「タカダさんみたいな人ですよ」重廣はそう言った。

「タカダさんみたいな人ですよ」
重廣恒夫は、吐き捨てるようにそう言った。
時は1979年夏、パキスタン・ラワルピンディー、ホテルミセス・デイビスのベランダでのことです。ぼくたち京都カラコルムクラブ隊はラトック1の初登頂を目指してスカルドゥへのフライトを待っていました。

日本から持ち来ったビックコミックの「浮浪雲はぐれぐも」を読み耽っている重廣にぼくは声をかけました。当時の日本で漫画の浮浪雲が大人気なのは知っていましたが、まんが本など手にすることもないぼくは、なんにも知らなかったのです。
「はぐれ雲ってどんな奴なんや」
そう尋ねたぼくに、重廣はしばらく考えてから、吐き捨てるように「高田さんみたいな人ですよ」そう言ったのです。
その語気のあまりの鋭さに、ぼくは言葉に詰まり、後に言葉を繋げないまま立ち去ったのでした。
その言葉にはあるいまいましさと憧れがないまぜになっているようにも感じられたのです。不思議なことにぼくはなぜかある安心感を覚えていました。そして重廣を誘い込んだのは間違ってはいなかったという確信めいたものが、ふと心をよぎったようにも思えたのでした。

大体一回りくらい年下の重廣とぼくは、少し前に文部省登山研修所が制作した『岩登り技術・応用編』という映画で共演したことがありました。二人はザイルを結んで剱岳のチンネを攀ったのです。さらにもっと前、第二次RCCがエベレストを目指した時、大阪・京都より西の隊員応募の元締めを務めたのはぼくで、ぼくはあんまりその頃の記憶がないのですが、重廣はぼくのことを知っていたはずです。
そんなこんなで顔見知りだったので、ぼくは彼を梅田の喫茶店に呼び出してかなり強引に口説いたのです。黒部の岸壁をいくつも攀っている彼の実力はよく知っていたし、1975年のラトック2の経験から、ラトック1は岩陵ではなく壁が鍵だと思っていたからです。
彼は奥淳一と渡辺優という二人の強力なクライマーを連れてきました。
ぼくはまず武藤君に声をかけました。ぼくは1971年に、日ソ選手交換協定でソ連邦に招待されたカフカズ(コーカサス)連峰遠征隊として東京山岳連盟が組織したシヘリダ峰登山隊の雇われ隊長を務めたことがありました。武藤英生はその時の最年少隊員で、実力は評価していました。松見親衛は、山渓の池田常道くんが推薦紹介してくれた優れたクライマーでした。
ぼくにはもう一人、加えたいメンバーがいました。それは遠藤甲太という男で、谷川連邦でのいくつかの記録があるものの、大酒飲みのだらしない男という評判が固まっていました。でもぼくが特に評価していたのは彼の文才でした。ラトックを攀らせたら変わるのではないか。そんなことを考えたりもしました。
この人選に強く反対したのは重廣でした。でも最終的には彼はぼくの頼みを聞いてくれたのです。隊のマネージャーとして馴染みの中村達、ほかに教え子の城崎英明を加え、
隊が出来上がりました。重廣はぼくのわがままをみんな我慢してくれたのでした。

ぼくが最初から言っていたのは、みんなに頂上に立ってもらう。だから、抜け駆けすることなど考えず、フルパワーで挑んでくれ。荷上げの計量はしない。目一杯担いでくれ。
そして、ラトック2での出来事を話しました。荷上げの計量をしなかった結果はどうなったか。なんと上部テントにはロールペーパーが山積みになったのです。
ラトック1でも、変なことが起こりました。上部テントでロールペーパーが欠乏したのです。
ぼくは、最初からこう言い続けました。あの壁の下でよく見て考えよう。ラインが引けるかどうかを。引けたら必ず登れる。引けなかったら、そこで諦めて帰ろう。
1975年のラトック2の時、同時期にラトック1を狙っていた原真隊のベースキャンプからその大岩壁を望んだことはありました。しかし、真剣にルートを引いたりはしませんでした。ただ、その岩壁を直上するルートが見つかるような気はしていたのです。

