安倍政権が成立してから憲法の問題・憲法改正がマスコミなどで取り上げられるようになってきました。
ぼく自身は、若い頃から、「象徴天皇」は見事な作文だと言ったり書いたりしてきたし、軍隊を自衛隊という言い換えは、子供だましの言葉遊びみたいなもんだと思っていました。
二十歳代の就職してすぐの頃、その頃は職場などでもなんの問題についても議論することが盛んだったのですが、組合員の同僚たちの自衛隊違憲議論の輪の中につい割って入り、「そんなに具合が悪いなら、憲法を変えればいいのではないですか。全ての決まりとか約束事は都合が悪くなれば変えて行くもんでしょう」と言ってしまいました。
一同は、半ば呆然とした面持ちになり、一人が「君はとんでもないことを言う奴だなあ」とあきれたように言ったものでした。
本当のところ、当時のぼくにとっては、そんなことはどうでもよくて、山登りだけが関心事だったと思います。それから高度成長の続く何十年もの間、無関心のまま過ごしてきたのではなかったかと思います。
大きく変わったのは東北大震災からだったのではないか。そんな気がします。この<葉巻のけむり>を始める気になったのもあれからでした。こうしたことはぼくだけではなかったのではないでしょうか。
さらにつづいて、いわゆる近隣諸国の侵攻とも言うべき事態が相次いで起こる中で、誰もが日本人とは、とか日本の国とは、などと考えるようになった。
こうした状況の中での民主党政権のていたらくは、多くの平和ぼけの日本国民の覚醒を促したし、そしてそれが、ほとんど予想もしなかった安倍政権を誕生させたといえます。だから、このことをカミカゼが吹いたという人もいるくらいです。
この数ヶ月、日本という国に関して、興味の赴くままに、ネットと書物を読みあさっていました。まず歴史教科書から歴史問題そして憲法と、こうしたことはお互いに深くかかわっており、追いかけるときりがありません。
どれか一つの中の一つのテーマを書こうと思って調べていくと、気がつくと別の問題に入り込んでいるのです。
新しい事実の発見みたいなことは、実に楽しく面白く、それを追っかけることの方が優先してしまいます。
そんな訳で、ブログに関して、ともかく早くなにかは纏めないといけないという切迫感をおぼえつつも、なかなか筆を執る気にならなかった訳で。
それにしても、この歳になるまであまりにも知らなさすぎたという自責の念と、いささかの忸怩たる想いそして知る嬉しさみたいな感覚がないまぜになったある奇妙な感覚を覚える日々を送っていました。
こんなことをしていても始まらないと思い、取り上げることにしたのが「五箇条の御誓文」です。これは帝国憲法の下敷きになったものです。もともと日本国の最初の憲法は、推古天皇の御代に聖徳太子が作ったとされる「17条憲法」です。しかしこの日本国最初の憲法は、調べてみると「和を以て貴しと為し」というだけの単純なものではありませんでした。
「17条憲法」は、憲法とはいっても一般民衆を対象としたものではなかったようです。
聖徳太子・厩戸皇子は海の向こうの大国に対し、小国の日本が独立の矜持を持って向き合うという気概をもって、有名な「日出づるところの天子・・・」の国書を送ります。
彼は深く仏教に帰依していました。そして、その仏教に則った理想の国を作るのがいかに難しいかを知り、ある挫折感とともに国を治める役人たちへの訓戒あるいは切望として作ったものが「17条憲法」だったといえるようです。彼の頭では、日本国民は「君・臣・民」の3つに分類されていました。
君は天皇一人であり、臣と民は明確に分離されており、臣つまり役人・官僚に対して書かれたものが「17条憲法」でした。そういう意味では、本来の憲法とはいえないと思われます。
それにしても、その内容は、こんにち霞ヶ関のビルの各部屋の壁に貼って欲しいようなものです。少し驚きましたし、また感動もしました。あの時代にこんな素晴らしい教えを起草した人物がいたこの国は素晴らしい。この国に生まれてよかったと思いました。
少なからず、長過ぎて退屈な引用になるかもしれませんが、その口語訳を示すことにしました。
第一に示しておきたいことは、人には調和が何よりも貴重であり、他の人々に逆らわないようにする事が大切である、ということなのである。
人はそれぞれ好むグループがあるし、心が充分鍛えられているような者は少ないものだ。従って仕えるべき上司や両親の命令にそむいたり、まわりの人たちと意見を違えたりもする事になるのだ。
しかしながら、もし上の者の心が穏やかで、下の者の心が素直で有れば、たとえどんな事を議論したところで、必ずお互いに理屈が通じるようになるから、世の中で達成できないことは何もなくなってしまうのである。
第二に示しておきたいことは、仏教の三つの宝を心から敬って欲しい、ということなのである。
三つの宝というのは、覚った仏・仏の説いた法・法にしたがう僧の三つのである。
