前稿に書いた通り、ぼくは和知国民学校から木津国民学校へ転校編入となった。それは1944年4月のことだった。
木津国民学校へ通い出して確か数日経った頃だったと思う。担任のすこし年配の女の先生が教室に備え付けのオルガンを弾いて、クラスの全員に歌を独唱させた。全員がそうだったかどうか覚えてないのだが、とにかくぼくは「夕焼け小焼けの赤とんぼ・・・」と声を張り上げた。
その後、ぼく一人が呼び出され、放課後音楽室に行くようにとのことだった。音楽室には20数人の生徒が集まっており、教室の時と同じように次々と独唱が続いた。これは一人を選ぶためのオーディションだったようだ。
そしてなんでだか分からなかったが、ぼくが一人選び出されたのだった。なんでも1ヶ月ほどして、大阪NHKが軍隊慰問番組を放送する。その時に小学生が歌を唄うことになって、その人選が行われたのだと、説明を聞いてその時ようやく分かった。
小学校の音楽の先生として有名な吉中先生がこのことを引き受けていたようである。準備期間は1ヶ月足らず、日程が絞られていることもあってか、準備練習は厳しいものだった。
毎日夕食後、暗い田中の一本道を東へ向かい木津の街中を抜けて町外れのお寺、そこが吉中先生の住まいだった。お寺の本堂に置かれたピアノの横に立って、まずは発声練習。それから歌の練習が繰り返された。多分3時間を超えていたと思う。いつも家に帰り着くのは10時を回っていた。道端の電柱に街灯が付いていたとは思うが、小学2年生にとって全く人家のない夜中の田圃の一本道は結構緊張の毎日だった。
大阪NHKは中之島にあった。そこまでどうして行ったのか、おそらく誰かが連れて行ったのだと思うが全く記憶にない。ラジオ局の数人のお兄さんに迎えられ、すぐにぼくはマイクの前に立った。そのマイクは四角で白い磁器製みたいなもので、左右両側からピンと張ったワイヤーで吊るされていた。その前にぼくは立った。
まず、アナウンサーが、「南方の島々で日夜命をかけて頑張ってくださっている兵隊の皆様本当にご苦労様です。今宵は、皆様のご苦労を労って小学2年生高田直樹くんが歌を歌います。」と紹介し、ぼくは直立不動、力を込めて「兵隊さんよありがとう」とボーイソプラノの声を張り上げたのだった。
(下の歌詞、右へスクロールすると最後の部分が見えます)
一、
肩をならべて兄さんと
今日も学校へ行けるのは
兵隊さんのおかげです
お国のために
お国のために戦った
兵隊さんのおかげです
二、
夕べ楽しい御飯どき
家内そろつて語るのも
兵隊さんのおかげです
お国のために
お国のために傷ついた
兵隊さんのおかげです
三、
淋しいけれど母さまと
今日もまどかに眠るのも
兵隊さんのおかげです
お国のために
お国のために戦死した
兵隊さんのおかげです兵隊さんよありがたう
兵隊さんよありがたう
歌い終わると、周りのお兄さんたちは口々に「坊や、よく頑張ったね」と褒めてくれて、ぼくは嬉しかった。その後、地下室に案内され、そこは食堂のようだった。美味しいものがなくて悪いけれど、これを食べてからお家に帰ってと、ぼくの前に大きなヒラ皿に白ごはんに茶色のドロリとしたものがかかった食べ物が置かれた。
それはこれまで食べたことのない不思議な味の食べ物で、美味しいというより始めて食べるという感覚が先に立った。これがぼくがカレーライスを初めて食べた経験だった。
音楽に関する活動は、この放送で終わったわけではなかった。吉中先生は生徒による楽団を組織していて、その公演活動がかなり広範な小学校を巡って常に行われており、ぼくは知らぬ間にその一員となっていた。だから毎日の歌の練習は続いていた。
歌だけでなく、ぼくの主な役目は擬音係だった。「あした浜辺を彷徨えば・・・」と唄う合唱団の後ろで、豆の入った大きな柳行李を傾けて、「ザァーッ」と波の音を出した。また、「カエルの歌が聞こえてくるよ・・・」の歌の合間に両手に持った二つの湯呑み茶碗のお尻を擦り合わせた、「ケロ、ケロ」と鳴いて見せるのが仕事だった。
こうした活動は中学にも申し送られたらしく、進んだ帝塚山中学では勝手に合唱部と演劇部に入ることになっていた。
と、こんな風に書いてくると、世の中いかにものどかであるかのように感じられるかもしれない。しかし、実際はそうではなかった。学校の帰りには何度も米軍のグラマン戦闘機に狙われた。日本は、もう制空権を失っていた。
ある時、飛行機の爆音がしたと思ったら間近にグラマンが迫っていた。ぼくは走って道脇の土手に飛び込み、両手で頭を覆ってうつ伏せになった。近づく爆音に頭をもたげ、まっすぐこっちに向かってくるグラマンを見た。操縦席のパイロットの顔がはっきり見えた。その顔はなんと笑っていた。そして、ダダダダダダッと聞こえたが、ぼくは無事だった。当たるようには撃たなかったのだと思った。