岩陵より岩壁だ。この考えはラトック2を終えた後、かなり強固なものとなったようです。岩陵ルートは、すこしの天候悪化だけで一気の困難になり、天気が回復してもその困難さはしばらく続きます。
一方岸壁の場合、一旦フィックスを張って仕舞えば、天気はあまり関係なく、荷上げができます。ルート開拓とフィックスロープの固定という極めて単純な作業となるのです。
重廣の見事な荷上げ管理によって、順調にルートは伸び、6名の登攀隊員の全員が登頂に成功しました。見事な成功だったと思います。この間重廣とぼくの間で意見の対立は皆無でした。隊員の登り下りに関して異動の要求は何度かありましたが、その全てをぼくは認めませんでした。ただ、重廣とぼくに関しては、自分の判断で自由に動いていいという申し合わせを最初にしていました。だからぼくは、頂上に向かっても誰からも文句は言われない状況でした。
でも、ぼくはこの隊は隊長はベースで指揮を取ることに徹すべきだと決めていたのです。松見君が後にあの時の隊長の指示が無かったら危なかった。それは一度では無かったと語ったと聞きました。
重廣が写真が撮れなかったからと言って2度頂上に向かったことが分かった時は、心底驚きました。ルート開拓と16mmの映画撮影を一緒にやるなんて人間技じゃない。ほんとに強い男なんだと思ったことでした。

見事な成功がもてはやされる。そうなって有名になる。そしたら自分はどこかで遭難する。それはぼくに付き纏ってきた強い思いでした。そんな例をいやほど見てきた。だから、新聞社からの質問があっても帰国の予定なども答えませんでした。みんなとは別行動で、セキタのいるクエートに飛び、数日を過ごして密かに帰国したのです。
テレビの出演も重廣に任せました。その当時は、ラトック1の第2登が40年間も成功しないなどとは考えもしませんでした。
それは、ラトック山群の岩陵は岸壁より難しいというぼくの仮説を裏付けることでもあったと思います。

ラトック1の計画が公表された時、山の世界の人たちは一様に違和感を覚えたようでした。登山隊というのは普通一般に既存の団体から出来上がるものです。でも、ぼくの作った隊は、ぼく個人が呼びかけて作ったものだったからです。
まともに行けるわけがない、向こうで空中分解や。いやいや行きの空港で分解する。そんな話が飛び交ったようです。そこでぼくは、この隊の準備の進行状況をドキュメントで雑誌の山渓に連載することにしました。大体登山隊の進行状況などというのは秘密にするもので、それをドキュメントするなどというのは、初めてのことだったようです。
ライターには、卒業生で神戸新聞に入った男に頼みました。
この男は、ちょっと癖のある男で、高校では新聞部でしたが、共産党シンパの教師の記事をぼくに取材して高校新聞の記事にしたのですが、取材源に関しての約束を破っていたので、ちょっとけしからん奴という感じはしていたのです。(後で挿入の注:これに関しては、高田直樹ドットコムにある『いやいやまあまあ』の15話「なんでバイク乗るねん」に書いてます)
時々家にやってくると、ここはまるで梁山泊ですなあと、褒めてるのか揶揄ってるのかわからない調子の言葉を吐いていました。ある時、ぼくの家内がぼくに靴下を履かせているのを見て、「奥さん、止めてください。それは奴隷のすることです」と叫び、ぼくも家内も驚いたのですが、家内は無視して続けたのでした。ぼくは、なに言うとるんじゃと思いましたが、そのまま無視したのです。

山渓の連載は、隊の出発と同時に終わりました。そして、ラトック隊の本が出版されることになり、誰にかかせるかとの相談を受けました。ぼくは迷うことなく彼を推し、彼が書くことになったのです。連載中取材で同行している彼をぼくは極めて冷たく扱っていました。
彼が、ぼくのことをよくは書かないという確信みたいなものもありました。それはぼくにとって、むしろ望ましいことでもあったのでした。そしてぼくには、一度の取材をすることなく書かれた『頂は誰がために ラトック1峰初登頂の記録』という本が出版されました。ぼくは読む気もしませんでした。ほとんど売れなかったようですし、書評も見たこともありません。
もしぼくが取材を受けたら、浮浪雲の話もしたかも知れないし、そしたら結構面白い本になった可能性もある。そんな気もしているのです。

