剱岳源治郎尾根Ⅰ峰の夏、還暦ヨーロッパの夏(1996.10.1)

なんで山登らへんの 第18回 1996.10.1
体験的やまイズムのすすめ

 いまから数えてもう十数年も前のことになりますか。そのころ急に右腕が上がらなくなりました。腕を上げようとすると肩に激しい痛みが走ります。
 バイクで走っていて、ピースサインの対向車にVサイン、「アイター」とバイクがよろけ、こけそうになる。
 「どうやら四十肩らしい」と言うと、「五十に近いのだから五十肩でしょう」といわれたものでした。
 この五十肩、医者にいっても針灸に通ってもなかなか治りません。もう岩登りもできんのかな、と思い始めた頃から快方に向かい始めたようでした。
 ちょうどそのころの夏の終わり、剱沢から電話が入り、「ぼく暇になりましたし……」。
 教え子で京大山岳部員のタケダ君からで、
「よっしゃ分かった」とぼくは二つ返事で、
「テント張って待っててくれ」とザックに一升瓶2本とつまみを詰め込むと汽車に飛び乗ったのでした。
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『スリー・カップス・オブ・ティ』の大嘘

Three Cups of Tea 教え子のトオル君が「Three Cups of Tea 読みましたか。ぜひ読んで下さい」と言って来た。
 早速アマゾンに注文した。英語の原文のものしかないと思っていたのだが、翻訳本の「スリー・カップス・オブ・ティー」があった。<読み始めたら止まらない。全米400万部突破!>と勇ましい文句の帯が付いている。
 
 読み始めて直ぐに、なんとも言えぬ違和感を抱いて、読み進む気が失せてしまった。なにが「読み始めたら止まらない」じゃ。「読み始めて直ぐに放り投げる」ではないか。
 ぼくの抱いた違和感はなんであったのか。この本、どうも嘘くさいのだ。
 ぼくは、1975年と1979年の2回、スカルドからブラルド河を遡ってビアフォー氷河に入っている。1975年はラトックⅡを目指し、1979年はラトックⅠを目指した。いづれもブラルド河最奥の部落アスコーレをでて、左折れしてビアフォー氷河に入る。どちらも7000メートル級の未踏峰だったが、ラトックⅡは失敗、ラトックⅠは成功した。このラトックⅠ峰、この時の初登以来いまに至るまで登ったものはいない。つまり第二登はない。
 
 これらの山は、ビアフォー氷河の途中で一泊するだけで、ラトックⅡやラトックⅠのベースキャンプに着く。ところが、K2に向かうには、左折せず真っすぐにバルトロ氷河を遡ること約8日のキャラバンが必要である。
 この氷河の道は、大きく開けていて、両岸に聳える高峰を眺めながらのキャラバンでバルトロ街道とも呼ばれる。
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三十なかば変身のきっかけはコーカサスのショック

前稿で、昔のダイエットのことを書いたので、この時の山渓連載の『なんで山登るねん』の記事を雑誌から直接取り出して載せることにしました。1977年の6月号ですから、34年も前の記事です。
また、この旧ソ連邦の招待に依る1971年のコーカサス遠征登山については、コーカサスの山と人<上><下>(山と渓谷社)に報告しています。



 学生時代に運動選手だったような人が、卒業してしばらくすると、ブクブクと肥りだすなどというととが多いようです。
 これは、運動によるエネルギー消費は急に減るのに、喰いもののエネルギー摂取は同じだという具合のアンバランスによるのでしょう。それに結婚などして、ホルモンのバランスもくずれるのかも知れない。
 ぼくだって、学生の頃は、そのスマートな容姿を自認していたのですが、たちまち肥りだし、六〇キロを越えたと思うと直ぐに七〇キロ、そして八三キロに達しました。
 まあ言ってみれば、いつも二〇キロ以上の荷物を背負っているようなもんです。当然苦しいはずなのですが、そこは日頃鍛えた足腰のこと、二〇キロ位の荷物など、ほとんど気にならなかったのです。
 洋服は全く合わなくなりました。でも、社会人になって、学生の頃の服を着ることなどありませんし、新調してゆく訳ですから、これも、あんまり気になりません。
 しかしよく考えてみると、いくつかの変化が、はっきりと認識できました。
 まず、オナラの音が変りました。がっては、トランペットの様な感じだったのが、なんだか、ひび割れしたブラスみたいになりました。
 風呂に入って背中を洗おうと思っても、手が回りません。腹の皮をつまむと、それはもう皮というようなもんではありません。京都の電話帳どころか、東京の電話帳みたいだった。
 顔はまんまるく、二重あごになり、そして人からは、「ほんとに円満具足という顔ですなぁなどと、とんでもないことを言われるしまつだったのです。
 でも、もしかしたら、いつも金欠でピーピーのくせして、顔だけは「金持けんかせず」みたいな調子でニごこして、おっとりかまえていたのかも知れません。
 だいたい肥ってくると、あんまりコセコセ動けなくなりますし、体質的に闘争本能も失せてくるような気がします。
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北杜夫の『白きたおやかな峰』