少し離れた土手にはかなり大きな穴が空いており、微かな煙が立っていた。手で掘って、小さな鉛の塊を見つけた。持ち帰り母親に見せると、彼女は金切り声をあげて、すぐに捨てるように命じたのだった。
NHKのアウンサーは、「南方の島々で日夜命をかけて頑張ってくださっている兵隊の皆様・・・」などと言っていたが、南方の島々ではそのほとんどが既に玉砕して果てており、生き残った兵隊さんたちもジャングルの中で飢えと疫病に苦しんでいたはずだ。だからあの慰問番組はもしかしたら、そういうことを知った上での国民に向けての大本営のプロパガンダ放送だったかも知れなかった。
そう考えたのは、ずっと後になってのことだった。教師を辞めて時間ができ、日本のことを色々調べてようやく気づいたのだった。
國體の護持にこだわり、ポツダム宣言受諾を渋る中、ソ連の参戦を知ってようやく敗戦の決断をしたのだった。この決断は原爆投下によると一般に言われているが、それは誤りである。
それにしても、生き残り、かろうじて生き続けている日本の兵隊さんは、一体どんな気持ちでぼくの「兵隊さんよありがとう」を聴いたのだろうか。
その歌声、ぼく自身も聴いてみたい。でも、直後の大阪大空襲で燃えてしまったのだった。
これが西村とぼくの写真で、前にいるのが西村。喧嘩の後大の仲良しになってよく手製のバットで野球をして遊んだ。
6回目から毎年ではなくなって2009年1月18日になる。場所はホテルセントノーム京都の2階平安の間だった。この時の出席者は6年い組15名、ろ組13名、は組18名、に組12名の計58名だった。
この写真は1979年4月に卒業した、ぼくが担任したクラスの写真で真ん中あたりの髭を生やしているのがぼくです。それにしても、意外に何度も開かれていて少し驚きました。39年度というのは1964年で、パキスタン・ディラン峰遠征の前年。54年度というのは1979年でラトック1初登頂の年です。これ何か関連があるのだろうかと考えてしまいました。
今度の出席していたのは60人ほどで、がんこ寿司3階の細長い会場いっぱいの賑やかな会でした。
絢辻行人君(右)と話しました。彼もいつも出席しています。絢辻君は山登りの教え子の竹田君と同じく現役で京大に行った秀才です。正統派のミステリー作家で素晴らしい業績をあげています。このショットを撮ったのは谷舗君で、中退した彼は一年ばかりの山登りだけの付き合いだったのですが、その印象がよほど強烈だったらしく、長い空白を経て、『なんで山登るねん』の文庫本化の出版記念パーティでの再会を機に、完全密着状態となり、イタリア・スイスなどのヨーロッパまたパキスタンなどいつもぼくに同行しています。
このひだりの女性が慶ちゃんで、ずっとこの同窓会をアレンジしてくれています。祇園切り通しの地階のPickaUpというライブハウスのママでもあります。会が終わったので、ぼくは谷舗に席が空いてるシガー・バーを探してくれるように頼み、ほとんど人のいなくなった会場に一人座っていました。
会場を出て、谷舗が勧める二条通りの鴨川近くにあるK6というバーにゆきました。カウンターだけの小部屋があってそこがシガー室になっています。いいハバナを揃えていました。保存状態のいいホヨ・ド・モントレーをカカオ・フィーズで存分に楽しむことができました。ここに12時近くまでいて、それから慶ちゃんの店にゆき、とっても美味しい689という格好のいいラベルのナパの赤ワインを頂いて、帰路についたのでした。
もう10年以上も前になると思うのだが、田舎の仏壇を掃除したことがあって、その時に煤に塗れた黒くて、そしてとてつもなく古い位牌を床の間の畳に並べて写真を撮ったことがあった。
その中で、大きなものもあって書いてある文字を読み取ることが出来る。頭に還元とある。これはそう書かれることがよくあったそうで、仏になるという意味だという。下に洞雲慈現信士と戒名がある。その右に文政九戌年、左に四月廿七日とある。文政というのは、江戸時代の年号でその後期にあたり町人文化が花開いた時期というくらいしか知らないので調べてみた。文政10年には西郷さんが、6年には勝海舟が生まれている。それより何より驚いたのは、今年は文政9年から丁度200年に当たるのである。
苗字帯刀を許された仙右衛門は家紋の入った陣笠を着けて、園部城に登城したと言います。その陣笠は今も残っています。古屋敷の玄関先の庭の周りには珍しい斑入りのつつじの木が植えられており、これは園部城から仙右衛門が持ち帰ったものだと聞かされていました。また、仙右衛門の署名入りの直筆の文書もあり、これは父が額にしていました。