遠征が終わって日本に帰る着くと、改めて『浮浪雲』ことが気になり、本を買い集めました。頑張って読んだのですが、どこがどう似てるのかどうにもピンときませんでした。ただ、浮浪の妻のカメは女房に似ているような気もしました。女房を北山へ連れて行って、ぼくが谷を覗き込んで「あれぇ、クジラがいる」と叫ぶと、女房は大真面目で「どこにぃ」と返したりするのです。
ぼくはいくら誘われても、日本山岳会には入らなかったし、結構自立狷介けんかい孤立しているところもある。まあちょっとくらいは似ているかも知れない。そんな気もしたのです。
ともかくこの連載、44年で全1039話。本は全112巻。なんともすごい。
『浮浪雲』について、wikipediaの記述もあるので、それを引用しておくことにします。

主人公。元々は武士であったが、現在は品川宿の問屋「夢屋」の頭(かしら・現代で言う代表取締役社長)である。仕事は二の次で、作中では仕事をしている描写はほとんどないが、番頭の欲次郎が病気で寝込んだ際、誰も仕事をする者がいないため、その際には渋々ではあるが。真面目に仕事をしている。何を言われても暖簾に腕押しであり、女を見れば老若美醜にお構いなく「おねえちゃん、あちきと遊ばない?」と決め台詞をやることで有名。また、女だけでなく陰間とも関係を持った事があり、それが原因で騒動となり、この時は雲も逃げ回っている。見かけは髷をきちんと結わず、前に結って、女物の着物を身に着けたいわゆる遊び人の風体をしている。

風習や物事に一切囚われず飄々としているが、実は柔軟かつ強靭な精神力を持つ。また、老若男女を問わず、非常に人を惹きつける魅力を持ち、有事の際には「雲が一声掛ければ、東海道中の雲助が集まる」と噂されている。また、どのような形で知り合ったのかは不明だが、徳川慶喜に対して、寝転がりながらくだけた口調で話し、慶喜もそれを許すなどの交友関係を持っている。芹沢鴨との交流もあり「一緒に日本を変えないか?」という持ちかけに「あちきは浮浪雲なんでね、日本を変えようなんて気はありませんよ」と笑顔で返し、芹沢を黙らせた。
同時に居合い斬りの達人であり、滅多にその力を見せないものの、たまに両刃の仕込み杖を使った剣術を見せることがある。その実力は底が知れず中村半次郎(のちの桐野利秋)や沖田総司等をも負かしている。ビックコミック連載。

偉大なるお化け塚本珪一さんの逝去

 塚本さんがお亡くなりになった。
 コロナ禍の所為もあって、会う機会も無くなっていたから気になっていた。昨年10月東京の娘のマンションに数日滞在した時、急に塚本さんと話したくなった。塚本さんとはかつて何度も東京に一緒したことがあったからかも知れない。新幹線の中で、「京都にこもってたらあかん。やっぱり東京や」そんなことを何度か聞いた。 電話には奥さんがお出になったが、元気にしておりますということだった。その対応がなんとなく素っ気なかったのが少し気になった。
 今年の2月だったと思うのだが、井川くんと電話で話した時、尋ねてみたら「去年の夏に写真展をやらはって、その時に会っただけです。元気でしたよ」ということだった。