これらは、生きとし生けるものの最終的な拠り所であり、すべての国にとって最も大切な教えなのである。
したがって、いかなる時代のいかなる人であっても、この教えを貴ばないでよいという事があるだろうか。
きわめて悪い人間などというものは非常に少ないし、それらの者でも、よく教え導きさえすればついてくるものだ。
しかしながら、もしこれらの三つの宝を拠り所としないとしたならば、どうやって心のまがっている者達を正しくする事が出来るだろうか。
第三に示しておきたいことは、天皇より詔勅を受けたときには、必ずその命令に従うように心掛けよ、ということなのである。
天皇とはいわば天のようなものであり、臣とは地面のようなものである。天が上にあり、地面が下で支え、四季がきちんとめぐってこそ自然のすべてがうまく行くのである。
万が一地面である臣が、天である天皇の上に覆いかぶさろうとすると、まさに世の中は破滅するのである。したがって、天皇が命ずる事に臣が従い、上の者が行うことに下の者が従って行くべきなのである。
だからこそ、天皇より詔勅を受けたときには、必ずその命令に従うように心掛けよ、というのである。もし従わなければ、まさに自滅することになるのである。
第四に示しておきたいことは、国家の官僚諸役人たる者は、秩序正しさを基本とすべき、ということなのである。
国民を統治するための基本は秩序正しさという事である。上の者が秩序をきちんと守らないと下の者は落ちつかないし、下の者が秩序を守らないと、必ず何か悪い事をするようになる。
したがって、天皇と臣とがともに秩序を守るならば、世の中の上下関係が乱れることはない。国民全体がきちんと秩序を保てば、国は自然にうまく治まるのである。
第五に示しておきたいことは、貧りの心を絶ち、欲望を捨てて、正しく裁判を行わなければいけない、ということなのである。
国民からの訴訟は、一日に千回にも及ぶ事さえあるのだ。
一日でさえそれほど有るのだから何年も経過したらそれこそ大変な数になるのである。
近頃では、訴訟を裁く者が、利益を得る事ばかりを気にして、訴えた者からの賄賂の高によって取り上げているのである。
したがって、金持ちからの訴えは、石を水の中に投げ入れたようにすぐに取り上げ、貧乏な者からの訴えは、石に水をかけた時のように全く無視してしまうのである。
第六に示しておきたいことは、古くからの良き伝統的教えとして、悪い者をこらして、善い者を支持する、というものがある、ということなのである。
したがって、他の人々の善行を隠す事無く、またもし悪行を見た場合には必ず直させるようにすべきなのである。
へつらったり欺いたりするような人間は、国を滅亡させる恐ろしい武器なのである。
彼らはまた、人民を抹殺する鋭い刀でもある。
またおもねたり媚びたりするような人間は、上の者に向かっては下の者達の欠点を指摘し、下の者に向かっては上の者達の悪口を言うのである。
このような人々は、天皇に対しては忠義の心がなく、国民に対しては思いやりの心がないのだ。
したがってこれらの人々こそ、国が大きく乱れる根本になるのである。
第七に示しておきたいことは、人間にはそれぞれ適応した仕事があるので、うまく仕事を与えて、ふさわしくない仕事につけるべきではない、ということなのである。
立派な人物をそれなりの官職につけたときは、そのことに対しての讃辞が起こるが、心のねじけた者が公職につくと、いろいろな間違いが起こってくるのである。
この世に、生まれつき何でも知っているような人はほとんどいない。良く考えるから立派な人間になれるのである。
大きな事でも小さな事でも、適当な人物を得る事が出来たときに初めてうまくいくもある。急ぐ時にも急がぬ時にも、立派な人物を得る事が出来たときに、自然にうまく行くのである。
このようになったときに国家はいつまでも栄え、朝廷がゆるぐ事もなくなるのである。
だから昔の立派な王様達は、仕事に適した人物を求め、決してその人物のために仕事をもうけたりはしなかったのである。
第八に示しておきたいことは、国家の官僚諸役人たる者は、出来るだけ早く登庁し、おそくまでつとめてほしい、ということなのである。
官吏の仕事というものは、一日中やっていても終わらないほど忙しいものなのである。
したがって、もし遅く登庁すれば、急ぐ用事が間に合わなくなるし、早く帰ってしまうような事になると、全部の用事がすまないということにもなってしまうのである。
第九に示しておきたいことは、信じるという事こそが正義の基本である、ということなのである。
何事を為す場合にも、この『信』というものを忘れてはならない。善とか悪とか、あるいは成功とか失敗とかは、信があるかないかによるのである。
上の者と下の者とがともに信を持っているならば出来ない事等は何一つ無いのである。
上の者と下の者がともに信を持っていない場合は、いかなる事をしようとしても、すべて失敗に終わるのである。
