石垣島への旅と慰霊碑詣で

 石垣島に行ってきました。そこには、葉巻仲間のKさんがいて、ぜひいらっしゃいとずっと誘ってくれていました。何年か前、彼が大阪のリッツ・カールトンにいた時、一度泊まってくださいといいお部屋を用意してくれたことがありました。
 といっても、彼が直接ぼくに言った訳ではなくて、亘くんが「部屋を取ってくれる人がいるのですがいかかですか」という話に大喜びで乗っただけのことで、はたして誰が部屋を用意してくれたのかぼくは知らなかったし、いまも知らないのです。でも、それは間違いなくKさん以外にはないと信じている訳です。その後も話には何度も出るものの会ったのは東京のシガー・バーでの一度きりだったのでした。
 今回は、バンコックのホテルで、サトードクターと話していた時「はよ行かんと、Kさん沖縄から帰ってくるかもしれませんよ」と、彼とは非常に親しいドクターはいいます。そら急いでいかんとあかんね。「ほんなら、年明け早々に」という話になり、サトー君はスケジュール帳を取り出したのです。ぼくは、ちょっと待ってと制しました。トモが「行きたい」と何度も言っていましたから、彼女も一緒に日取りを決めないといけないと思い、電話で部屋に呼んだのです。
ぼくはエブリデイサンデーでいつでもよかったのですが、二人の都合で正月4日から2泊3日という日程がすぐに決まりました。

 昼前のANAのフライトで伊丹を発つと、2時間のフライトで那覇に着きます。一缶500円のサントリー・ハイボールを二缶空けると那覇空港でした。
 沖縄は2度目です。
NahaAirport那覇の空港は、まるで知らない空港のごとく変わっていました。
この前の時はもう10年以上も前です。あの時は、中国人の彼女が留学生で日本に来ていたのですが、彼女が日本語の弁論大会に出るというので、原稿に手を入れたり、スピーチを教えたりしました。そしたら彼女は優勝し、その賞品が沖縄のペアー・チケットで、一緒に行ってと言われたのでした。
 夏に行ったのは確かなのですが、場所などは不思議なことにほとんど覚えていないのです。山渓の若い連中に聞いたら、いつも行っているところがあると、スキン、スキューバ・ダイビングの民宿を教えてくれました。行きと帰りに那覇で一泊づつして、島で5泊したと思うのですが、多分それは石垣島だったと思います。

 民宿の部屋には、エアコンはあったのですが、あまり効かない上に、1時間ごとにコインを入れねばならず、暑さに弱いぼくはすぐに音を上げてしまいました。すぐそばに、少しましなペンションがあったのでそこに移ることにしました。
日中は部屋にこもって本を読んだり、英語の原稿を書いたりして過ごし、夕方に海に出て泳ぎました。海を見たこともない内陸生まれの彼女は、泳ぎもあまり上手ではなく、教える必要がありました。ある時、夜の海で泳いでいた時、彼女が流されて一瞬姿が消え、肝を冷やしたことがありました。翌日聞いた話では、昨日浪にさらわれた女性一人が溺死したと聞き、それからは夜の海で泳ぐのは止めにしたのです。
 那覇でのことは、行った寿司屋やステーキ・ハウスなど、そこでの会話などもけっこう克明に記憶にあるのに、島でのことはほとんど覚えていません。きっとあんまり楽しくなかったからではないかと思うのです。

話がそれてしまいました。戻します。
HotelCarHotelRoom那覇からは1時間で石垣に着きました。Kさんが迎えに来てくれていました。ドクターは「会社の車を私用に使っていいの」と驚き、「いいんです」とKさんはすましたもんでした。
 Kさんは、明朗闊達なビジネスマンという風で、アメリカのバークレー校で学んだときいて、なるほどと思いました。単純なホテルマンではなく、いくつものホテルの営業予測と価格設定などをデータ分析によって行うという特殊技能を必要とする仕事をしておられるようです。
 車は、インターコンチネンタル・ホテルに着きました。ここは、ANAのホテルです。日航八重山ホテルは、部屋でシガーが吸えないので、ここにしたということでした。Kさんの計らいで、ドクターの予言通り部屋はグレードアップされており、誠にグレードの高い部屋でした。ベランダには大きなベンチまであります。
一時間ほどの仮眠を取り、また迎えの車で日航八重山ホテルに行きました。