 塚本さんは山岳部のOB 会である府大山岳会の初代会長で、ずいぶん長い間その役を務めておられた。
 ぼくが山岳部に入った時には、山岳会はなかった。2年生時の春山で起こった遭難事故を契機に山岳会が結成された。対外的な対応において、規約を持った組織があることの必要性が初めて実感されたからだと思われる。
 剱岳西面の東大谷における7月の遺体発見までの度重なる捜索活動の結果、我が山岳部は、「あそこには近寄るなと死んだ親父から言われている」と地元の猟師でさえ二の足を踏む危険で未知な東大谷を最も知悉する山岳部となったのである。
 その頃、日本は登山ブームに沸いており、世界の国々は八千メートルの未踏峰を目指し、ヒマラヤ・オリンピックなどと言われる中で日本はマナスル初登頂に成功した。
 60年代に入り、日本は高度成長の波に乗っていた。普通の海外旅行は許されない状態ではあったが、日本中の山岳団体や山岳連盟は海外登山を目指していた。

 京都府山岳連盟は、カラコルムのディラン峰の登山許可を得ることに成功した。塚本さんは副隊長になることが決まっていた。若いぼくは連盟とはなんの関わりも持たなかったが、春山で一緒だった尾鍋、藤井両先輩などから情報は得ていた。
 隊員の募集が行われ、ぼくは申請書を書いた。そこには登山歴や特技などの項目があった。ぼくは、剱岳東大谷G1厳冬期初登、京都府教職員陸上競技大会1500メートル、10000メートル優勝、特技英文タイプなどと記した。
 遠征隊では、英文の書類が必要で、英文タイプの技能が必要とされることを知っていたので、ぼくは密かに我流のタイピングの練習をしていた。
 ある時、塚本さんが突然声をかけてきて、「タカダ、英会話を一緒に習わへんか」と誘った。ぼくは「隊員選考はすんだんですか」と訊いた。「まだやけど、行くことになったら必要やろ」
 ぼくに異存があるわけはなく、二人は平安高校のロシア生まれの老人の英語の先生から日常会話のレッスンを週1回受けることになったのだった。数ヶ月して、その英語の先生の訃報が新聞に載った。路上で突然死したという。あるレッスンの後、教室を出て校舎の薄暗い廊下で、突然先生が倒れ、助け起こしたことを思い出した。高齢だったのだろう。なぜか心が痛んだ。

 新幹線の運行が始まり、名神高速も開通した。ぼくは教え子のフェア・レディを借り受け、高速道路を爆走して悦にいっていた。
 その頃、塚本さんが声をかけてきて、「タカダ、パキスタンに一緒に行ってくれへんか。ワシ遠征の予備調査に行くことになったんや」
 今度は隊員になったんですかとは訊かなかった。すでにぼくは減点ゼロで隊員選考にパスしていることを知っていたからだ。ぼくは「考えさせて下さい」と答えた。正直ぼくはあまり気が進んでいなかった。付き従い身の回りの世話をするのなどとても無理とも思えた。二回もゆくこともない。そんな気がした。今にして思えば、これは最大の失敗だった。何度でも行くべきだった。
 ぼくは、ぼくより部員の上田純三を連れて行ってやって下さいと頼んだ。彼は平安中学卒で塚本先生の教え子でもあった。この経緯があって、上田君は遠征隊員となることができたのだった。

 塚本さんはいつも物静かで激しい口調で喋ったりするのを聞いたことはない。遭難事故の時や遠征の時も相当長い期間一緒だったはずなのにあまりはっきりした記憶がない。いつも議論の外にいて、請われた時だけまとめを淡々と述べる態だったと言えるだろう。
 すぐ上の先輩が、彼のことを「あれはオバケや」と言ったことがあった。「エッ」と驚いたぼくは、「なんで」と訊いた。「そらお前、オバケやしオバケなんや」
 一体なんのことやら訳がわかったようで分からなかった。話はそれで終いになった。この先輩はよくそういう突飛なことを言う癖があった。ある時、京大の山登りのことを、あのコジキ集団と断じた。「なんで」と聞くと、「そらお前、あんな連中、会社の金せびって山行きよるんやろ」