 プログに書くことになって、本棚を探し、『白きたおやかな峰』を引っ張り出した。
 いまは長い年月の末に赤茶けているけれど、かつての純白のハードボックスは、その強固さをいまも保ち、ずっしりとした手応えのある書物である。
 ボックスの裏の右下角には、ちいさく¥490とあった。
 この本の出版は遠征の翌年1966年である。今の値段にしたらいくらになるのだろう。興味を覚えて、物価指数やら大卒の初任給の推移などから計算してみたところ3700円となった。
 箱から取り出すと、まずビニールシートに覆われてカバーがある。カバーには有名版画家畦地梅太郎の版画があった。






 カバーを外すと、ライトブルーの布の硬表紙が現れる。どちらかといえば小さめの活字で、つつましく銀色の文字で「白きたおやかな峰」が刻印されている。





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北杜夫ドクターのこと(承前)

 ドクター死去の報を知ってから数日が経った。報道でそうしたことを聞くと、いろいろなことが思い出されてきた。
 前の稿に書いたとおり、ぼくは46年前の1965年、パキスタン(当時は西パキスタンだった)のカラコルムの未踏の高峰・ディラン峰に遠征した京都府山岳連盟隊の最年少隊員だった。
 北杜夫氏は、隊付きのドクターだった。だからぼくたち隊員は、彼のことをドクターと呼び、仲間内では「キタモリさん」あるいは「きたもり」とよんでいた。
 常に接触するようになったのは、やはりベースキャンプに入ってからだった。常にとつとつと喋り、なんとも言えぬ誠実さを感じさせるような人柄に思えた。
 印象的だったのは、彼が胸ポケットに収めている手帳に常にメモを取っていたことだった。ポーターとのやりとりなどで大笑いなどしていると、すぐやってきて「なに、なにが可笑しいんですか」と聞き、胸ポケットの手帳を取り出した。こうしたメモは、けっこう膨大な量になったと思うし、それだからこそ、あの名作『白きたおやかな峰』が生まれたのだと思う。
 登山遠征隊の活動が各隊員の個性や性格を浮き彫りにしながら、ここまで活写された文学作品はおそらく他にはないと思われる。
 テープレコーダーでもあったら別であるが、あれだけの細かな描写は、メモによるものだと思う。これは、本が出た直後に思った感想である。
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北杜(北杜夫)ドクターの死

友人がSMSで報せてきて、キタモリドクター(北杜夫氏)の死を知りました。

 ぼくが、最初の海外遠征隊としてパキスタンに行った時のドクターでした。それは1965年のことで、まだ外貨もままならぬ時代でした。
27才のぼくは、京都府山岳連盟派遣のカラコルム・ディラン峰遠征登山隊の最年少隊員として選抜されました。
当時は海外登山は大変なビッグイベントだったので、隊員発表が行われるとすぐに新聞記者が自宅にやってきたほどでした。ぼくは、先遣隊として、本隊より3ヵ月前にパキスタンに向かい、カラチに滞在しました。

小谷隆一隊長は、この前年まで日本青年会議所の会頭を務めた財界人で、東大山岳部のOBでした。北杜夫ドクターとは、旧制松本高校の同窓の友人でしたから、ドクターとしての参加を頼んだのです。
北杜夫氏は、有名な歌人斎藤茂吉の子供で、ドクトルマンボーとして、軽い読み物作家として知られるようになったようです。
ちょうどその頃、斎藤茂吉家をモデルにした大作『楡家の人々』を世に問うたばかりでした。
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3.11で日本は変わった

「9.11で世界は変わった」と10年前の2001年に、ぼくは書きました。(ウェブサイトの記事索引から「体験的自然教育論もっと外で遊ばなあかん(1)」参照

9.11のあと何を信じたらいいのか分からないような状況になったと感じ、では本当にぼくにとって信じられるもんはなんなのだろうかと考えました。考えあぐねて到達した信じられるものは、自然だった。大自然の中には、神がいると言い切れると思えましたし、自然そのものが神だった。

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