コロナワクチンと自然治癒能

 年が変わったと思ったのが、つい先ごろだったのに、もう2月も終わりに近づいています。
 ほんとに毎日が矢のように過ぎてゆく毎日です。
 昨年秋ごろ定期の検診で、心房細動という症状が見つかり、循環器内科での精密検診を勧められた。特に何の自覚症状もないのだが、不整脈と頻脈が認められるという。頻脈というのは脈拍数が100以上をいう。原因はというと脈動を規制している電気パルスが失調していることによる。年がいってくるとどうしようもなくそうした不調が起こるらしい。
 直す方法は太ももの血管からカテーテルを通して、心房のそうした信号を出してるいる箇所を焼き切るという方法があるらしい。でも成功率は70%ほどらしく、ぼくのような年寄りにはそんな手術を勧める医師はいない。
 医者が必ず勧めるのが、「血液サラサラ薬」で、これによって心房細動や頻脈によって生じる血栓による脳梗塞を予防するのだそうである。しかし血栓を防ぐ副作用として血管が破れた場合なかなか血が止まらないということが起こります。そうなると脳溢血の危険が増すことになると言えます。つまり血栓が詰まる脳梗塞と血管が破れる脳溢血、この二つの裏腹な症状を一緒にして脳卒中というらしいのだが、どっちを取るねんということになる。
 循環器内科の精密検査で症状は確認できたものの「血液サラサラ薬」を処方されただけで、それ以外の方法はないようでした。
 それでぼくはかかりつけの林ドクターの息子の若先生にこの点を訊ねたのです。結局は患者さんの判断でしょうねという答えです。「基本的にぼくは薬は飲まない考えです」というと、「分かりました。薬は出さないことにしましょう」となりました。

 ぼくの場合、頻脈と不整脈は同時に起こるのですが、これが見つかった頃は、だいたい数週間おきに起こり、数日続くというパターンでした。発覚してから毎日起き抜けに血圧を測っていたのです。血圧を測ると同時に脈数も測れるからです。脈拍数が130台になります。
 これが年末に起こりました。
 年が明けても治らず、づっと続いていました。頻脈になると血圧測定器がなぜか測定不能を出すのです。測定不能は頻脈のせいだと思い込んでいた。ところがこれは、電池切れが原因だと分かったのです。全くもってボケた話でした。
 一月半ばに電池を入れ替えてから、脈拍数は70台で極めて安定しています。
 一体これはなんだったんだろう。改めて考えてみたんです。考えてみれば、昨年には、ぼくに大きなストレスをもたらす出来事があったのです。そうだったのだ。原因はあれだったんだ。年が明けて吹っ切れてそれで治ったということか。よかったよかった。そう考えているこの頃なんです。

 それにしてもストレスは恐ろしい。万病の素です。ストレスは、人間が持つ強力な自然治癒能を潰してしまいます。
 話は変わるのですが、これはかなり強力に抑えられている情報のようですが、コロナ・ワクチンの度重なる接種は、この自然治癒能を弱体化させるというのです。その証拠として言われるのが、超過死亡者数です。その数は、関東大震災時の数を上まるのだそうです。
 まあワクチンを2回しか打っていないぼくは大丈夫なようです。
 このコロナ禍は世界にいろいろな影響を及ぼし、同時に隠されていたものをあらわにしました。世界の中で、特に特異な行動を取り、今もとり続けているとも言える日本については、改めて書きたいと思っています。

 

原稿用紙に原稿を書く

 
 昔は、原稿は原稿用紙に書いていました。まだパソコンなどない時代のことです。文房具店には必ず400字詰めの原稿用紙が置いてありました。
 でもぼくが使っていたのは特製の自前のものです。印刷屋さんに作ってもらいました。それは少し変わったものでした。こんなものです。その原稿用紙は、左右の空白と上下の空白がそれぞれ同じ長さになっていました。左下と右上の空白には、「高田直樹専用」の文字があり、右上のものは上下が逆になっていました。

 この原稿用紙では、用紙を一切無駄にすることなく、差し替え切り取り挿入などが出来ました。まだパソコンやワープロのなかった時代にぼくはアナログでコピペーをやっていたことになります。
 この便利なやり方で執筆を続けていたのですが、そのうちにデジタル化が進み、原稿をメール送信できるようになりました。
 しっかりした記憶はないのですが、多分その頃ぼくは、ワープロの原稿用紙モードを使って書いていたと思うので、それをまずプレインテキストに変えて送信していたはずです。
 ワープロソフトは各種ありましたが、ぼくはWindows用のものは使わず、もっぱらマック用のものを使っていました。
 そのうちにファイル送信が普通になってきて、パソコン上で書いたテキストをそのまま送信するのが普通になってくるとともに、ぼくももう原稿用紙モードで執筆するということも無くなってゆきました。

 そんなことなっていた最近、どうしたわけか急に原稿用紙に書き込んでみたくなったのです。とはいっても、それはパソコン上のことです。オンライン上にあげる文章であるならば紙の原稿用紙に書き込むというのはとんでもない二度手間です。
 早速マックのWordで原稿用紙モードを探したのですが、これがないのです。Wordのバージョン11までは在ったらしいのですが、今では無くなったことがわかりました。
原稿モードで書き込む[/caption] 色々探してらしき物を見つけて、やってみてうまくいかない、ということを繰り返した末にようやく見つけたのが、iText Expressというソフトでした。これには原稿用紙モードがあり400字詰めのサンプルも用意されていました。
 ところがこれで一件落着とはならず、プログを書いているWordPressでも縦書きをやってみたくなりました。縦書きのプラグインがあるということなのですが、これもうまくゆかず数日かかってようやくなんとか成功しました。