VegitableTiarmo石垣牛ではなくて美崎牛の焼き肉を食べました。「石垣島の美崎牛」と呼ぶのだそうです。4人で22皿、重さにして2キロ以上でしたから、飽食と言えました。肉もおいしかったけれど、新鮮野菜が各種テーブルに載っており、これは食べ放題というのが珍しく思いました。
 13階のバー・ラウンジで夜景を見下ろしながら、カクテルとシガーを楽しみました。このカクテル「ティアーモ」はコンペで賞を取ったものだそうですが、レシピは公開されてないそうですが、聞いて帰ってセブン&セブンの松尾さんに作ってもらうつもりです。

一夜明けて、Kさんはレンタカーで、島の一周をしてくれました。昨夜、ぼくがなんの気なしに言った「島は一周できるのですね」という言葉を叶えてくれたのです。
KさんのレンタカーNissanCUBEに乗り込んだとき、「島のどこかに友福丸遭難追悼碑がある筈なんですが知ってますか」とぼくは尋ねました。
 昨夜、帰りのタクシーの運転手に「博物館とか資料館はありますか?」と尋ねたら、そうしたものはないということでしたが、この追悼碑は必ずあると思っていたからです。この件に関しては、この<葉巻のけむり>の「尖閣問題を考える(プライム・ニュース)」の座談会で、新藤義孝氏が詳しく述べておられたので、注目していたのです。
 石原知事の尖閣購入発言の後、昨年の夏には、10人ほどの日本人が魚釣島に上陸したのですが、慰霊祭がこの石垣島で行われ、さらに翌日、尖閣・魚釣島にある慰霊碑前で慰霊祭が許可されなかったので、それは洋上で行われました。その時に、10人が海に飛び込み強行上陸をしたのを、この座談会やさらにデジタル・マガジン『言志』の記事によって、ぼくはすでによく知っていたからです。
 トモが、ホテルに聞きに行きましたが、そこでも分かりません。調べて連絡するということで、とりあえず出発することにしたのです。
 数十分走ったところで、所在が判明しました。すでに通過したばかりの所だったので、最後に行くことになりました。これについては後に書くことにします。

 一周をして市街地に戻った後、スーバーを2軒を回って、食べ物を見て歩き、黒糖関係のおやつを買いました。どこでも、どこの国でも、その地の生活を知るにはスーパーを見るのが一番です。ホテルの朝食で、かまぼこが美味しかったとぼくが言ったので、Kさんはかまぼこ店を探してくれました。ここで、少し変わったかまぼこを買いました。ぼくは、美味しいと思った「たらし」という名の紡錘形の小粒のかまぼこを買ったのですが、ドクターは「おにぎり」という球形のかまぼこを買い、かじって「イメージと違う味」と言いました。ぼくもかじらせてもらったのですが、おにぎり状のかまぼこの中には、餅米のご飯がはいっており、かまぼこをおかずにご飯をたべるという感じで、面白いと思ったのでした。