第十に示しておきたいことは、心の怒りを無くし、外側に怒りを出す事をやめ、そして他の人たちが自分と違う意見を持っている事に対して腹を立ててはいけない、ということなのである。
一人びとりにはそれぞれの心があって、その心が拠り所とするものは同じ訳ではない。
相手が正しいとすれば自分が間違っているのであり、自分が正しいとすれば相手が間違っている事になる。
自分がいつも偉いということはないし、相手がいつも愚かであるということもない。
お互いに平凡な人間にしかすぎないのだ。
一体誰が正しいとか間違っているとかを決める事が出来るという事なのだろうか。ちょうど、丸い輪には端がないように、お互いに賢い事もあれば愚かな事もあるのだ。
したがって、たとえ相手がどんなに腹を立てても、自分の方が間違っていないかどうかをまず考えるべきなのである。
そして、たとえ自分が正しいのではないかと思ったとしても、他の人々の意見を聞いて同じように行動すべきなのである。
第十一に示しておきたいことは、功績と失敗とをはっきりと見きわめて、国民のそれぞれに適した賞や罰を与えるべきである、ということなのである。
近ごろ功績の無い者に賞を与えたり、罪の無い者に罰を与えているように見える。このような仕事に当たっている役人達は、正しく賞と罰を与えるようにすべきである。
第十二に示しておきたいことは、知事をはじめとする地方官吏達は、その土地の国民から自分達のための税金を取ってはならないということなのである。
一つの国に二人の君主がいるわけはなく、したがって、国民が二人の主人をもっているわけはない。その国全体に住んでいる国民は、天皇だけを君主と仰ぐのである。
天皇によって任命されたすべての地方官吏は、一人残らず天皇の官吏なのである。それなのにどうして国民から、国の税金以外に、自分達のための税金を取って良いという事が有ろうか。
第十三に示しておきたいことは、いろいろな役所で仕事をしている者は、同じ職場に勤めている者の仕事の内容を知っておくべきである、ということなのである。
中には、病気になったり、出張したりして、自分の仕事が出来なかった様な者もいるはずである。
しかしながら、それらの人が再び仕事に戻ってこれるようになったら、前と同じように仕事がすぐ出来るように、整えておいてあげるべきである。
彼らの不在の間の事など全く知らない等と言って、公務がとどこおる事の無いように注意すべきなのである。
第十四に示しておきたいことは、すべての官吏は、他人をうらやんではならない、ということなのである。
もしこちらが他人をうらやめば、相手も今度はこちらをうらやむことになる。このようなうらやみには、際限がないのである。
すなわち、知識が自分より勝れていれば嬉しくないし、才能が自分より勝れていればうらやむのである。
このようなわけで、たとへ五百年たってからやっと一賢者に出会うようなことはあっても、千年たっても一人の聖人をも得ることができないことになるのだ。
もしそのような賢人や聖人を得る事が出来ないとしたならば、どのようにして国を治めたらよいのであろうか。
第十五に示しておきたいことは、個人的なことは二の次にして、まず国のためにすることが、臣として正しい事なのだ、ということなのである。
そもそも個人的な事のみに関心を示すと、必ず何らかのうらみが残るものであり、そのようなうらみがあると、絶対に他の人々と行動をともにしようとはしない。
他の人々と行動をともにしなければ、必然的に、個人的な理由によって国の利益をそこなうことになる。
うらみ心が起こるときには、規則をやぶったり法律に違反したりする事にもなるのだ。だからこそ第一条で、上の者と下の者とが互いに相手を思いやれ、といったのである。
その意味はここの場合と同じなのである。
第十六に示しておきたいことは、国民に労働力を提供させる場合には慎重に時期を選ぶというのが、古くからの良き伝統である、ということなのである。
したがって、冬の間で比較的に時間的余裕があるときには、国民に労働を課してもよいのである。
春から秋になるまでの間は、国民が農業や養蚕に従事する季節である。したがって、国民に労働を課してはならない。
もし農業に従事すべき時期に国民が働かなかったならば何を食べれば良いのか。叉、適当な季節に桑の葉で蚕を養わなかったらば何を着たらよいのであろうか。
第十七に示しておきたいことは、物事を決断するときには一人でしてはならない、ということなのである。
必ずみんなと一緒に相談してから決定すべきなのである。小さな問題の場合はそんなに重要ではないから、必ずしもみんなで相談しなくてもよいだろう。
しかしながら、重要な問題について議論する場合には、少しでも間違った結論に到達する恐れがあってはならないのである。
だからこそ多くの人々と一緒に議論する事によって、正しい結論に到達できるようにするべきなのである。
「五箇条の御誓文」については次回おくりになりました。
(口語訳は、花山勝友著『高僧伝聖徳太子』を引用)