信州から高岡への旅で考えたこと

先日、山の後輩たちが古希を迎えたとのことで、信州で古希の同期会を開くとの連絡があって、家内ともども参加することにした。
この年代が一年生のときから、ぼくは山岳部の監督を務めていた。彼らが3年生になったとき、婚約中のいまの家内を連れて夏の横尾本谷合宿に参加した。このときに起こった傑作な出来事は、『続なんで山登るねん』の<夏の横尾本谷に迷いこんだとんだオジャマ虫>に書いた。
ちょうど10年前の還暦の同期会も、おなじ信州は飯森の上手舘だった。このスキー民宿の主人の久八さんは、ぼくたちのスキーの先生だったという因縁で、大変長い付き合いなのである。
この集まりには、ぼくをはじめ同期ではない上級生も何人か参加していた。
そのうちの一人の後輩と宴会の後での歓談のうちに議論になった。彼は少し特殊な人生を歩んだともいえる男で、大学での山登りを途中でやめ、医者になって日本を変えることに奔走した。〇核というセクトに属し活躍したのだが、夢かなわず北海道に渡り市民病院の副院長を務め終えた後、関西に戻ってきている。
今では、原発廃止運動に邁進しているという。関電の守衛ともみ合うのが生きがいという感じなのである。

どういう筋道で、そうなったのかは定かな記憶はないのだが、ともかく議論が対立した。彼は少なからず激昂し、「でも日本人は、中国を侵略して、中国人を虐殺したでしょう」といった。
ぼくは、世界史における侵略という一般的な意味において、日本は中国を侵略したとはいえない。戦争はしたのだから敵を殺したけれど、いわれるような虐殺などしていないと、反論した。真珠湾攻撃だって突如始まったわけではない。四七士の討ち入りが突如始まったのではないように、などというぼくの日本軍の侵略と虐殺否定の説明には、まったく耳を貸そうとはしなかった。
それで、結局は見解の相違ということになったわけである。
正直言って、ぼくだって、10年あるいは4・5年前までは、彼と同じように考えていたと思う。というか、そんな事はどうでもよかった。
信州の帰り、富山の高岡に立ち寄った。ここには、高校の教え子のH君がいて、彼は山岳部員だったこともあり、付き合いが続いている。彼の奥さんのヨーコさんは、市の職員で昔ぼくを何度か講演に招いたり、市の広報誌に連載を依頼してくれたりした関係である。
知り合いが集まってくれて会食したのだが、ここでも同じような話題で議論が沸騰した。
H君は原発を問題にしており、ドイツからセシュウムカウンターを取り寄せて、計測を行なったりしている。彼によれば、高岡もセシュウムに汚染されているという。
ぼくを含めて、彼以外の人たちの考えは、そんなことを言ってもしゃあないやないかという考えなので、彼はだんだんカッカしてきて、「あんたの孫を福島に住まわすことができるのか、タカダはん」と噛み付いてきた。
福島の子供を救えない政府が、どうして尖閣を守れるのか。などと、なんだかばらばらとも思えることをいって息巻いている。
別の一人が「戦争したらいい。一発かましたったらいいんや」というと、彼は戦争したら負けるに決まってる。だいたい尖閣は中国のもんやとカイロ宣言にあるではないかという。彼の愛読書は孫崎亨だそうで、なるほどと思った。
孫崎という元外交官は、「朝生」で、カイロ宣言とボツダム宣言をあげて、中国の言い分を認める立場を取った。そして、放送中のツウィッターのツウィートの大半が、孫崎批判であることが知らされると、彼は歯をむき出して無言で笑い、田原総一郎は激しい口調で「それは孫崎さんの優秀さの証明ですよ」と、理解不能の発言をした。(後で知ったのだが、習金平もまったく同じことを言っている。「朝生」の正体見たりということなのかと思った)

