ビータスが死んだ(2006.8.7)

mixi日記2006年08月07日06:37より転載

ビータスが逝ったのは、2006年7月12日の夜。
生きておれば、今日が誕生日で14歳になるはずだった。
ゴールデンのような大型犬は短命なので、13歳は人間でいうと96歳に相当する。天寿を全うしたといえるかもしれない。
山登りを続けてきた結果、ぼくは若い頃より普通ではない数の人の死に立ち会ってきた。
しかし、こんな感じの強烈な喪失感を味わったのは初めてのことだった。
思い出したり、文字にしたりするだけで、もう涙があふれそうになり、胸が詰まってくるので、話すことさえ出来なかった。

一ヶ月近くがたち、漸く文字にすることが出来るようになったといえる。
ビータスはゴールデンレトリーバーという犬種で、彼のお父さんは、通称「フリスコ」で日本中に知られた有名な犬だった。
BITASと綴る。これはボニート、インテリジェンテなどスペインン語のいい単語の頭文字をとったもので、スペイン語科卒の末娘が名付けた。
その名前通りに、いいやつで賢かった。トイレから「ビータス、しんぶん」とどなると、新聞をくわえて持ってきてくれた。
寝るときを含めて、いつもぼくと一緒だった。

しばらく続いた猛暑がたたったのか、ビータスは急に食事をしなくなり水も飲まなくなった。その夜、ぼくと家内は広間でビータスと一緒に眠った。
何ヶ月か前から、ビータスはベッドに上がるのが無理になっており、床の上で寝るようになっていた。
翌朝、かかりつけのお医者さんの話では、熱中症みたいです。今日1日点滴をしましょう、という話だった。昼頃、「息づかいが気になって、胸部のX線を取ったら、片肺が全く働いていません」という報告が来た。
夕方、輸液が終わったのを機に家に連れ帰ることにした。

真っ白な片肺がくっきりと写ったX線写真を見て愕然とした。急性肺炎といえるのだろう。熱中症ならすぐに直ると楽観していたぼくは、このときビータスとの遠くない別れを予感した。
家に着いたのは、夕方の7時だった。
息子や娘が帰ってくるのは明日の夜だから、明日の朝から輸液を続ければ、夜まで持つかもしれない。お医者さんも輸液をしに行きますといって、針を刺す管は、セットされたままにしておいてくれたんだし。ぼくはそんなことを考えていた。

ビータスは、眠るときのいつもの姿勢で横に大きく横たわり、荒い息をしていた。
ぼくは傍らに座り、耳の辺りをなでなから、「歩くのは無理でも、見るだけでいいから連れて行ってやりたいおまえの思い出の場所があったんやけど。残念や」と一人ごちた。涙がボタポタとビータスの脇腹に落ちた。
その時、ビータスが必死の様子で首をもたげ、ぼくの首に頭を埋めた。
そばの家内が、「おとうさん、ビータスが泣かんといて言うてる」と小さく叫んだ。
「わかった。泣かへんよ」
必死に涙をこらえつつ、ぼくはビータスを抱きしめていた。

そばの椅子に座って、昨夜から今日にかけての行動の詳細を、パームに記入している時、
「おとうさん、ビーの息が変わった」と家内がいった。
見ると、結構荒い息で上下していた腹部が、穏やかな息に変わっていた。ぼくは椅子から立ち上がり、ビータスの枕元に1・2歩歩みながら、
「ようなってきたちゅうことか、あかんかのどっちかやろ」といった。
その時、ビータスの前足を握り続けていた家内が、
「息してへん。ビータス」といった。
たしかに、もうあの大きく上下していたお腹は動いていなかった。それは、ぼくがビータスを抱きしめて最後の別れをしてから5分とはたっていなかった。20時45分だった。

ビータスの枕元に座り、とっておきの赤ワインを開けた。
ビータスは赤ワインが好きだった。これは子犬の時、ベッドでぼくの寝酒の赤ワインを舐めさせたのが、原因のようだった。
香りのいい赤ワインを開栓すると、どこにいてもすぐに現れて、そばに控え、離れなかった(食べ物をねだることはいけないことになっていた)。
ぼくはいつものように、グラスに右の人差し指を浸し、ビータスの口に運んでやった。もうビータスの舌が指に感じられることはなかった。ほほを伝った涙が、グラスに落ちた。

