野生鹿を組み伏せた話

 コロナ禍が始まってう、何十年もずっと続けてきた年2回の「いやさか会」も中止になり、郷里の「るり渓」へ帰ることがないままこの何年かが過ぎた。
 学齢期まで祖父母と3人で過ごした山深い谷間のあの故郷を思い出していると、突然なぜかあの「鹿捕り」のことが浮かんだ。

 あれは確か中学三年生の時だったと思う。冬休みの休暇で、ぼくは田舎に帰っていた。その時、ぼくは村の幼馴染で同い年のさとっちゃんと二人だった。なんでだったか分からないけれど、ぼくたちは田んぼの畦道を歩いていた。
 すると遠くから、犬の鳴き声が聞こえてきた。それもあの独特の鳴き声だった。「ウォン、ウォン」と連続した声で、それは犬が獲物を声だった。

 湊川の合戦の落武者の部落だというその村は、有名な文人大町桂月が名付けたという美しい渓流「るり渓」の下流にある。川を挟んで南北の山腹に藁葺き屋根の民家が点在するこの寒村は大河内村と呼ばれる。この村で一番高い場所にむかし庄屋だったという家があった。それは江戸の天保年間に建ったという古い家だった。
 ぼくはこの家で、満一歳から学齢期までを祖父母に育てられた。その理由は明かされることはなかったが、父親が武将の子供は母親から離して育てるべきとの考えだったいう話を聞いた気もする。

 祖母の話では、山羊の乳と卵黄と重湯だけで、育てたという。
 這い回れるようになったぼくは、転げ落ちる危険を避けるため長い紐で大黒柱に繋がれていたという。
 ほとんど毎日のように村の二人の娘が子守にやってきた。多分中学生だったと思われる。その名は、「しぃちゃん」と「すえちゃん」といった。
 話が大きく逸れてしまったが、ぼくは「しぃちゃん」におんぶされて、村の川に飛び込んだ山の鹿が仕留められるのを多くの村人と一緒に見た記憶があった。

 この山村では、時折、猟犬の獲物を追う鳴き声が、谷間を縫って響き渡ることがあった。漁師に追われた鹿が平地の田んぼに飛び出したのである。鹿の走るスピードは大変早く、滑らかな線を描くように一枚の田んぼを二跳び三跳びで越える。「ウォン、ウォン」とそれを追う猟犬がとても追いつけるものではない。
 川沿いに長く東西に伸びた田んぼを飛び越して西へ東へと逃げ続けた鹿もやがて持久力が尽きてくる。体が焼けた鹿は、川の水に身を浸し、追いついた漁師の銃で仕留められるのである。

 猟犬の鳴き声に気づいたぼくが、そちらを見ると、一頭の鹿がこちらに向かっていた。そこは川の北側で、細長い棚田が連なっている。
 ぼくは、一段下がった細い道におり、ちょうどそこにあった、腕ほどの細さの稲木を手にして身を屈めた。棚田は細長く、鹿が来る場所は容易に予想できた。
 鹿がぼくの頭上に迫った瞬間、ぼくは棒を伸ばし体重をかけて押し倒した。鹿は道に倒れぼくは首に当たっている棒に渾身で体重をかけた。鹿は「メェー」という山羊のような叫び声をあげてもがいた。
 漁師の「退け、どけ」という声と、顔の近くに村田銃の銃身が見え、ぼくが立ちあがろうとした時、「ガァーン」と大音響がして、耳がキーンと鳴った。漁師が何か叫んでいたが、何を言っているのか全く聞こえなかった。

 家に戻り、祖父にこの出来事を話した。祖父は、それでお前は何も聞かなかったのかと尋ね、「別になにも」とぼくは答えた。すぐに出かけた祖父は、やがて、藁にまいた鹿の後ろ足一本を担いで戻ってきた。助けたのだから分前をもらって当然だと言った。
 その夜、鹿肉を食べたに違いないのだが、鍋だったのか、焼き肉だったのか、全く記憶にない。
 しかし、あの握った稲木にかけた渾身の力とその下でもがく鹿の鳴き声は鮮明に今も残っている。