 ディラン峰遠征が公表され、隊員が発表された。すると新聞記者が家に取材にやってきた。今では考えられないようなそんな時代だった。連盟の加盟団体のいくつかから一名が普通なのに府大からは4名が入っており、批判があったと聞いた。
 装備担当を担うことになったので、塚本副隊長の家を訪れることもあった。彼の書斎はこじんまりした部屋で長椅子と机、周りをぐるりと書棚が囲んでいた。
 遠征が終わって数年経った頃、ぼくは家内と一緒に年子で生まれた娘と息子を連れて、塚本家を訪れたことがあった。よちよち歩きの子供二人はじっとしておらず、小さな書斎を歩き回った。真ん中にある机の縁がちょうど頭の高さだった。頭がぶつかりそうになると、塚本さんは素早く腰を浮かし、掌で縁を覆った。何度も何度も繰り返し、そうされるので、ぼくは「ほっといて下さい。ぶつけたら痛いと言う学習ですから」といった。でも塚本さんはぼくを無視して、縁を覆う動作を繰り返し続けたのだった。
 塚本家訪問でもう一つ覚えていることは、帰る時いつも、門のところまで見送ってくださった。これはぼくも見習わねばと思い、教え子などがきた時にはそうしていたが、数年のうちに面倒くさくなって止めてしまった。

 塚本さんはクライマーではなかった。ぼくが知る先輩方は、農専(農業専門学校)出身の人がほとんどだった。終戦による学制改革で新制大学に組み込まれることになった訳だ。
 そうした先輩の中でコヤマさんという物凄い攀り屋がいた。とても強引で危険な登り方をするので、ぼくの師匠のオガワはんは「あいつの真似はするな」といつも言ったものだ。
コヤマさんは塚本さんのことを「攀れぬ登山家」と言っていた。そういえば、塚本さんが岩を攀るのを見たことはなかった。
 塚本さんは山に登るために山登りを初めたのではなく、昆虫を採集するために山へ登ったのだった。だから山登りに命をかける人たちを冷めた目で見ていたのかもしれない。
 当時、伝統的な極地法という登山手法をとる大学山岳部に対し、新興の社会人山岳団体は、アルピニズムなる旗印を掲げ極めて冒険的な登攀を実践していた。
 塚本さんはそうした動きにはあまり関心を示さなかった。最先端の登山誌とされる『岩と雪』に「登山は個人に属すべきである」という論考を発表し、かなり話題を呼んだ。『岩と雪』が廃刊となってかなり経ってから発表された優れた論考だけを集めたものが出版されたが、その中に塚本さんの「登山は個人に属すべきである」は入っていなかった。しかし、この短い論考の中に塚本さんの考えが凝縮されているとぼくには思われる。

 ディラン遠征に加わった人たちは帰国後、コタニ隊長を会長として京都カラコルムクラブを作った。これはぼくにとってとても便利な組織で、その後のぼくが組織した遠征隊の頭に乗せる組織名に利用することができた。
 このクラブの会合でぼくが激しく塚本副隊長に突っかかったことがあった。
 隊のドクターだった北杜夫氏は、のちに『白きたおやかな峰』を書いた。この小説を映画にする話が松竹で持ち上がり、監督は篠田さんとか。ぼくたちは、現地ロケがあるそうだから、もう一回行けるぞ。今度は登頂しようなどと勝手に盛り上がっていた。これに関して、タカダは入れないと塚本さんが言ったという話を聞いた。若いぼくは激昂して、激しく問い詰めた。塚本さんはそんなこと言った覚えはないと一言言っただけで沈黙したままだった。
 「府大の内輪揉めは別のところでやって下さい」と言うコタニ隊長の一言で、この話は終わった。映画化の話は松竹城戸社長のOKが出なかったようで立ち消えた。それ以後塚本さんとこのことについて話したことはない。
 塚本さんは本当に空気のような寛容の人だった。突っかかっても手応えはなく気付かぬまま包み込まれてしまっている。やっぱりオバケか。偉大なお化けだったのかもしれない。

幽明界を異にしたセキタとハヤシドクター

少し前のことだったが、ほとんど音信不通だったバンコックにいる教え子が、電話してきた。
なんのことかと思ったら、ずっとセンセのブログの更新がないので、心配になりましたという。
確かにとんでもなく長く書いていないと気づいた。

