幽明界を異にしたセキタとハヤシドクター

少し前のことだったが、ほとんど音信不通だったバンコックにいる教え子が、電話してきた。
なんのことかと思ったら、ずっとセンセのブログの更新がないので、心配になりましたという。
確かにとんでもなく長く書いていないと気づいた。

昨年暮れに関田が亡くなった。
すぐに『葉巻のけむり』に書き始めたのだが、十数行書いて思いとどまった。その記述はあまりにも冷静なものではなかった。これはいかん。少し時間を置く必要がある。そう思っているうちに年があけた。
すると今度はドクターのタカヒコが後を追うようになくたった。彼とは2ヶ月ごとに会っていて、暮れに会ったときには、「2月まではもたんやろな」と言うので、そんなことないと思うで、と返した会話が最後となった。
これで、ブログの執筆はまた延びることになった。
そうこうしているうちにウクライナの侵略が始まった。近平がおんなじことをすぐにやるとは思えないけれど、これを一つのシミュレーションとして見ている可能性がある。とすれば、経緯や思惑はどうあれ、プーチンには絶対に勝たしてはならない。近平に変な手出しをしてはやばいと思わせる必要がある。さもないと日本が危ない。
そう思って、推移を追い続けているうちにどんどん日が経ってしまったと言うわけである。

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セキタが亡くなった。
彼が大学一年生の時からの付き合いだから、とんでもなく長い時間になる。
大学の山岳部に入部してきたのが、彼との付き合いの始まりだった。そのときぼくは山岳部のリーダーだったから、彼はぼくのことを「タカダはん」とよび、ぼくは「セキタ」と呼び捨てにしていた。ぼくの母親は「年上なのにそんな呼び捨てにしたらあかん」とよく注意したものだったが、二人とも全く意に介さなかった。それが山岳部の習わしだったからだ。
最初の夏山合宿は剣岳で、「チンネの左稜線」や「剱尾根」など新人には無理かもしれないルートを一緒に登った。
合宿後半の縦走は薬師岳を越えて、黒部源流で解散し、新人はその後単独で好きなルートで下山することと決めた。

いつものことなのだが、合宿の後は、いつも一人になりたくて仕様がなかった。だからこの時もぼくは一人、その黒部源流の祖父沢の出会い(合流点)に居残ることにしていた。
「タカダはん、ぼくも残ってよろしいか?」と申し出たのが、セキタだった。
米と塩とマヨネーズの瓶(当時はプラスチックの容器などなかった)だけが大量に残っていた。二人は手づかみにした岩魚数匹とマヨネーズで数日を過ごし、出会った地元の釣り師から貰った毛鉤とテグスで釣りを試みた。竿は岳樺の枝を使った。生きるための必死の釣りともいえた。3日ぐらいで少しは釣れだし、一週間ほどすると、何キロも釣れた。
セキタとぼくは、てんでに釣りをやり、流木で豪勢な焚き火をし、飯盒の飯と岩魚の塩焼きを腹一杯食べて、テントに入らず、柔らかな草のしとねに横たわり、そのまま眠った。
目を覚ますと満天の星の位置が変わっているのがよくわかった。
ぼくとセキタはずっと一緒だったが、話をすことはほとんどなかった。ただ無言で、焚き火の炎を見つめていた。ときには一緒に歌を歌った。

この黒部源流祖父沢出会い(本流との合流点)の一週間が癖となったのか、セキタはいつもぼくに同行するようになった。卒業してからもそれは変わらなかった。当時ぼくはよく東京に行ったが、その時もいつもセキタが一緒だった。その所為か、ぼくたちはホモではないか、タカダナオキには実はゴーストライターがいて、それはセキタなんだなどと言う噂がまことしやかに囁かれたりしたこともあった。
ぼくに続いて卒業したセキタは中学校の生物教師になった。間も無くぼくは結婚し、すぐに一姫二太郎をもうけた。そうなっても彼のぼくへの密着は変わらず、ぼくより以上に子供の面倒を見てくれた。家内の言によると、うちの子供を育てたのはセキタさん、お父さんではない。そう断言している。
自説を述べず、人の意見をただ聴くと言う振る舞いはある意味人望があるともいいうる。特に対立しているグループがある集団などでは、どちらの派からも味方と目され担ぎ上げられたりする。彼が苦労もせずに早くして教頭になったのは、そんなことなんではないかと勝手に考えたりしていた。