IrandTerminal Kさんが最後に連れて行ってくれたのは、石垣港離島ターミナルでした。ちょうど最終便の船が着いたばかりだったのか、大勢の人たちが、その建物から吐き出されていました。TerminalHall群衆が波の様に去った後のがらんとした船着き場のホールに入り、写真を撮りました。ここから、尖閣諸島・魚釣島までは、170キロ、8時間の船旅になるそうです。
発着桟橋伊良部、宮古、小浜、多良間、黒島、西表、波照間などなど、多くの離島が日本の西端・南端に位置しています。最西端の最も唐・天竺に近いといわれる余那国島もここから数時間の所にありますが、インフォメーションで聞いた所、週2便が運航しているそうです。
ホールを出るとすぐが、船着き場で、6・7カ所の埠頭が並んでいました。
自宅に帰ってその日の新聞を見ると、「離島指定の拡大検討」の見出しがありました。
波照間港行 現在離島に指定されているのは、254島だそうです。基準は①本土からの距離が外界で5キロ以上、内海で10キロ以上、②人口100人以上、③定期便の寄港回数1日3便以下だそうです。とうぜん余那国島はこの基準に入ります。この基準は1964年以降改訂されていないそうで、これは困ります。有数の海洋国・日本は国境の島と領海をもっと重視しないといけない情勢になっているのですから。

さて、遭難碑について書きます。
ようやく探し当てた感じでたどり着いた追悼碑の前で、掌をあわせました。経緯の碑文と犠牲者の名簿の二つの石盤がありました。その碑文には次の様に書いてありました。

事件詳細石碑尖閣列島戦時遭難戦没者慰霊之碑
 太平洋戦争末期の1944年7月、日本軍は台湾航路の制海空権が米英軍に掌握されていたにもかかわらず、石垣町民に台湾疎開を命じた。1945年6月30日、最後の疎開船、第一千早丸と第五千早丸は老人・婦女子180名余を乗せて午後9時過ぎ石垣港を出港し、西表船浮港を経由して台湾へ向けた。7月3日午後2時頃、尖閣列島近海を航行中に米軍機に発見されて機銃掃射を浴びた。船上は阿鼻叫喚のるつぼと化し、銃撃死、溺死と多数の死者が出た。第五千早丸は炎上沈没、第一千早丸は機関故障で航行不能となったが乗組員の必死の修理で魚釣島に漂着することができ、九死に一生を得た。
慰霊碑全景 約1か月近くの集団生活で食料も底をつき、餓死者も出るなど極限状態となった。頼みの千早丸も流失して連絡手段を失った人々は小舟をつくり、決死隊を編成して8月12日午後5時過ぎ石垣島へ向けて出発し、同14日午後7時頃、川平の低地湾に到着した。この救助要請によって、生存者が救助され、同19日石垣港に到着した。
 魚釣島は無人島で遠隔地であることから、現地での慰霊を行うのは困難な為、この地に慰霊碑を建立し、御霊を慰め、併せてこの悲惨な戦時遭難事件を後世に伝え、人類の恒久平和を祈念する。
2002年7月3日
尖閣列島戦時遭難死没者
慰霊之碑建立期成会

 敗戦一年前の対馬丸の遭難は有名です。沖縄から本州を目指した疎開船が米潜水艦の攻撃を受けて沈没。学童700余名を含む1500名が死亡しました。対馬丸事件はよく知られており、記念館まであります。
 それに引き換え、敗戦一ヶ月半前の、この友福丸・一心丸遭難事件は、ほとんど知られていません。現地の人さえよく知らない。なんとしたことかと思ったのでした。
 当時、日本軍は漁船などを徴用していましたから、二隻の船、友福丸と一心丸をそれぞれ第一千早丸、第二千早丸と呼称していたのでしょう。碑文には、軍の呼称ではなく、元の友福丸と一心丸と書くべきではないかという気がしました。また、「日本軍は台湾航路の制海空権が米英軍に掌握されていたにもかかわらず」という記述も少し気になりました。そこには、悪い戦争をした悪い軍部という底意が透けて見える気がしたからです。
 これらの船は、ともに焼玉エンジンの小型船でした。女性と子供、男性の高齢者の180人が乗船した。朝鮮人と台湾人も含まれていたといいます。
 台湾へ直進すると、発見されるので、尖閣諸島へ迂回する航路を取りました。google earthで見てみると、石垣島と台湾を底辺とした三角形の頂点の位置に尖閣諸島があり、大きく迂回したことが分かります。
 石垣港を出発したのが、6月30日の夜の9時でしたから、3日の航海の後の7月3日、あと数時間で台湾の基隆港へ到着という午後2時頃、アメリカ軍B-24爆撃機に発見されます。爆撃機は船団側方より3回の爆弾投下と機銃掃射を行い、さらに、船尾方向から航過しながら、なお1回の機銃掃射を加えました。
一心丸は、船長以下多数が死傷。爆弾が中央に命中したため炎上沈没。伝馬船が下ろされましたが、体力的に劣るものが多数溺死したのです。
 友福丸もエンジンに被弾し航行不能となりました。しかし、エンジンの修復ができ航行を再開することが出来たのでした。乗船者の中に、かつて古賀商店の鰹節製造事業にかかわったものがいたので、尖閣諸島に向かうことにしたのだそうです。
4日午前9時半頃に魚釣島に到着。この時、別に漂着した6名の日本兵がいたといいます。