昨年暮れに関田が亡くなった。
すぐに『葉巻のけむり』に書き始めたのだが、十数行書いて思いとどまった。その記述はあまりにも冷静なものではなかった。これはいかん。少し時間を置く必要がある。そう思っているうちに年があけた。
すると今度はドクターのタカヒコが後を追うようになくなった。彼とは2ヶ月ごとに会っていて、暮れに会ったときには、「2月まではもたんやろな」と言うので、そんなことないと思うで、と返した会話が最後となった。
これで、ブログの執筆はまた延びることになった。
そうこうしているうちにウクライナの侵略が始まった。近平がおんなじことをすぐにやるとは思えないけれど、これを一つのシミュレーションとして見ている可能性がある。とすれば、経緯や思惑はどうあれ、プーチンには絶対に勝たしてはならない。近平に変な手出しをしてはやばいと思わせる必要がある。さもないと日本が危ない。
そう思って、推移を追い続けているうちにどんどん日が経ってしまったと言うわけである。
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セキタが亡くなった。
彼が大学一年生の時からの付き合いだから、とんでもなく長い時間になる。
大学の山岳部に入部してきたのが、彼との付き合いの始まりだった。そのときぼくは山岳部のリーダーだったから、彼はぼくのことを「タカダはん」とよび、ぼくは「セキタ」と呼び捨てにしていた。ぼくの母親は「年上なのにそんな呼び捨てにしたらあかん」とよく注意したものだったが、二人とも全く意に介さなかった。それが山岳部の習わしだったからだ。
最初の夏山合宿は剣岳で、「チンネの左稜線」や「剱尾根」など新人には無理かもしれないルートを一緒に登った。
合宿後半の縦走は薬師岳を越えて、黒部源流で解散し、新人はその後単独で好きなルートで下山することと決めた。

いつものことなのだが、合宿の後は、いつも一人になりたくて仕様がなかった。だからこの時もぼくは一人、その黒部源流の祖父沢の出会い(合流点)に居残ることにしていた。
「タカダはん、ぼくも残ってよろしいか?」と申し出たのが、セキタだった。
米と塩とマヨネーズの瓶(当時はプラスチックの容器などなかった)だけが大量に残っていた。二人は手づかみにした岩魚数匹とマヨネーズで数日を過ごし、出会った地元の釣り師から貰った毛鉤とテグスで釣りを試みた。竿は岳樺の枝を使った。生きるための必死の釣りともいえた。3日ぐらいで少しは釣れだし、一週間ほどすると、何キロも釣れた。
セキタとぼくは、てんでに釣りをやり、流木で豪勢な焚き火をし、飯盒の飯と岩魚の塩焼きを腹一杯食べて、テントに入らず、柔らかな草のしとねに横たわり、そのまま眠った。
目を覚ますと満天の星の位置が変わっているのがよくわかった。
ぼくとセキタはずっと一緒だったが、話をすことはほとんどなかった。ただ無言で、焚き火の炎を見つめていた。ときには一緒に歌を歌った。

この黒部源流祖父沢出会い(本流との合流点)の一週間が癖となったのか、セキタはいつもぼくに同行するようになった。卒業してからもそれは変わらなかった。当時ぼくはよく東京に行ったが、その時もいつもセキタが一緒だった。その所為か、ぼくたちはホモではないか、タカダナオキには実はゴーストライターがいて、それはセキタなんだなどと言う噂がまことしやかに囁かれたりしたこともあった。
ぼくに続いて卒業したセキタは中学校の生物教師になった。間も無くぼくは結婚し、すぐに一姫二太郎をもうけた。そうなっても彼のぼくへの密着は変わらず、ぼくより以上に子供の面倒を見てくれた。家内の言によると、うちの子供を育てたのはセキタさん、お父さんではない。そう断言している。
自説を述べず、人の意見をただ聴くと言う振る舞いはある意味人望があるともいい得る。特に対立しているグループがある集団などでは、どちらの派からも味方と目され担ぎ上げられたりする。彼が苦労もせずに早くして教頭になったのは、そんなことなんではないかと勝手に考えたりしていた。

