日本を囲む海外の「戦後レジューム」

竹田恒泰氏が、その著書『日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか』の冒頭で、2006年(平成18年)に英国のBBC放送が行った世論調査の結果を紹介しておられます。
これは、世界の33ヶ国で約4万人を対象に行われました。その結果、「世界によい影響を与えている国」として、最も高く評価されたのは日本でした。この調査では、33ヶ国中31の国で日本の影響力について、肯定が否定を上回り、うち20ヶ国で肯定が50%を上回った。最高は、インドネシアの85%次いでフィリピンの79%でした。このことは心に留めておかないといけないでしょう。また否定が肯定を上回ったのは、2ヶ国だけで、それはいわずと知れた中国と韓国でした。これは容易に納得できます。
しかし、そんなに沢山の国が日本を評価してくれているというのは、悪い気持ちはしないものの少々意外な気もします。
やはり同じ調査で、「自国の影響力についての自己評価」というのがあります。
肯定する、つまり自分の国が影響力があると考える国民のパーセンテージです。最も高いのは、ブラジルの84%でした。2位は中国、以下ドイツ、ロシア、韓国(76%)と続きます。それで日本はというと、なんと最下位から2番目の43%なのです。
他が評価しているのに自分は駄目だと思っている。それは日本的奥ゆかしさの問題ではないかなどという人もいるかもしれませんが、そんな話ではあり得ない。その理由はなんなのか。日本人はよく考えないといけないと思います。

少なくとも、戦前の日本人はそんなんではなかった。みんな誇り高かったし、それなりに自信も持っていたと思います。日本人は、その文明度に於いて大昔から、まあ産業革命以後の機械文明に於いては別ですが、かなり先を行っていました。
江戸の時代から、ヨーロッパの国々は、日本という国はそんな植民地に出来るような国ではないということは良くわかっていたと思います。
だいいち侍は常に大小を腰に差している訳ですから、下手をすると斬り殺される。なめる訳にはいきません。支那大陸とは違いました。江戸時代、日本人の識字率は間違いなく世界最高だった。その頃、ヨーロッパの国々はともかく、アメリカなどはたいした国ではなかった。
江戸中期の関孝和は、数学では極めて重要なベルヌーイ数を発見したのですが、それはヤコブ・ベルヌーイの発表の1年前のことで、書物として発表していました。だからこれは、関・ベルヌーイ数と呼ばれるべきものです。

塵劫記

塵劫記。吉田光由は角倉了以の外孫に当たる

 関孝和は同時代のニュートンやライプニッツにも決して引けを取らない人といえるでしょう。しかし重要なことは、彼は傑出した天才だったというより、士農工商の身分に関係なく大流行した和算ブームの上に現れた人物だったという点にあると、ぼくは思います。彼もまた当時大ロングセラーの和算書『塵劫記』で独学したのです。
彼の幾多の業績のうちで、いちばん重要なのは、文章でのみ表現されていた和算表現を、彼考案の記号によって数式化することを可能にしたことです。その結果XとYの二変数を持つ問題の解法を編み出すことが出来ました。
明治維新で、西洋の数学が輸入されましたが、それは記号こそ違っていても、内容は同じものだったし、日本人は知っているものばかりだったといえます。このことは、測量学や天文学でも同じでした。
算額というものがありました。これは絵馬の一つで、和算の問題を額に描いて神社に奉納したのです。いい問題が出来ると奉納した訳ですが、17世紀後半から現れ、日本全国津々浦々に820面が存在します。次のサイトを見てください。全国算額案内
京都長岡天満宮の算額

京都長岡天満宮の算額


ここには、3つの算額の問題が描かれていますが、いちばん右の問題は次のように書いてあります。
「図のように大円4個と小円4個で正方形を囲む。大円の直径が5寸で小円の直径が3寸の時、中に出来る正方形の大きさは?」
これけっこう難しい問題です。高校で習う余弦定理を使う問題で、答えは4.4寸。ところが驚くべきは、この問題を作ったのは、今堀弥吉くん、12歳というから驚きです。
日本民衆の知的レベルがいかに高かったかが分かります。
黒船が来て、大砲をぶっ放されて腰を抜かすような、ヘタレの田舎もんでは決してなかったのです。

話が本題からそれたような気もしますが、要は江戸時代の日本人は殿様から民衆に至るまで欧米に比べても大変レベルが高かったということが言いたかった訳です。
明治維新前の長州などはやけに強気だったようです。例えば長州は、こともあろうに世界最強の英国海軍に大砲をぶっ放し馬関戦争を始めます。一旦は引いたイギリスは、フランス・オランダ・アメリカと共同して攻めますが、関門海峡の封鎖は続きました。
艦砲射撃で壊滅的な被害を受けた長州は、それでも引かず和平交渉に臨みます。交渉に当たった高杉晋作は、幕府の命令に従っただけと言い張り、賠償金の交渉になると、朗々と「古事記」の一説を唱え上げ、通訳は訳が分からず困惑したといいます。結局長州は賠償金は払いませんでした。
そんな強気の日本が、明治維新を経て世界の大国になり、世界最強の海軍を擁するようになったのに、どうしてたった一回の敗戦で、いまのようなへなちょこな国になってしまったのか。それはぼくが、ずっと抱き続けてきた疑問でした。

