日本は植民地支配をしたのか

私のブログの「福沢諭吉『脱亜論』の背景」に、M君が「遅れている中国・朝鮮は植民地支配されて当然という考えでしょうか?」とのコメントを寄せられたので、ぼくは「日本は植民地支配をしたとは考えていない」と返しました。
だいたい「植民地支配」をしたというところから考えていたのでは、正しい推論が出来ないのではないか。そもそも「植民地支配」とは、どのようなものなのかというところから考える必要があると、ぼくは言ったのです。
「植民地支配」とはどんなものかなどということを、M君は考えたこともなかったようで、けっこうびっくりしたようです。こんなコメントを返しました。

刺激的な推考です。私は、そもそも「植民地支配とはなにか」というのは、そこまで掘り下げたことがないので、「むしろ逆だった」というとわたしが考えていたことと違うので「なぬ?」となりました。わたしは、国家間の外交の上で、それぞれ国家はその国民をコントロールする機能をもっていると考えているので、それぞれの国家が支配しやすいように国家間で取引すると。その犠牲に国民があると。国民目線での視点、支配される側でしか、あまり物事を考えたことがないでので、高田さんのような考えは、よい意味でも、悪い意味でも刺激的です。ブログの更新、楽しみにしてます。
・・・という訳で、この稿を起こした次第です。

国家は国民をコントロールするもの、国家は国民を支配するもの、などという考えや「支配される側の論理」などの言葉は、かつてかっこ良く響く言葉だったように記憶します。しかし、今やもう古くさいという気がしています。
だいたい国家という支配するものを打ち倒すという狙いをもったこうした考えで、支配層(そういうものがあるとしても)を倒して後はどうするのか。後のビジョンもなしに抵抗し倒して、後どうするのでしょうか。昔の言い古された考えを鵜呑みのした言い草は、むなしく響くばかりで、夢想された地球国家のまぼろしがうかぶだけです。浅薄な革命思想というべきで、いってる人のバカさの証明のようにぼくには思えます。
国家とは何であるのか、国民とはなにか、それらはいつ生まれたのか、などということから考えねばならないのではないだろうか。そんな気がするのです。

なので、まずはその辺から考えることにしましょう。
国家Stateはもともと、ラテン語で君主の位、身分、財産などを意味していました。これが現在のような意味を持つようになったことを考えるには、近代の始まりとされるフランス革命から見てゆく必要があります。
1989年フランス革命がスタートし、パリの平民たちはけっこう離れた場所のベルサイユ宮殿まで行進し、ルイ16世を始めルイ一家をパリに連行し幽閉しました。
4年後の1983年、全員をギロチンで断首するという惨い処刑を行ったのでした。

この頃のヨーロッパには、今日のような形の国家はありませんでした。王様と貴族があちこちにおり、彼らは領地と領民を所有していました。領民は土地と同じく所有されている農奴でした。
王は各地の王族と婚姻関係を結び、その際に領土の贈与が行われ、また戦争によっても領土のやり取りが行われていました。だから、王の領地は、あちこちに飛び地のようにバラバラに存在していたのです。
そうした中で、ブルボン王朝が消滅したのですから、その土地・領土は誰のものかということになり、当然それは、フランス国民のものということになりました。

EuropeMap各地の王は、革命が飛び火することを恐れましたし、また隣接する飛び地の領土を革命集団に渡すことを拒否しましたから、ヨーロッパ各地に紛争が多発したわけです。
これを、圧倒的な戦力で制圧したのが、有名なナポレオンでした。彼はあっという間にヨーロッパ全土を征服し、皇帝を名乗ります。
ナポレオン軍が強かったのには、明白な理由がありました。ナポレオン軍の兵士はフランスの国民で、自分の国の為に戦ったのに対し、他の兵士はみな傭兵だったからです。
ナポレオンの帝国は、2世の代になって崩壊し、またバラバラになりました。この時、各地の王様は、フランス革命のようなことが起こって、ギロチンに架けられては大変なので、領地を国民に分け与えることにし、自分の領土は確保するという譲歩策を取りました。
こうして、いわゆる立憲君主国が成立したわけです。日本の国体は、立憲君主制に当てはめることができるにせよ、こうした成立過程を見る限り、おおいに異なり、それはやはり皇室制(コミンテルン用語の天皇制は採らない)と呼ぶべきだと思うのです。