このすぐ後、大学の同級生のKがメールしてきた。昔からやっている異業種間交流の会の20周年記念で芦田譲という教授が「東日本大震災後のエネルギー問題」という講演をするから参加しないか。そういうお誘いの知らせだった。異業種間交流などというスケベ根性の集まりは、かつて大流行したのだけれど、その後一気に衰えた。たぶんお客が少ないからなのだろうと、参加することにした。
京都駅近くのホテルの会場に着くなり、Kは後の懇親会でスピーチしてくれという。
どんな感じの会かも分からんから後で考えると答えた。
聴衆30人足らずのその講演は、まずはドル札の目と千円札の湖に映った富士山と野口英世の片面の顔の話から始まった。フリーメーソンの名前が挙がったがそれがどうしたという話でもない。湖に映る富士山の影は、じつはイスラエルの山だという。どうも胡散臭い話に思えてきた。
どれもこれも、あちこちによく出てくる陰謀話ですべていかがわしさを持っている。
だいたい陰謀論というものは、多かれ少なかれ、あるいかがわしさを持っているものである。
このへんから、ぼくはがんばって聞く気がかなり萎えてしまった。いくつも気になる点があった。
彼は、原発再稼動反対で再生エネルギーを言うのだが、それらはすべてテレビで語られているものだった。数字やグラフは多用されていたが、それでどうしたという感じのものだった。シェールガスの未来を語っていたが、それによる環境破壊に対する言及はなかった。メタンハイドレートについての説明はあったが、砂交じりのものだから取り出す技術開発が必要だという。
アンカーで、青山茂晴氏が何度も説明し、日本海に面した府県の知事が合同で開発を進めようとしている、日本海側のメタンハイドレート露頭などについては、まったく無視だった。少々の勉強不足と石油メジャーとの癒着が想像された。
驚いたのは、一次、二次と続いたオイルショックの説明だった。産油国が値段を吊り上げたのが原因というだけの説明だった。なぜ吊り上げたのかが問題でこれは必ず説明の必要がある。
第二次大戦後、米ドルが世界の基軸通貨となり、ブレトンウッズの会議で対ドルレートが決まったのだが、この時は米ドルは唯一の兌換券だった。つまり金と交換できた。
ところが、ベトナム戦争でお金を使いすぎた米国は、1971年突如、ドルの金交換を止めると発表した。ここでドルは、紙切れのいわゆる非兌換券となった訳だ。
サウジをはじめとする中東の産油国はびっくりし、そして怒った。石油を売った代金はアメリカの銀行に預けてあったのだが、これがすべて紙切れになったということだったからである。
そんなら、もう石油は売らないよといい、アメリカは「そうか。そんならお前らの銀行にある金は凍結する」と返した。
これがぼくが理解している第一次オイルショックなのである。この金兌換券の中止は世界経済史の大事件であり、どうしても言及する必要があると思えた。

尖閣の問題に関連しては、さすが石油探索の権威だけあって、地図での詳しい説明があった。日本も中国に対応して第一列島線と第二列島線を定めたが、主張する領海を第二列島線とすればいいものを、変に遠慮して二つの列島線の間としたため、直ちにその線上に3つの油井掘削基地を作られてしまった。これは失敗だったという話だった。
ところが、講演の最後の締めくくりとしてはこんなことをいったのだった。私たちは地球市民として、アメリカともカナダとも中国・韓国とも仲良くして行かなければならない。これは聞き捨てならないとぼくは思った。
さっき、後の懇親会のスピーチの依頼があったのだが、そこで話したのでは、たぶん座がしらけるだろう。噛み付くなら今しかないと思った。
「質問ある方は?」との声に誰も手を上げない。しばらく待ってからぼくは発言を求めた。
中国は1985年ごろ、すでに尖閣を取ることを国策として決めている。最近の漁船・公船も日本の巡視船に阻まれて引き返しているのだが、その時に持ち来たった中国領土と彫った総量1トンにも及ぶ石柱を海底に沈めて帰っている。この腰まであるいは背丈ほどもある石柱は後に中国の領土主張の証拠となるかもしれないという。彼らは中国に帰ってから、「日本国の船に阻まれて上陸できなかったから海底に沈めてきた」という報告を石柱の写真を付けて行なっているのである。
東京では、朝日新聞と提携した形で「人民日報」が一万部も発行されている。別の中国の新聞には一面トップで「沖縄の主権は中国にある」とある。北海道や東北あるいは四国九州で中国人が土地を買い漁っている。
中国の代弁者のような日本人は、ことの起こりを石原知事あるいは野田首相とするが、それは誤りで中国のたくらみを隠そうとしているように思われる。中国は長期展望に立って尖閣を奪おうとしていることは明らかだ。だから、地球市民などというような認識を持つことは誤りなのではないか。
というようなことを述べたのだ。
これに対して、かなり長い回答というか説明があった。
ぼくは、もう少しだけ言わせてくださいとお願いして、こういった。
「先生と議論する気は毛頭ありません。しかし、今のご説明で、妥協点という言葉が少なくとも6回出てきました。この言葉は、さっき先生がご説明になった、二つの列島線の間に引いた失敗の線に相当するのではないでしょうか」

後の懇親会の席で、芦田先生も挨拶に来られたし、主催者の女性もおいでになったので、「勝手なことを言いまして」と付き合い上での詫びを入れておいた。
K君が「君と話したいといってる人がいる」と一人の中年の男を連れてきた。
彼は開口一番「いやぁ、すばらしいスピーチでした。私ほんとにすっと胸のつかえが取れた気がしたんです。よう言うてくれはりました」と勢い込んで一気にしゃべった。二人で少々盛り上がった会話を交わした。
飛び入りで参加して、気まずいことを言ってしまったかなと気にしていた心配が吹っ飛んだ気分だった。