まったく理不尽きわまりない人類史の汚点ともいえる東京裁判での裁判で裁かれたとはいえ、戦争犯罪人という前代未聞の罪で裁かれた日本軍人は、その潔さを表わし従容として死におもむきました。この時まで、戦争は犯罪ではありませんでした。戦争は殺人ではありませんでした。
絞首刑が執行されたのは、日本の皇太子殿下、今上天皇の誕生日でした。処刑された遺体は横浜の久保山霊場で火葬され、遺灰は米軍によって、東京湾に投棄されたのです。なんという非道、マッカーサーは間違いなく野蛮なアメリカ人でした。
GHQは、徹底した検閲制度をしき、あらゆる報道での東京裁判批判や戦犯擁護などを禁じました。日本人弱体化計画、いわゆるウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムと呼ばれるものが緻密に遂行されました。
最近、中国の三戦(世論戦、情報戦、法律戦)が話題になりました。これは中国で案出されたと思われているようですが、どうもそうではないような気がしています。三戦の淵源はGHQにあるように思えます。
もしそうだとすると、三戦に対抗するためには、GHQの戦略を考察しなければなりません。そして対策を立てる。それはとりもなおさず、戦後の日本を考察し反省し、日本を再構築することと一致することになります。

それにしても、アメリカはなぜ日本人弱体化計画を作り現行憲法を作ったのでしょうか。ちょっと意外かもしれませんが、それはアメリカが日本人を心底恐れたからだと思います。なぜ恐れたのか。それは日本がそれほど強かったからだと思います。そう考えないと話のつじつまが合いません。
日本人に対するアメリカの嫌悪と恐怖は太平洋戦争の後に始まったものではなかったようです。顕在化したのは、日露戦争の後です。
そのころ出版されて大いに話題になり、太平洋戦争の頃もなお重版されていたというロングセラーの『日米戦争』という本がありました。そのなかには、日本が西海岸に上陸してくるという戦闘図まで含まれていました。
アメリカに海兵隊が組織されたのは、日本の攻撃を想定してのことだったといいますから、歴史の皮肉を感じてしまいます。
こうしたアメリカ人の感情は、まず日本人移民の排斥という形をとりました。日露戦争の翌年、日本人を一般の学校から日本人学校に移す法律が施行されます。カリフォルニアでは、日本人の土地所有が禁じられ、7年後の1920年には、アメリカで生まれたアメリカ国籍の日本人にも適用されることになりました。そして、黄色人種の帰化権の剥奪が決められました。そして、1924年いわゆる「絶対的排日移民法」が制定され、アメリカは日本人に完全に扉を閉ざしたのでした。
こうした動きは、軍事強国となった日本への反応もあるものの、別のもっと根源的な原因もあったと考えられます。
アメリカはインディアンという有色人種を殺し略奪しつつ成立した国でした。アフリカで奴隷狩りで拉致してきた黒人を奴隷として使っていました。その状態を当然とする論理は、有色人種は劣等で動物と等しいという認識だった。つまり、有色人種と比べての白人の優位性、つまり人種差別がアメリカの建国の基底にあった。普通いわれていることと大いに違いますが、アメリカの建国の理念などというものは、韓国朝鮮も顔負けの捏造が含まれているようです。
そういう理念から考えて、ナポレオンを撃退したような一流の白人国ロシアと戦って勝った有色人種の国・日本はアメリカの国体とあわない目障りで、気色悪い存在だったのでしょう。

後すっ飛ばして、大東亜戦争に入ります。日本とアメリカが戦った大東亜戦争をアリと象の戦いのように考える見方が一般なのですが、必ずしもそれは無謀な戦いではなかったともいえます。戦力総合力や資源量に於いて圧倒的に不利だったとはいえ、その状況は日露・日清戦争でも変わらなかったというべきです。
大東亜戦争史自体が日本弱体化プログラムで、組み立てられていると考えるのが妥当です。支那事変(日中戦争は意味ない命名、中国はなかったし、宣戦布告もないから戦争ではなく事変が正しい)が拡大し、日本はアメリカと戦わざるを得なくなります。
戦いが1年2年と続くうちに、世界はアメリカとこれほど互角に戦えるのは日本しかいないということに気付いた筈です。日本はアメリカと互角に戦ったというべきです。
他の連合国はまったく問題になりませんでした。あっという間に東南アジアの連合国の植民地を解放しました。
この強さには、七つの海を制したイギリス艦隊もまったく歯が立たなかった。
イギリスのチャーチルは驚愕して「その強さは、大西洋ではかって体験したことがなかった」と述べています。
硫黄島や沖縄の戦いはアメリカにとっても極めて過酷なものだったし、カミカゼ特攻はアメリカ人にとっては、白人にとっては想像を絶するものだったし、恐怖そのものでした。死を覚悟しての攻撃は恐ろしい。
本土決戦になったら、ゲリラ戦になったら、もっと戦死者がでる。そう考えたから原爆を落としたのでしょう。
日本は天皇の御聖断で降伏しましたが、アメリカや連合国には日本の強さへの恐怖が、トラウマとなって残ったのではないでしょうか。