王様のいない共和制と立憲君主制の成立で国家ができたのですが、次に国民を考えましょう。国民nationは、そもそもどこにその淵源があるのか。ナポレオン帝国ができた頃、世界最古の大学である現イタリアのボローニャ大学には、北方からアルプス山脈を越えて多くの学生が集まってきました。
彼らは話す言葉は、その生国に従って色々でした。彼らは、同じ言葉を話すものたちが集まって、同じ場所に住まったのですが、その場所のことをnationと呼んだのです。
つまり、同じ言語を話すものの集まりが、国民ということになりました。これがいわゆる国民国家の誕生であり、国民国家の概念が出来上がったわけです。

こうして、ヨーロッパには、色々の国民国家が出来上がりました。この国家たちは、すべて平等で、かなり前のウェストファリ条約に則った国家群でしたから、お互いに侵略することは難しいことになりました。
そこで、とうぜん、ヨーロッパ以外の土地に侵略の矛先を向けることになり、植民地の獲得が始まることになります。
その対象となった地域は、非キリスト教徒の住む土地でした。キリスト教徒にとって異教徒は、人間ではなく動物に等しく、殺そうが虐待しようが何の問題も生じない存在でした。
彼らは、ただ収奪の対象として植民地を獲得し、植民地の獲得の為に戦争もいとわなかったわけです。

ヨーロッパの植民地だった国を塗りつぶすと世界地図はこうなる

ヨーロッパの植民地だった国を塗りつぶすと世界地図はこうなる



植民地は、ローマの昔からあったとされていますが、キリスト教徒にとって、異教徒は人間ではなく、どのような非道なことも神の御心にかなうことだったようです。その証拠は旧約聖書に見ることができます。
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・遠く住んでいる民族の男性を殴殺し、その女性と子供を奴隷にせよと神が命令した:申命記
・奴隷は時間をかけて殴殺してもかまわない: 出エジプト記
・神はモーセにミデアン人の大虐殺を命令する。ミデアン人はモーセがエジプト兵から逃げた時以来40年間もモーセを客としてもてなしていた。しかし、忘恩は世の習い、神はミデアン人を皆、女達と男性の子供を含めて、殺せと命じた。ただ、処女達は戦利品となり、兵士、聖職者、さらには神自身の慰安婦として生き残ることを許された:民数記
また、コロンブスが上陸した頃、スペイン人がどうしてあのような残酷な所業をしたか。それは、小室直樹『日本人のための宗教原論』に詳しく書かれている。
プエルトリコの軍事資料館には、コロンブスが上陸した頃、この島の現地人をどのようにスペイン人が扱ったか、その図解が展示されている。現地人たちの首と両手両足を切り落とし、串刺しにして豚の丸焼きのごとく焼肉とした。まさに目をそむけずにはいられない残虐さだ。こんな例は至るところにある。
「未開の地」に上陸したヨーロッパ人は、冒険家も宣教師も、罪もない現地人をバリバリ殺した。殺戮につぐ大殺戮である。ではなぜそんなことをしたのか。
何故に異教徒を殲滅しなければならなかったのか。その答えは『旧約聖書』の「ヨシュア記」を読むとわかる。
神はイスラエルの民にカナンの地を約束した。ところが、イスラエルの民がしばらくエジプトにいるうちに、カナンの地は異民族に占領されていた。そこで、「主(神)はせっかく地を約束してくださいましたけれども、そこには異民族がおります」といった。すると神はどう答えたか。
「異民族は皆殺しにせよ」
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帝国主義時代の植民地支配は、収奪の対象だったから、現地人は道具でありそれを殺戮するようなことは功利的ではなかったので、やたらに殺戮するようなことはなかったといえます。
イギリスで発明された蒸気機関によって産業革命が始まりますが、それを支えたのはインド植民地に於ける綿の栽培であり、本国で生産された綿製品の販売でした。原料の大量収穫と大量の製品化そして大量の販路これらをすべて植民地が果たすことによって、産業革命が成立したのです。

”リニアの父”と呼ばれる鉄道技術者・京谷好泰は、パキスタンの国営鉄道の招きで技術援助におもむきました。その時の体験を人づてに聞いたことがあります。
パキスタンには広軌の立派な鉄道が走っていて、ぼくも何度も利用したことがあります。コンパートメントに乗るとそれなりに快適でした。列車に乗ってから車掌に食事がしたいといっておくと、大きめの駅に着くとプラットフォームにはコックが大きなお盆を両手で捧げて待っていて、車内に食事が運び込まれるのです。
また、10人ほどの学生を連れて、モヘンジョ・ダロへ行ったときのことです。パキスタンの列車には食堂車はありません。しかし、コックが乗っていることは知っていましたから列車の料理車両に行き、おいしいカレーを作ってくれないかと相談を持ちかけました。
やりましょうといってくれたのですが、でも条件がある。Recommendation Documentを書いて欲しいというのです。
テーブルなどありませんから、スーツケースを並べたテーブルで食べたカレーはおいしかった。
「無理を聞いてくれて、とてもおいしいカレーを作ってくれた。素晴らしいコックである」という英文を書いて渡しました。

