安倍さんの死に思うこと

安倍さんの非業の死からもう一週間以上が経ちました。マスメディアやネットでは依然として、色々の報道が続いています。その中にはとんでもないと思えるものもあります。
そのいづれをもぼくはあんまり見ないようにしています。なんとなくイライラしてくるのです。
安倍さんはこんなにすごかった。こんなに立派だった。こんな立派な業績を上げた。
そんなことはわかっている。それはそうだけれど、安倍さんはそんなことを言って誉めて欲しかったのだろうか。そんな気がするからです。

安倍さんは第一次内閣を作った時から、ずっとある意味逆境の中にいたと言えます。彼は一次内閣から下野した時から猛烈に勉強したのではないかと思います。そして彼の胸に燃えたぎってきた炎があったのではないかと思うのです。彼はそれを「日本を取り戻す」と表現しました。
彼のいう「日本を取り戻す」の日本とは如何なるものなのか。私たちはそれを考えなければならないと思うのです。どんな状況になっても彼の胸の内にはこの「日本を取り戻す」という炎が燃え続けていました。全く予期せぬ死を遂げたいま、これは安倍さんの遺言となったと言えます。

彼の死を悼む国民はこの炎を胸の内に取り込み燃やし続けなければなりません。それが最大の供養となるはずです。その炎はたとえ小さい灯火であってもそれを絶やすべきではない。灯は油が尽きれば消えます。これを油断と言います。
油を絶やさないためには、マスコミで安倍さんの業績を語る人たちは、安倍さんのいう取り戻すべき日本とはどんなものなのかを分かりやすく語り続けてくれることだと思います。それによって国民は油を絶やすことがなくなるはずです。これは是非お願いしたいところです。
大方の識者から煮え切らないのに高支持率を不思議がられる岸田総理ですが、安倍さんの死をどう感じているのでしょうか。かなりの変化が心のうちにあったのではないかと思っています。その兆候もわずかながら感じることができます。
鳩派の派閥に属しているとはいえ、猫が豹と変わって、自らを君子であることを是非見せて欲しいものだと期待しているところです。

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