ぼくは、ヒューミドールを開け、シガーを取り出した。「ロメオ・エ・ジュリエット」のリミテッドエディション2003、これも吸う機会がなくて、ずっと持っていたものだった。
紫煙が立ち上るとともに、少し胸の痛みが和らいだような気もした。
変な犬のビータスは、葉巻の煙を好んだ。葉巻をくゆらせていると、そばにやってくるので、冗談で煙を吹きかけると、逃げるどころか、口をなめにきた。そのままにしておくと、いつまでも舐め続けた。
何年か前から、ビータスは歯周病が進行したのか、口臭がひどくなっていた。シガーを楽しんでいると、思い出したかのように駆け寄ってくることがあったが、いつもぼくは無視することにしていた。ビータスは、ぼくが顔をそむけたままでいると、しばらく待ってから諦めるのが常だった。
昔と違う冷たい態度は、きっと悲しかったんだろうなあ。ぼくは悔やみつつ、葉巻を吸った。
ワインを飲み、葉巻を吸いながら、ぼくはビータスに語りかけ続けた。

お前みたいにおっとりした子犬は初めてやった。家に向かう途中助手席のわしの膝の上で、1号線の「横綱ラーメン」のネオンサインをキョトンと見上げていたなあ。
子供用の靴下をはいて、祇園のお茶屋さんのお座敷に上がったのは、まだ一歳になってなかったなあ。ちょうどその日が「お化け」の日で、舞妓・芸妓におおもてで、顔中白粉と紅だらけになった。
下北半島一周も一緒したなあ。
北山や信州にもよういった。
ヒコーキで東京に行き、事務所のマンションで1週間を過ごして、赤煉瓦通りを毎日通って山渓のビルにも通ったなあ。
まあお前みたいに色んなところにいって、ぎょうさんの人に会って、かわいがってもろた犬も少ないで。
どんなところ、どんなときでも、ノーリードちゅうのがお父さんの自慢やったんや。
ワインが空き、夜が白みはじめたころ、いつものようにビータスに頬を寄せた。ビータスはまるで眠っているかのようで、とても生命がすでに飛び去っているとは思えなかったから、この動きはごく自然だった。
激しい嗚咽がこみ上げ、その慟哭をこらえようとして、ぼくはもがいた。「ビータス」と呼びかけながら、歯を食いしばって平静を保とうとし、その結果、ぼくは呼吸困難に陥った。
目を覚ました家内が、心配してそばに来た。

荼毘は、天瀬ダム左岸の山上にある「宇治動物霊園」にお願いすることにした。
7月15日10時前、子供たちと3台の車で、斎場に向かった。
ビータスは、後部座席にいつものように横たわっていたが、すこし死臭を感じた。
10時35分、葬儀場に安置。読経があり、参加者は、配られた木札に、それぞれ願文を記した。
ぼくは、「天空の星となり、知る人すべてを見守れ!」と書いた。
骨壺は、大きなものにした。骨壷袋の色は、ビータスはゴールデンだったから、金色にした。
ビータスの遺体は、焼却炉前に安置された。枕元には、いろんな人から頂いた、花束たちや好物のトマト、リンゴどもが並んでいた。みんなは、それぞれ撫でさすったり、合掌したりして、最後の別れをつげた。
11時、荼毘開始。午後1時、骨あげ。
体重30kgのビータスは、ひどく小さくなって我が家に帰ってきた。

飼い犬は飼い主に似る、と普通いわれる。
でも、ぼくは、それは逆で、飼い主が飼い犬に似るのではないかと思うのだ。
54歳の若さで退職してからのぼくを、ビータスはどれほど癒してくれたことか。
どちらかといえば、闘争心があらわなぼくの性格は、ビータスの社交性と優しさに教えられることが多かった。
高齢になりながらも、毛も抜けず、美しい体躯を保ったまま、さしてひどく苦しみもせず、周りに世話をかけることもなく、ぼくにもしっかりとお別れを言って、実に安らかに逝った。
最後まで教えてくれたような気がするのだ。

ビータスの骨壺は、ぼくのEuroCaveのワインセラーの上、ヒューミドールの横に安置してある。49日までここに置き、その後は寝室に移す。ビータスは、生前と一緒だと喜ぶはずだ。
そして、僕が死んだ時は、一緒に埋葬してもらうはずである。
ハプスブルグ家最後の皇女エリザベートがそうしたように...。