 ここで、ぼくは思うのですが、この二隻の船に乗っていたのは、明らかに非戦闘員でした。それは明白で目視も可能だった筈です。それに銃撃を加えるということは、明らかな国際法違反、ジュネーブ協定に違反した行為です。この行為が糾弾されなかったのはどうしたことなのでしょうか。腹立たしくて胸が詰まりました。
 ぼく自身、小学生の敗戦直前、下校時に急降下してくるグラマン戦闘機に機銃掃射を受けた経験があります。道の脇の土手の草むらに飛び込んで、身を伏せたぼくのすぐそばに、ブスッ、ブスッという音がして10センチ大の穴があきました。
そっと首をひねって見上げたとき、飛行眼鏡の男は確かに笑っていたのでした。当てる気はなかったのだ、冗談に撃ったのだとぼくは思ったのでした。
 でも、もしかりに、そのとき一緒だった、ミチユキちゃんか、朝鮮人のユンシーに弾が命中していたらどうでしょう。ぼくはとんでもない恐怖に駆られたと思うのです。
だからその時、船の甲板にいた小学生の気持ちは、想像にあまりあります。

 魚釣島に上陸した100人あまりは、戦中の食料を分け合ったが、2週間ほどでなくなります。さいわい島には淡水がわいており、飲料水には困りませんでした。また、食用になる樹木ビロウもあったが、100人の食料としては不十分で、浜辺の小魚、ヤドカリなどで食をつないだのです。
 船大工がいたので、難破船の残骸を使って小舟を作り、8名の決死隊が救援を求めて、8月12日石垣島を目指して出発しました。そして、8月14日夕方の7時に川平湾に到着。連絡を受けた日本軍は、翌15日台湾の軍機を魚釣島に差し向け、乾パンと金平糖をパラシュート投下しました。
 軍医を乗せた救助船が到着したのは、敗戦後の18日であり、石垣島帰還19日でした。

 この米軍機爆撃による遭難、いわゆる尖閣諸島戦時遭難事件の犠牲者数については、諸説があるようです。沖縄県史では乗船者180余人のうち、死亡が75人。多い所では、乗船240人、死亡120人との説もあるようです。

 慰霊碑は、今度ぼくが行った所のものだけではありません。これは、2002年に立てられたものですが、終戦直後にこの地のお寺に慰霊塔が立てられているそうです。その後、より現場に近い魚釣島にも作られました。その頃は、なんの問題もなく上陸できたし、数日の滞在で慰霊碑が建てられたのだと思われます。
 その後、中国のご機嫌を忖度して自民党政府は島での慰霊祭を許可しなくなったようです。戦争の被害者を弔う行事を行うのにどうして、そうした気遣いが必要なのだろうか。実行支配されている北方4島でもお墓参りは出来ているではありませんか。
来年は、ぜひ尖閣・魚釣島での慰霊祭を行って頂きたいと心から思ったことでした。
 この追悼碑への訪問によって、ぼくの石垣島への旅は、なにかずっしりと重いものになった様に感じられたのでした。