以上のべた連続しているともいえる印象的な出来事は、ぼくに何か一種の苛立ちと不安を感じさせたように思われる。このブログにも書きたいことがいっぱい出来たのだが、ありすぎてまとまらないという感じだった。いづれにしろ、自分自身について考えてみることを迫られたといっていいと思う。
日本人の中には、深く、日本人は大陸で悪事をなしたと考える人がいて、だから大陸の国には強く反論できないと思っている。これは一種のマインドコントロールの状態ともいえる。そうした人はほぼみんな善人で、だからなおさら一途に信じ込むことになる。
こうした無意識でかつ善意の売国の輩は、広く日本に分布している。そういう人たちは結構高学歴であり、いわゆるインテリ層でもある。みなの衆ではなく市民である彼らは今も朝日新聞購読を止めようとしない。
昭和2桁生まれ以降の人々である。いわゆる戦後教育を受けて育った。なかでも、戦後のベビー・ブームに生を受けた彼らは、忌むべき自虐史観を刷り込まれつつ育ったといえる。
ぼく自身、昭和二桁のボーダーに乗っている。この年代は一応敗戦を経験している。グラマン戦闘機に狙われた経験もあるし、進駐軍を見たこともある。戦後の教育を受けたとはいえ、前の世代の考えも受け継いでいたといえる。
たしかぼくが40歳代の頃、小学校長を終えて教育長をしていた亡父は、よくぼくに「アメリカが日本をだめにした」と繰り返し説いたが、うんうんと頷きながら、そんなことはあるわけがないと思っていた。

考えてみれば、ぼくの中には依然として刷り込まれてしまったいわゆる自虐史観を支える考え方がどうしようもなくあって、このマインドコントロールの呪縛との葛藤が胸のうちに渦巻いているのではないか。それが、このなんとも分からぬ苛立ちと不安なのではないだろうか。
一昨年の5月、大学の山岳部員の二人が、コーチ格のリーダーに連れられて鳴沢岳に向かい、荒天の中全員が凍死するという事故が起こった。いくつもの優れた登攀記録を持ち、登山家としてその優秀さを自他共に許していたと思われる、その男は自らが率いるメンバーを見捨てた形で、独り先行し、雪穴を掘って飲み物を作って飲んだ後に凍死した。
メンバーが陵線上でばらばらになって凍死するという信じがたい事実に、第三者によって構成された山の有識者の事故調査委員会は、緻密な調査検討の末、リーダーの性格的欠陥を事故原因とした。
これに対して、メンバーを見捨てて死んだこのリーダーの山の世界の友人たちは死者を貶めるものとして、事故調査委員長を激しく非難し、謝罪要求を突きつけた。
この遭難自体、ぼくにとって想像を超えたものであったし、その後に起こった出来事もまた信じがたいものであった。
このごろになって、ぼくなりにある解釈が成り立つことに思い至ったのである。
ぼくが山登りをしていた頃、山岳部の部室では、言ってみれば、ゲマインシャフトとゲゼルシャフトの相克に関する議論が盛んだったように思う。そういう横文字を使わない議論であったにせよ、山に登るものたちはひとつの共同体であり、パーティーは生死を共にする集団であることはアプリオリに認識されていたといえる。
これはまた、日本人の感性にも合致したものであったはずである。アルピニズムという外国渡来の思想をいただいていたにせよ、同じ釜の飯や戦友というゲマインシャフトが厳然としてあった。
少しして、「山は個人に属すべきである」という主張が新鮮な考えとして唱えられるようになった。
時代の推移とともに、個人がどんどん肥大してくる。合理主義と功利主義もはびこってきた。サバイバルが、自然という抗いがたい強力なものからではなく、ほかの人間からのものと取られるようになり、そこに「サンデル教授の白熱教室」が拍手をもって迎えられるようになったのではなかろうか。
はじめての「白熱教室」をぼくはあるおぞましさを持って見た。難破船のボートに乗り合わせた人たちが、生き延びるために誰を食うかを決める議論をする。しかしその選択肢には、だめならみんなで一緒に死のうというものはなかった。
これは、アングロサクソンの思想であり、日本のものとは決定的に異なるものなのである。
世界のあらゆる分野での思潮も同じ流れに乗って推移してきており、現在のグローバリズムもこれと同質のものなのである。
ぼくが考えるには、大和民族としての日本人は、まずアングロサクソンの思想から脱しなければいけないのではないか。そのためには、自分自身をシントーイストとして自覚すること。
二十歳代ではじめて、パキスタンに行ったとき、多くのパキスタン人がする最初の質問は、宗教はなにか、というものだった。ぼくは、シントーイスト(神道を信ずる人)であると答えた。
そして、しかし死んだときにはブディズムの作法で葬られることになっていると付け加えることにしていた。
日本にとって、今必要なことは、あの戦争以前の日本に立ち返るべきではないだろうか。日本人としての共同体意識を再構築しないといけないのではないか。
自分としていえば、ぼく自身のなかにある、マインドコントロールをあぶりだして振り切らなければいけないと思う。それには、東京裁判やボツダム宣言について、勉強しないといけない。
しかし、そんな面倒くさいことをしなくても、冒頭に述べたようないくつかの議論においてぼくが学んだことといえば、一方的にあるいは一面的に言い募る相手に対しては、やはり一方的・断定的に否定しきることである。