝国(仏領)独立を宣言。いまのベトナム。
1945年3月13日 カンボジャ王国(仏領)独立を宣言。

 上の地図の右下の島々からイギリス・オランダ・フランスを追い払い、独立を助けたのですが、これは1943年11月に東京で開かれた大東亜会議での「大東亜共同宣言」に盛られた文言を実行したに過ぎないのです。
 この宣言は、欧米を激怒させたのですが、その内容は次のようなもの(わたしの意訳)でした。
 <そもそも世界各国がその場所々々で、寄り添い助け合って万国ともに栄えるのは、世界平和の根本である。ところが、米英は自国の繁栄のためには他国家・他民族を抑圧し、特に大東亜に対しては徹底的な侵略と搾取を行い、大東亜を隷属させる野望を膨らませ、ついには大東亜の安定を根底より覆そうとした。大東亜戦争の原因はここにある。>
 だから、ここに集まった大東亜の各国はあい携え協力して米英の桎梏から逃れようではないかという呼びかけでした。
 この「大東亜共同宣言」の主旨は、大東亜戦争終結後の国際連合における「植民地独立付与宣言」(1960年12月10日)に引継がれたといえます。
 この時、賛成89、反対0で全員一致と見えますが、棄権が9ありました。
 その九つはといえば、主要宗主国であるアメリカ合衆国、イギリス、フランス、ベルギー、ポルトガル、スペイン、南アフリカの7ヶ国とオーストラリアとドミニカ共和国でした。
 アメリカ、イギリス、フランスなどの口惜しさが読み取れます。これらの国々は、大東亜戦争で植民地を失ったけれど、品を変えた植民地的支配を続けたと言えます。それは、簡単にいってしまえば、金融資本主義などを根幹とするグローバリズムでいまに続くものでした。

 大東亜戦争を太平洋戦争などと呼び変えるのは、明らかにおかしいというのは、明白なことだと思います。しかし、そうなってはいない。自虐史観とか東京裁判史観とかいわれますが、問題は大東亜戦争であってこれの本質を、その後の歴史に照らして正しく捉えない限り、日本国のまともな姿は見えてこないのではないか。そう思うのです。
 独立を助けられた国々の元首は、それぞれに感謝をこめての評価のコメントを残しています。しかし、そうしたれっきとした文書が学校で教えられることは、決してありませんでした。
 ここに引きたいのは、先の『愛国心の目覚め』に引用されている、有名なイギリスの歴史学者、アーノルド・トインビーのものです。
 まことに見事に、本質をいい得ており、感動しました。

アーノルド・J・トインビー

アーノルド・J・トインビー

 第二次大戦において、日本人は、日本のためというよりも、むしろ戦争によって利益を得た国々のために、偉大な歴史を残したといわなければならぬ。その国々とは、日本の掲げた短命な理想である『大東亜共栄圏』に含まれていた国々である。今日のアジアにおいて、最も重大なる問題は、このくつがえされた日本の衣鉢を継ぐものは誰かということである。日本人が、歴史の上に残した業績の意義は、西洋人以外の人類の面前において、アジアとアフリカを支配してきた西洋人が、過去二百年の間考えられていたような不敗の半神でないことを明示したことにある。イギリス人もオランダ人も、フランス人も、そしてアメリカ人も、ともかく我々は皆、将棋倒しにばたばたとやられてしまった。そしてやっと最後に、アメリカ人だけが、軍事上の栄誉を保てたのである。他の三国は、不面目なる敗戦を記録したことは疑うべくもない。わずかにポルトガルのみがマカオと北東チモールに、西洋の旗を翻していたに過ぎない。英国陸軍が全面降伏し、シンガポールが陥落したという事実は、かうした歴史の一こまであって、もはや打ち消すことも、とり戻すことも出来るものではない。
(創文社刊、市村真一氏著『欧米の教育と日本の教育』所引の訳を補訂)

 歴史上の事実として、大東亜戦争後の植民地独立はものすごい。それはまさに壮観といっていい。すこし冗長になるかも知れないのですが、列挙してみましょう。
【アジア】
1945年
 ベトナム民主共和国(英)
1946年
 ヨルダン・ハジミテ王国(英)、フィリピン共和国(米)
1947年
 インド共和国、パキスタン共和国(以上英国)
1948年
 ビルマ連邦、セイロン国、イスラエル共和国(以上英国)、大韓民国、朝鮮民主主義人民共和国(以上日本)
1949年
 ベトナム共和国、ラオス王国、カンボジャ王国(以上仏)、インドネシア共和国(オランダ)
1957年
 マラヤ連邦、キプロス共和国(以上英)
1959年
 シンガポール国(英)
【アフリカ】
1951年
 リビア連合王国(イタリア)
1956年
 スーダン共和国(英・エジプト)、モロッコ王国(仏・スペイン)、チュニジア共和国(仏)
1957年
 ガーナ共和国(英)
1958年
 ギニア共和国(仏)
1960年
 カメルーン共和国、トーゴ共和国、セネガル共和国、マリ共和国、マダガスカル共和国(以上仏)、コンゴ共和国(ベルギー)、ソマリア共和国(英・イタリア)、ダオメー共和国、ニジェール共和国、オートボルタ共和国、コートジボアール共和国、チャド共和国、中央アフリカ共和国、コンゴ共和国、ガボン共和国(以上仏)、ナイジェリア共和国(英)、モーリタニア回教共和国(仏)
1961年
 シエラレオネ共和国、タンガニーカ共和国(以上英)
1962年
 ルワンダ共和国、ブルンジ王国(以上ベルギー)、アルジェリア共和国(仏)