カラコルム登山の現地情報を得るための基地の必要性から、ぼくは彼にパキスタンの日本人学校への転出を勧めた。その結果、パキスタンではなくクエートの日本人学校の教頭に任じられ、船でクエートに旅立った。
彼がクエートにいる間、ぼくは2度の海外遠征登山を行った。1975年のラトックⅡと1979年のラトックⅠである。このどちらにもセキタはベースキャンプまで慰問に来てくれた。お土産は生きたまんまの山羊や鶏だった。
クエートの一人暮らしで、給料がどっさりあって困ったらしく、「タカダはん、お金要りませんか。円でもドルでもディナールでもなんぼでも上げます」と言った。貰うわと言ったらよかったと、後で後悔したことだった。

ラトック1の帰り道、ビアフォー氷河の凍雪の上を足早に降りながら、セキタは「タカダはん、クエートに来ませんか」と突然言った。そしてぼくは下山してすぐに帰国せずにクエートに回ることにしたのだった。それには理由があった。
ラトックⅠという名だたる難峰を落としたのだから隊長のぼくはマスコミに大きく取り上げられる。それはぼくにとってまずいことだった。マスコミで有名になるとその先には死がある。これがぼくの固定観念となっていた。数多くの例を見てきていた。だから新聞社からの帰国予定日時の問いかけにも答えず、テレビの出演も避けたのだった。

セキタとぼくはほとんど間断なく会いながら、議論したり語り合ったりすることはほとんどなかったし、ぼくに異を唱えることなどなく、ただ一緒にいるという感じなのはずっと昔の黒部源流のあの時と変わらなかった。
しかし、よく考えてみると、一度だけ彼が激しくぼくに反対したことがあった。あれは例年のようにいつものグループで、北海道のニセコスキー行っていた時のこと。たしか話題が北方領土のことになった。その時ぼくはこんなふうに言ったと思う。
日本はあの国は不可侵条約を破ったとんでもない国だというのが一般常識だ。でももう昔のことは水に流して、もっと友好的になってもいいのではないだろうか。
その時、セキタが激しい口調で、それはあかん。絶対だめや。あんなとんでもない国はないんやでと喋り始めたのだった。彼は小学校で敗戦を迎え朝鮮半島から引き上げてきて、大学生になっても壬生の小学校の教室を仕切った引揚者住宅に住んでいたことを思い出した。そして、彼の過酷な体験を想像したのだった。

もう一つセキタが勢い込んで語ったことがあった。大学を卒業してしばらくした頃だったと思うのだが、穂高での体験だった。その年の晩秋、穂高涸沢からの下りで、唐松の樹々の間から見える屏風岩の月の光に照らされて青く光るその美しさだった。そしてあの壁をタカダはんと一緒に攀りたいと言ったのだった。
ぼくたち二人は、本当に死を賭けて積雪期の屏風岩第一ルンゼを攀った。その時、ぼくたちをサポートしてくれたのがハヤシドクターだった。
セキタとぼくが、ルンゼ上部の狭い岩棚に腰掛け、ビバークした夜のこと。夜の9時、定時連絡をするために、ツエルトをめくり、ぶらぶらさせている両脚を開くと膝の間に、梓川の河原にハヤシタカヒコのライトが点滅していた。
あの小さなしかし安堵とも言える光は今も鮮明に思い起こすことができる。

ハヤシドクタ-については、項を改めて書くつもりです。

「ラトック1遠征を終わって」(3/3)

3、メンバー相互の呼称
「混成隊」の場合、メンバーがどう呼び合うかは、一つの重
大な問題であると考えていました。なぜならば、高所登山とい
うフィールドに於ては、登攀能力のみに限られない、総合的能
力が必要とされ、そうした実力序列は、否応なしに、全メンバ
ーの眼に明らかとなります。そして、そうした序列を反映する
のが、呼称であると考えていたからです。
基本的に、名前でよんだり、ニックネームをつけたり、ある
いは「ちゃん」づけにするようなことには、賛成できませんで
した。それは、安直に、擬似親近感を醸成するのみで「個人」
の消滅につながるのではないかと考えていたのです。
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「ラトック1遠征を終わって」(2/3)