話しがそれましたが、パキスタンの鉄道は宗主国のイギリスが作ったものだったのですが、脱線が相次ぐような代物でした。それで、独立後のパキスタンの国鉄の招きで京谷氏は技術指導を行ったのです。
彼が、車両の下に潜り込んで油まみれになって事故の原因を調べるのをパキスタン人技官たちは白手袋で見下ろしていたそうです。彼はそんな一人に油まみれの部品をポンと投げ渡し、上に立つものが率先して技術を学ばねば事故は防げないと教えたといいます。その結果、パキスタンから脱線事故が、嘘のように消えました。だから、氏への感謝を込めた顕彰碑が今もラホール操車場に建っているのだそうです。
このとき一人の技官からこんな話しを聞いたといいます。
「実は私の父も鉄道技師でした。父は何人かの技師と一緒に、イギリスがもってきた蒸気機関車と全く同じものを1/5サイズで作りました。そして、どうですマスター、我々も同じものが作れます。」そういったのだそうです。
英国人は、冷たく無表情だったそうですが、しばらくして、その作業にかかわったすべての技術者を全員処刑したのです。ここに植民地支配の本質があらわれている。ぼくはそう思います。植民地の人々(それは時には人とは見なされない)は、賢くなったり向上してはいけないのです。

HattaYaiti台湾の烏山頭ダムの話しは有名ですからご存知の方も多いと思います。八田与一は、台湾総理府の官僚でしたが、治水ダムの建設に身を捧げました。ここでは、いまも與一の命日である5月8日には慰霊祭が行われていますし、教科書にも載っています。
彼は総理府の役人でしたが、現場の人夫と一緒に建設に携わり、ダム完成後は、官僚の地位を捨てて、なおダムにかかわり続けました。
そんな例は、いずれの植民地でも、聞いたことがありません。
学校を作ったり、大学を作ったり、その国の人のためになることを植民地の宗主国がしたことなど聞いたことがない。

植民地は徹底的に収奪の為であり、植民地でなくても、アメリカに見る如く、自国内での労働力、牛馬より遥かに効率の良い奴隷として、拉致したり買い取ったりして、利用し続けたのです。それは奴隷廃止を唱った南北戦争後100年たっても実質撤廃はありませんでした。
アメリカが強制拉致した黒人奴隷は数百万人といわれています。また500万人以上いたというネイティブ・アメリカン(インディアン)を虐殺しまくり、ほぼ絶滅させます。草原を埋め尽くすほどいたバッファローを一枚の舌を食べる為だけに撃ち殺し絶滅させました。こうした歴史的事実を忘れず心に留めておく必要があります。
このような発想は、あのベトナム戦争での枯れ葉作戦に於いても見られたのではないかと思います。
これはやはり、キリスト教由来の発想といわざるを得ない。有名な哲学・思想家のモンテスキューは、『法の精神』で、「黒人を人間と考えることは不可能である。なぜなら、そうすると我々がキリスト教徒でなくなるからだ」と述べています。

日本は、神と仏を同時に信ずる不思議な国といえます。この異質なものが何の苦もなく融合しています。
だいたい神と仏はどう異なるのでしょうか。上手いことを言った人がいます。三つに要約しました。
一つ、神はあるもの仏はなるもの。二つ、神は来るもの仏は往くもの。三つ、神は立つもの仏は座るもの。
こうして八百万の神を信じ、仏教に帰依する日本人が、欧米人と同じような植民地支配ができないことは容易に理解できるのではないでしょうか。
日本は、外国の侵略勢力が植民地支配という形をとって、西や北から及んでくるのを感知して、それに応ずる対応をとらざるを得なかったのだと思うのです。四囲を海に囲まれている日本は、外国勢力を防ぐには、防壁のラインを海を隔てた向こうの地域に設定せざるを得なかったのです。
だからこの動機付けが全く違っており、いわゆる植民地と規定される国なり地域は、収奪の対象ではなく、日本と同質の地域とする必要があったのです。従ってそれは侵略ではなく併合であり、侵攻だった。

第二次大戦の後独立した国は100に及ぶといいます。一般的に理解されるかどうかはさておき、大東亜戦争が白人支配の世界の潮流を押しとどめたことは事実であるといえるでしょう。
そして、日本が世界を相手に戦った戦争の真の意味が理解されるには、やはり100年近い年月が必要ではないかと思えます。そしてその時には、世界の歴史の記述は白人の書いたものとは大きく異なっているはずです。