カラコルム登山の現地情報を得るための基地の必要性から、ぼくは彼にパキスタンの日本人学校への転出を勧めた。その結果、パキスタンではなくクエートの日本人学校の教頭に任じられ、船でクエートに旅立った。
彼がクエートにいる間、ぼくは2度の海外遠征登山を行った。1975年のラトックⅡと1979年のラトックⅠである。このどちらにもセキタはベースキャンプまで慰問に来てくれた。お土産は生きたまんまの山羊や鶏だった。
クエートの一人暮らしで、給料がどっさりあって困ったらしく、「タカダはん、お金要りませんか。円でもドルでもディナールでもなんぼでも上げます」と言った。貰うわと言ったらよかったと、後で後悔したことだった。

ラトック1の帰り道、ビアフォー氷河の凍雪の上を足早に降りながら、セキタは「タカダはん、クエートに来ませんか」と突然言った。そしてぼくは下山してすぐに帰国せずにクエートに回ることにしたのだった。それには理由があった。
ラトックⅠという名だたる難峰を落としたのだから隊長のぼくはマスコミに大きく取り上げられる。それはぼくにとってまずいことだった。マスコミで有名になるとその先には死がある。これがぼくの固定観念となっていた。数多くの例を見てきていた。だから新聞社からの帰国予定日時の問いかけにも答えず、テレビの出演も避けたのだった。

セキタとぼくはほとんど間断なく会いながら、議論したり語り合ったりすることはほとんどなかったし、ぼくに異を唱えることなどなく、ただ一緒にいるという感じなのはずっと昔の黒部源流のあの時と変わらなかった。
しかし、よく考えてみると、一度だけ彼が激しくぼくに反対したことがあった。あれは例年のようにいつものグループで、北海道のニセコスキー行っていた時のこと。たしか話題が北方領土のことになった。その時ぼくはこんなふうに言ったと思う。
日本はあの国は不可侵条約を破ったとんでもない国だというのが一般常識だ。でももう昔のことは水に流して、もっと友好的になってもいいのではないだろうか。
その時、セキタが激しい口調で、それはあかん。絶対だめや。あんなとんでもない国はないんやでと喋り始めたのだった。彼は小学校で敗戦を迎え朝鮮半島から引き上げてきて、大学生になっても壬生の小学校の教室を仕切った引揚者住宅に住んでいたことを思い出した。そして、彼の過酷な体験を想像したのだった。

もう一つセキタが勢い込んで語ったことがあった。大学を卒業してしばらくした頃だったと思うのだが、穂高での体験だった。その年の晩秋、穂高涸沢からの下りで、唐松の樹々の間から見える屏風岩の月の光に照らされて青く光るその美しさだった。そしてあの壁をタカダはんと一緒に攀りたいと言ったのだった。
ぼくたち二人は、本当に死を賭けて積雪期の屏風岩第一ルンゼを攀った。その時、ぼくたちをサポートしてくれたのがハヤシドクターだった。
セキタとぼくが、ルンゼ上部の狭い岩棚に腰掛け、ビバークした夜のこと。夜の9時、定時連絡をするために、ツエルトをめくり、ぶらぶらさせている両脚を開くと膝の間に、梓川の河原にハヤシタカヒコのライトが点滅していた。
あの小さなしかし安堵とも言える光は今も鮮明に思い起こすことができる。

ハヤシドクタ-については、項を改めて書くつもりです。

幽明界を異にしたセキタとハヤシドクター」への4件のフィードバック

  1. セキタはんとタカダはの関係、お二人の側にいて何時も不思議でした。
    タカダはんの文で心の中にお二人の姿がすうっと落ち着きました。
    改めて山登りを通じて多くの事を教えて頂いたことに感謝と懐かしい
    気持ちでいっぱいです。

  2. 高田様。
    お元気そうでなによりであります。

  3. 自分が滑落死した後の事も勘定に入れての積雪期屏風岩第一ルンゼ初登攀・・・完全に痺れて憧れたものでした。
    盟友セキタさんとハヤシドクターのご冥福をお祈り申し上げます
    瞑目 合掌

  4. 関田さんと林ドクターの事、今日知りました。
    関田さんには可愛がってもらったので、もう一度話したかったなと言う思いが募ります。悲しいです。

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