2、母性原理と父性原理
唐突なタイトルで恐縮ですが、この二つの対立概念は、遠征
期問中に、ぼくの頭に漠然と浮かび、帰国後しばらくして、か
かり明確になったものです。
明察な諸氏は、すでにご承知と思いますが、母性原理とは、
没契約的、包容的、許容的か母の愛の様々考え方であり、父性
原理は、反対に、契約的、区別的、競争的、価値判断的な切り
捨て原理といえます。
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「ラトック1遠征を終わって」(1/3)

ラトック1峰遠征を終って  高田直樹
成功したにしろ、失敗したにしろ、遠征隊に関ずる分析は、
すべて結果論である。ぼくはそう思っています。だから、いか
にも科学的な装いで行われる因果関係の分析は、時に、実に馬
鹿げた結論を引きだすことがあります。
というようなことを充分承知したうえで、なおかつ、ラトッ
ク1峰隊の分析を試みたいと思うのは、一つには、今の山の世
界で、行ってきました、登れました、では何とも芸のない話で
あると考えること。また、テクニカルなデータを披露してもあ
んまり意味はないし、第一、ぼく自身、むろんベースのお守り
をしていたのではないにせよ、頂上に立ってはいない以上、そ
れはぼくの任ではないと思うのです。
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39年前に『山岳』に載せた遠征報告

 39年ぶりにラトック1峰が登られたことを知った。それで、1979年にラトック1に成功して帰国後、確か1年後だったと思うのだが、日本山岳会の会報・『山岳』に報告を書いたことがあったことを思い出した。

300ページの大冊『山岳LXXV』 山岳75年

 書架を探して見つけた『山岳第七十五年』には、確かに「ラトック1遠征を終えて」というぼくの稿が載っていた。
 その分厚い会報を開きながら、ぼくはあの頃のことを思い出していた。
 正直いって、あの頃、この遠征の成功を素直には喜べず、なぜか他人事のように見ようと努めていたようだった。
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39年振りのラトック1登頂

 ラトック1の登頂が成功した。
 そのことを知ったのは、東京の牡蠣専門のレストランで、だった。

山の専門誌『岩と雪』が廃刊となった後は、『Rock & Snow』が後を継いだことになった。

 数年前『なんで山登るねん』が山渓文庫として再版された時の担当者で、いつも東京でぼくの世話を焼いてくれる米山くんが連れてきた、『Rock & Snow』の初めての女編集長になったばかりという大畑女史は、開口一番「ラトックが登られましたよ」と言った。彼女とは、昔から山渓編集部にいて、顔見知りだった。
 ラトック1登頂成功を聞いて、ぼくはなんだかホッとした。
 いつまでたっても第二登が成功しないことが、登頂後20年を超えた頃から次第に気になりだしていたのだ。来年で、初登以来40年を数える。
 来年には、登頂40周年になるから、それを記念してパキスタンに行きましょうという友人も現れた。来年末には、一緒に行こうというパキスタン・ツアーへの参加希望者が10人も集まったという。
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ロシアの新聞記者からのメール

 ロシアの新聞記者から突然、iPhoneにSMSで連絡が来た。先々週のことだった。
 「私はロシアの新聞イズベスチャの◯◯◯◯(ロシア文字で読めない)と申します。突然ですが、私のインタビューを、もし迷惑でなければ、受けていただけませんか。インタービューはSkypeでやり、録画してTVにも載せたいと思います。実は、友人がLatok1で死に1人がまだ戻りません。」
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高畠熱中小学校で授業する

 2年前頃らしいのだけど、山形県の高畠町で廃校を利用して始まった「熱中小学校」というのが、日本中に伝播している。この2年ほどの間に相次いで8校が開校している。
 先日、日本経済新聞が「廃校再生「熱中小学校」、地域の逸品通販サイトに 」という記事を掲載し、「熱中小学校」の知名度は上がったようだ。
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