 タイトルを太字にしたり行間を調整したりというようなことはまだ出来ず、課題を残してはいますが、なんとか完結した気分になって安定したわけです。
 考えてみれば、昔のようにモンブランの太い万年筆を手に、ブルーブラックのインクの香りを感じながら原稿用紙のマス目を一字づつ埋めていくあの感覚を取り戻せたわけでは決してないのです。
 ほとんどの書籍は縦書きであるし、日本語の表現に縦書きは必要であると思われます。日本語を縦書きにするのは一つの文化であるし、英文字が多く混在する文書を除きすべての日本の文章は、縦書きであるべきだと感じています。

うれしい旧友からブログへコメント

先のブログ「訳の分からん一億総マスク現象」のコメント欄に書き込みがあり、それは今津さんからのものでした。彼は大変古い山の友人なのですが、もう20年以上も無沙汰だったのです。
 彼と知り合ったのは、第二次RCCがエべレストを目指していた時で、その頃ぼくは関西の元締めをやっていたので、もう50年ほども前になります。
 結局彼もぼくもエベレストには参加しなかったのですが、それから付き合いが続いていました。付き合いといっても、高岡のヨーコさんと一緒に奥飛騨温泉に時折出かけた際には必ず今津さんのログハウスを訪れることにしていたのです。
【縦書きは下にあります】
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訳が分からん総マスク現象

 第7波とかいうコロナ禍はいまもつづいている、というかそう報道されています。
テレビでは、感染者数が世界一だとか言ってあいも変わらず煽っていますが、他の国はもうPCR検査などやっていないのですから、そうなるのは当然だと思います。
 東京医師会が、外ではマスクをつける必要はないと声明したとか、そんなの当たり前の話で、何を今さらと思いました。
 ひどいのはNHKです。黒部源流の奥の廊下から雲の平を歩く番組で、そこを歩く俳優さんか誰かは、しっかりマスクをしている。北アルプスのど真ん中で、どこから行っても里から2日もかかるという場所で、なんでマスクかいな。アホと違うかと思いました。
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安倍さんの死に思うこと

安倍さんの非業の死からもう一週間以上が経ちました。マスメディアやネットでは依然として、色々の報道が続いています。その中にはとんでもないと思えるものもあります。
そのいづれをもぼくはあんまり見ないようにしています。なんとなくイライラしてくるのです。
安倍さんはこんなにすごかった。こんなに立派だった。こんな立派な業績を上げた。
そんなことはわかっている。それはそうだけれど、安倍さんはそんなことを言って誉めて欲しかったのだろうか。そんな気がするからです。
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安倍晋三元首相の暗殺

その時ぼくは、東京駅にいました。
翌9日土曜日に宮城県の丸森町の熱中教室での授業に赴く途中で、東北新幹線を待っている時でした。
一瞬耳を疑うこのニュースをiPhoneを手に駆け寄ってきた家内から告げられた時、咄嗟に思い浮かんだのはケネディーの暗殺事件でした。それはぼくたちの結婚式の前日に起こったことでした。
安倍さん(と呼ばせてもらいます)はケネディーと並べてもおかしくないくらいの世界に影響力を持った政治家だったと言えます。
日本には彼ほどの世界的な政治家はいませんでした。
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幽明界を異にしたセキタとハヤシドクター

少し前のことだったが、ほとんど音信不通だったバンコックにいる教え子が、電話してきた。
なんのことかと思ったら、ずっとセンセのブログの更新がないので、心配になりましたという。
確かにとんでもなく長く書いていないと気づいた。

昨年暮れに関田が亡くなった。
すぐに『葉巻のけむり』に書き始めたのだが、十数行書いて思いとどまった。その記述はあまりにも冷静なものではなかった。これはいかん。少し時間を置く必要がある。そう思っているうちに年があけた。
すると今度はドクターのタカヒコが後を追うようになくたった。彼とは2ヶ月ごとに会っていて、暮れに会ったときには、「2月まではもたんやろな」と言うので、そんなことないと思うで、と返した会話が最後となった。
これで、ブログの執筆はまた延びることになった。
そうこうしているうちにウクライナの侵略が始まった。近平がおんなじことをすぐにやるとは思えないけれど、これを一つのシミュレーションとして見ている可能性がある。とすれば、経緯や思惑はどうあれ、プーチンには絶対に勝たしてはならない。近平に変な手出しをしてはやばいと思わせる必要がある。さもないと日本が危ない。
そう思って、推移を追い続けているうちにどんどん日が経ってしまったと言うわけである。
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ランチア・イプシロンのこと

ランチア・イプシロン

先月に10数年近く乗っていたランチアのイプシロンが突然動かなくなった。ランチアというのは、イタリアの名車で、ヘミングウェイの愛車だった。
白洲次郎が結婚したときに、父親の文平氏が新婦の白州文子にお祝いとして贈ったのはランチアだった。
昔、ローマからの帰り、空港の近くのペンションで車を呼んでもらったら、いわゆる白タクがやってきた。ローマの道というのは、ご存知のように石を敷き詰めた道である。そのガタガタ道をなんともスムーズに走る車に驚いて、思わず運転手に「これなんという車?」と尋ねた。
運転手は、そんなことも知らんのかと馬鹿にしたような顔をして「ランチアだよ」と答えた。これがぼくとランチアとの出会いだった。

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