ぼくは軍国少年ではなかった

どうやらぼくは軍国少年ではなかったと思える。同年輩の人たちの話から、考えるとどうもそんな気がする。どうしてか、少々気になることではある。何故なんだろうと考えてみた。

満一才になった時から小学生に行くまでの期間、ぼくは祖父母の元で育った。そこは、丹波の山里で、鹿が現れたり、狸が樹に攀って柿を食べていたりというような場所だった。町中にいたら、大人達の話を聞いて戦争のことも少しは聞き知ったかもしれないけれど、トンボや蝉と遊ぶ子供には、まったく関係のないことだった。
学校に行くようになっても、この傾向は変わらなかった。だから、国民学校の門をくぐって、奉安殿の前を通過するとき、「歩調取れえ」「かしらみぎい(頭右)」と号令をかけていても、それはたんなるプロシージャーに過ぎなかったようだ。(奉安殿というのは、天皇陛下のご真影が収められている建物で、校門を過ぎた辺りにあった)

幼児期のぼくに大きな影響を与えたのは、たぶん祖父だったと思われる。ぼくが、戦争の話しをしてほしいと言った時、日露戦争に行ったことのある祖父は、「戦争なんぞしゃあないもんじゃ」と吐き捨てるようにいい、ぼくは聞いてはいけない話しなんだと思った。たぶんどういう経緯だったか忘れたけれど、祖父はこういったのを憶えている。

「あのなあ、ぼんよ。天皇陛下もしょんべんもウンコもしやあはるんやで」それは、誰かに聞かれたら不敬罪は確実だったろう。

祖父母はぼくを近くの学校に入学させるつもりだったが、父は強引に連れ戻し和知国民学校に入学させた。毎朝の朝礼は、霜柱が立った、あるいは雪のの積もった校庭で行われた。生徒は靴を履くことは許されなかった。裸足で精神鍛錬するということだったらしい。ぼくは足裏に出来た赤黒いシモヤケに苦しんだ。

二年生になった時、教員であった父母の転任に伴って、ぼくは木津国民学校に転校した。転校して数日経ったある日、担任のお婆さんの先生は、オルガンの前に座り、全生徒に順に歌を独唱させた。曲目はたぶん「菜の花畑に入り日薄れ・・・」というあの「朧月夜」だったと思う。

先生にいわれた通り、放課後職員室に行くと、「音楽室に行きなさい」と指示された。数十人の生徒いた。全校の各クラスから来たようだった。そこでまた、同じように唱わされたのだが、その時の曲がなんだったかは記憶にない。これは、オーディションだった。それが分かったのは翌日のことで、音楽教育では有名であった吉中先生は、君は「一ヶ月後に大阪のNHKで独唱するんだぞ」と告げた。

翌日から始まった特訓は凄まじいものだった。夕食後、歩いて半時間ほどの距離にある先生の自宅のお寺に通った。練習は本堂の中で行われたはずなのだが、あまり記憶にない。帰るのは10時か11時、暗い夜道を一人歩いて帰った。

NHKは中之島にあったようだ。天井からV字状に細いワイヤーによって吊り下げられている、白くて四角い陶器のような感じのマイクの前で、ぼくは直立不動で唱った。アナウンサーが「戦地の皆さん。ご苦労様です。小学生の高田直樹くんが皆さんのために唱います」と紹介したように思う。そしてぼくは、兵隊さんよありがとうを唱った。

肩を並べて 兄さんと 今日も学校へ 行けるのは 兵隊さんの おかげです
お国のために お国のために 戦った 兵隊さんの おかげです
兵隊さんよ ありがとう 兵隊さんよ ありがとう

と、ぼくは黄色い声を声を張り上げたのだろう。なにしろぼくは全校数百人から選ばれたボーイソプラノだったのだから。ぼくの声は、大東亜共栄圏、中国から東南アジアの島々まで届いたはずだ。

「20世紀を見に行く」を見ていて思ったのだが、南の島々では日本の兵隊さんは飢えに苦しみ、連合国軍の圧倒的な物量の前に次々と玉砕して果てた。たとえば、マーシャル諸島での戦死者は、連合国軍80000人中370人、日本軍8600人中7800人。兵隊さん達はぼくの歌をどんな気持ちで聴いたのだろう。急に気になって、Wikipediaで調べてみた。

放送は昭和17年のこと夏前だったと思うのだが、この年の5月5日ー7日のミッドウェー海戦で、日本軍は大敗を喫した。これが敗戦への分かれ目だった。それまでは、破竹の進撃だったようだ。だが、この秘匿された大敗は知らされておらず、兵隊さん達は励まされた気分になったのだろうと思い、少しホッとした。

放送が済むと、数人の大人が「坊やご苦労様だったねぇ」と声をかけ、地下の食堂にいざなわれた。そして、平皿に白飯に褐色のどろりとした液体がかかった不思議な食物を与えられた。それは実に美味だった。この記憶だけは鮮明だ。これが、ぼくがライスカレーを初めて食べた時の記憶である。

それから3年後の昭和20年3月、米軍は夜間無差別絨毯爆撃の大阪大空襲を行った。ぼくがグラマンに狙われたのもこの頃だったと思う。8月15日の玉音放送の前のことだった。家の近くの古井戸の防空壕から外に出ると、西の空が真っ赤に燃えて見えた。翌朝、空が真っ黒に曇り、紙の燃かすや灰が止めどなく降り続いた。

ぼくの放送の話しを聞いた人はかならず、録音がないですかと訊ねるのだが、あの空襲で録音盤は灰となったはずだ。当時はテープレコーダーはなく、録音はレコード盤に刻むのが常だった。

「20世紀を見に行く」は、ぼくの薄れつつある記憶を鮮明にしてくれているようである。