乗馬の愉しみ(1)

受付で予約してあるレッスンでの馬匹名を知らされる。

受付で予約してあるレッスンでの馬匹名を知らされる。

 受付で乗馬料と保険のチケットを渡し、指定された馬・ブラックゼウスのいるC厩舎に向かっている時、アナウンスが流れた。
「まもなく、チャイムが鳴ります。追悼のため1分間の黙祷をお願いします」
 そうだった、今日は3月11日だったと気付いた。後で聞いたのだが、東北の厩舎でも多くの馬が溺死したのだという。
 チャイムが鳴った瞬間、みんなはそれぞれの場所で、それぞれの作業を止めて、黙祷した。手を合わせている人もいた。
 急に信じられないくらいの静寂があたりを支配した。耳を澄ますと、近くで馬の息づかいだけが聞こえ、遠くの方で馬のいばり(尿)の音が微かに聞こえていた。

 ぼくは乗馬クラブに通って乗馬レッスンを受けています。昨年、突然「馬に乗りませんか?」というDMが来て試乗を薦めていた。もうバイクもスキーも止めて数年になるし、家に引きこもってばかりではいけないと思っていた時だったので、早速試乗に出かけた。
 試乗が終わると、介添えをしてくれたお姉さんは、まことに巧みに入会をすすめた。
 「ちょっとぼくには高すぎるねぇ」
 「いえいえ。入会金も平日会員にすればだいぶ安くなります。それにシルバー会員は乗馬券も半額なんですよ」
 もともとその気があったぼくは、このお姉さんの口説きにやすやすと乗ってしまった訳である。あとでわかったのだが、ぼくは入会の上限年齢をかなり上回っていた。

厩舎棟

厩舎棟

 始めたのは昨年の4月の終わりがただったから、もうすぐ一年になる。
 このクラブは全国的に展開する日本では一番大きな乗馬クラブだった。場所は家から車で半時間ほどの所にある。馬場はいくつもあるし、指導員の数も多い。
 片側7つの馬房がある厩舎棟がA厩舎〜I厩舎まで、つまり14棟もあって、だから馬の数も120頭を越えている。
 始めてすぐの頃、<葉巻のけむり>に原稿を書こうと思ったのだが、いやいや100回くらい乗ってからにしようと、なぜか思ったのだった。もうすぐに120鞍(馬では回とはいわず鞍という)になる。だから、書くことにした訳である。

無口と頭絡

無口と頭絡

 レッスンは一回が45分と決まっている。しかし、レッスンを受けるためには、厩舎に行って馬に無口あるいは口カゴを付けてから、引き綱で引き出し、洗い場まで引き馬を行わないといけない。口カゴを付ける馬というのは噛み癖があるということで、要注意である。
 洗い場で、馬屋でついたゴミをブラシでとってから、鞍を付ける。鞍の下には、ゼッケン、ゲル、ボアという三つの緩衝用の充て具を置く。それから、腹帯を締めるのだが、ほとんどの馬は怒って噛み付こうとするから大変だ。鞍がついたら鐙の長さを自分にあったように調節する。鞍の装着が終わったら、頭絡を付ける。馬によってはこの頭絡についているハミと呼ばれる金具を咥えてくれないものがいる。頭を振ったり首を高く揚げて妨害する。慣れるまでは苦労した。
 後は、前後肢の足首に蹄鉄で傷をつけないようにプロテクターをまく。さらに、馬によっては目出し帽のようなメンコをつける。これは、音に敏感な馬用の一種の耳栓である。
 こんなこと、いわゆる馬装をやるのに半時間はかかってしまう。

洗い場

洗い場

 レッスンが終わって、再び洗い場に帰って来てからも色々と作業がある。鞍を外し、プロテクターを外す。これは簡単だ。次に頭絡を外し、口カゴあるいは無口をつける。これが大変で、頭絡を外した時には、馬の頭は裸になる。最初の頃は、大変苦労したものだった。
 一番大変だったのは、「裏掘り」と呼ばれる作業だった。これは蹄鉄の裏の窪みに詰まった砂や泥を裏掘り用の金具で掘り起こし掃除するものだが、馬が脚を上げていてくれないし、下手をすると蹴られてしまう。
 長い間、かがみ込んだりしゃがんだりという作業をしたことのないぼくにとっては、慣れるまではとてもつらい仕事だった。おまけに緊張してつい息を詰めていたりすると、貧血が起こって立ちくらみのようなことが起こったりした。
 冬の間は、防寒のために馬には馬着という服を着せないといけない。そしてようやく厩舎に戻すことになる。戻した後は、鞍や頭絡をロッカーに運び、そして洗い場の清掃をしてようやく馬レッスンのプロシージャーが終わりになる。
 そういう訳で、一つのレッスンで大体2〜3時間はかかるのである。

ロビーの外に椅子と机があり、レッスン後の汗ばんだ身体を冷やすのは、まことに至福の時と感じられる。

ロビーの外に椅子と机があり、レッスン後の汗ばんだ身体を冷やすのは、まことに至福の時と感じられる。

 乗馬に関して、自分はけっこう慣れていると勝手に思い込んでいたぼくは、この最初の馬装で自信を砕かれた。考えてみれば、そんなことは全然したこともなかったのである。まあいってみれば「大名つり」みたいなもので、自分では針に餌は付けず、釣れた魚を外すこともないということで、いつも馬は馬装を終えていたし、自分で馬装を解くこともなかったのだ。
 前準備は別として、本番の乗馬に関してはけっこう自信があった。なにしろギルギス族のパオ(包)の村では、彼らの裸馬に乗っていたのだから、などと思っていた。
 しかしこの手前勝手な自信もすぐに揺らいだ。
 レッスンはこんなカリキュラムになっている。まずはベーシックCから始まり、ベーシックB、ベーシックAと上がってゆく。
 そして、次はベーシック馬場になる。ここまでは、レッスンの半時間前に集合と点呼があり、それから一斉に洗い場に移動するのだが、ベーシック馬場になると、集合も点呼もなくなる。勝手に準備し指定された馬場に向かう。
 これまで、助けてもらっていた腹帯の増し締めも鐙の長さ調整も馬上から自分でしないといけなくなった。
 そして、いよいよ駈け足が出来るベーシック駈け足Bになる。ぼくは今この段階で、ようやく駈け足が出来るようになった。という訳で、今までの経過を書いてみた。その他のことは次に書こうと思っている。