大東亜戦争で日本が降伏した後、出来た国が2つあります。中華人民共和国と韓国です。いずれも日本とまともな戦争をした訳ではない。中華人民共和国つまり中国は、日本が降伏した後に出来た国です。朝鮮は戦前に日本に併合された国です。日本と戦争などしようがありません。日本の士官学校をでて下士官となり、日本の兵士を指揮してアメリカと戦った朝鮮人の帝国軍人も沢山いたのです。ところが侵略されたという。これは歴史の捏造というべきです。それを認めろと歴史認識とやらを迫ってきます。
この併合も、日本が強引にやったものではありません。安重根というテロリストが前朝鮮総督の伊藤博文をハルピン駅で暗殺し、これに驚愕した朝鮮が大急ぎで併合を迫ったということのようです。
中国は、毛沢東の八路軍が第2次世界大戦をともに戦った蒋介石の国民軍を台湾に追い払って、中国を統一したと勝手に宣言し、中華人民共和国の建国を宣言しただけのことです。この国を支配する共産党政権は、今日に至るまで、一度も民意の洗礼を受けていないのです。つまり中国政府には正統性がないといえます。
韓国はといえば、日本の敗戦後、アメリカに亡命していた李承晩が帰国して打ち建てたいわばアメリカの傀儡政権です。そしてなんども軍部クーデターを繰り返し、首相が退陣後常に裁判で有罪になるという国です。
このいずれの国も、民意に基づいたまともな国とはいえない。
そのため、いずれの国も、そのよってたつ正統性を主張するためには、反日を正統性の根拠とせざるを得ないのです。心ある日韓の国民が日韓親善を求めれば求めるほど、韓国の政権は政権維持のためには日韓離反を図らざるをえないという構造的に不幸な関係にあるといえるのではないかと思えます。これがぼくが「脱亞論」を唱える理由でもあるのです。

降伏から8年が経ち、サンフランシスコ講和条約締結で、それまでの休戦状態は終わり、日本は主権を回復し全き独立国となりました。しかし、植民地から独立を遂げた国を除く世界の他の国、特に連合国の国々は、日本があの敗戦後の状態のままであることを望んでいたようです。特にアメリカのトラウマは強かった。
アメリカにはもう一つ、大きなトラウマがありました。それは原爆投下ではなかったのでしょうか。いくらそれが多くのアメリカの将兵の命を救ったとか、あるいは日本の被害の拡大を防いだとかいっても、その無差別な虐殺は心に深く残りました。南京虐殺の被害者数は原爆で死んだ人の数と同じになりました。
日本人は「水に流す」という善き伝統的思考がありますが、アングロサクソンにはそんなものは皆無です。ひたすら復讐を考え、また復讐を恐れます。だから今なお恐怖があるといえるのでしょう。
従軍慰安婦問題に関する決議が欧米諸国でなされるのは、以上のように考えないと理解できません。

先頃、アベノミックスによる円安に悲鳴を上げた韓国の朴クネ大統領はアメリカを訪問し、さらに中国に行きました。中国では、伊藤博文を暗殺した韓国の独立運動家・安重根の記念碑を(暗殺現場の)中国・ハルピン駅に設置したいと要請し、習近平が「関係機関に検討するよう指示する」と応じたということです。
このことに関して、BSフジのプライムニュースでは、なんと報じたかというと、「日本の植民地支配の記念碑を作る要請を行った」。これって、ぼくが過敏すぎるのかもしれないけれど、歪曲報道いや、植民地支配などしてないのだから、捏造報道じゃないでしょうか。安重根の記念碑は植民地支配の記念碑ですか?
いろいろと書き連ねましたが、まとめていえば、この日本封じ込め戦略ともいえる戦後体制の主な参加者は、アメリカ、中国、韓国です。この3国は見事に利害が一致しているというべきです。
日米軍事同盟で日本の軍事的自立を縛り付けたアメリカの主導の下に、中韓両国が東京裁判史観を武器に執拗に日本の歴史認識問題に介入し、日本の精神的自立を陰に陽にけん制する役割を分担するという構図が今なお維持されているといえるのでしょう。
やや冗長な記述になりましたが、削除訂正を加えたいと思っています。
これは、いってみれば、海外の戦後レジュームともいえるものなのですが、国内については別の機会にしたいと思っています。