 この独立のリストを見て、ぼくが感じたのはフランスがこんなに沢山の植民地を持っていたのか、という驚きでした。フランスという國に対してぼくは近年あまりいい感情を持てなくなっていました。それは、フランス革命という残虐なテロを行い、それを自由・平等・博愛などという装飾的スローガンで覆い隠したということ。もともとこのスローガンは、革命軍の自由・平等・連帯というスローガンでした。
 フランスという國は、少々のパルチザン抵抗もあったとはいえ、ナチスドイツにあっさりと降参していたにも拘らず、戦後の戦勝国連合にうまい具合に潜り込み大きな顔をした所は、支那・中国に似ています。余談ですが、韓国も戦勝国に加えてくれと頼んだのですが、あんたは日本と一緒に戦っていたのでしょうと拒否されたということもありました。

 トインビーが上記引用でいっているように「イギリス人もオランダ人も、フランス人も」がこの完膚なき敗北を認めざるを得なかったのですが、その怨念を70年後の今日に至るまで持ち続けているのではないか。ぼくはそう感じています。それは、今日の国連(国際連合)の状況や各種場面での日本バッシング、あるいは度重なるスポーツ国際ルールの身勝手な変更などに顕著に見られると思うのです。
 また国連の「敵国条項」は、日本国の度重なる要請にも関わらず、削除されることはない。「敵国条項」とは、第二次大戦において連合国の敵国だった國が軍事行動や侵略行動を起こしたときは、安保理事会の許可を得ることなく軍事的制裁を加えることが出来るというものです。これは主権国家に取っては考えられないことで、死文化しているともいわれています。ともかく、国際連合はいまなお戦勝国連合であり続けている。そう言えると思うのです。
 
 ぼくたち日本国民は、こうした大東亜戦争がもたらした世界の現実を全くといっていいほど知らされてきませんでした。その結果、正確に世界の情勢を見る目を失わされてきたと言えると思うのです。
 大東亜戦争以後の世界は、すべての植民地が解放されたにも拘らず、その植民地支配は手法を変えていまも続いているといえるのではないか。支配国グループの筆頭はアメリカです。資本主義は姿を変え金融に立脚するものとなりました。アメリカの庇護のもと驚くべき速度で復興発展を遂げた日本は、プラザ合意を迫られ、押さえつけられました。ようやく切り抜けようとすると、いわゆる近隣諸国によるでっち上げの歴史認識攻撃に晒されることになっています。
 英米は、いまも民族が結束して立ち上がるのを許そうとはしないかのようです。中東・アラブの地域でも同様で、サダム・フセイン政権を潰したのも彼が汎アラブ主義を持っていたからだと思うのです。その裏にはどん欲な石油利権がありました。アラブの春を引き起こしたのも同じだと考えられます。
 そして、今日のイラン・シリアの「イスラム国」の発生につながり、大東亜の混乱の拡大につながったと言えます。

 「今日のアジアにおいて、最も重大なる問題は、このくつがえされた日本の衣鉢を継ぐものは誰かということである。」。1956年10月28日
のオブザーバー新聞『支那からの小売商人』において、トインビーはこう述べました。
「日本の衣鉢を継ぐものは誰か」というのは、日本が掲げた民族の平等と世界平和の理想を誰かが引継がなければならないということでした。
 戦争に負けた日本にそれは無理でした。もし、負けずに対等な条件で講和していたとしてもやはり無理だったと思います。もしかしたら、欧米と一緒になって、アジア人を抑圧する側にたったかもしれません。
 もしかして、東亜・大東亜の国々と手を取り合おうとしても、極端な物言いかもしれませんが、アングロサクソンの飽くなき物欲と独善には抗すべきもなかったでしょう。そして、なにより、第二次世界大戦の後にはイデオロギーという厄介なものの対立があったのですから・・・。
 サンフランシスコ講和条約のあと、完全な自立を目指して、日本が核武装していたら・・・。それも無理。国連は猛反対し、推進派は次々とCIAに暗殺されたと思われます。

 燃え盛る大東亜の動乱は、簡単に収束するとは思えません。大東亜戦争の戦勝国は、その後の70年間の行いのブーメラン攻撃を受けているように思えてなりません。
 ぼく自身の感覚として、これまでの生活体験からして、アングロサクソンの人たちより褐色の肌を持つイスラムの人たちの方がより親近感を覚えます。その感覚は何かと考えると、生まれながら持つ死生観ではないかという気がしているのです。
 自然を神とし、万物に神が宿るとする八百万の神、先祖崇拝にも偶像崇拝はありません。日本人固有の宗教である神道は、イスラムと親和性があるのかも知れない。そんな気がしています。
 そうかといって、ぼくは「イスラム国」を認めるものでは決してありません。日本国は、先進国の一員として、振る舞う必要があるとも思います。我が国はまことに難しいアンビバレントな状況におかれているようです。
 まずは、軽々にアメリカに追随しないこと。たとえば、小泉総理はちょっと軽かった。ともかく自国をしっかり守ること。国民は一人一人、自覚して危険を避けること。誤って死に面してもあきらめないこと、そして、死を免れないと分かったら、覚悟して死ぬことだと思います。日本人にとって死に様は重要です。

 「イスラム国」なるものが消え去ることはないと思われます。アメリカがいうように何年かで壊滅したと思えても、地下に潜ったり、世界中の飛び散って生き続けるでしょう。テロの血しぶきは、あちこちで飛びちり、それはヨーロッパの30年戦争のような、あるいは100年戦争のような殺戮が繰り返され、何十年も後になって、ようやく国際連合が生まれ変わって、真っ当な働きをするようになった時に、ようやく世界の平和が訪れるのかもしれません。

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