お盆で郷里に戻る

今年も、例年通りお盆(盂蘭盆・うらぼん)の行事などのため、郷里のるり渓に帰って来た。
盂蘭盆というのは、毎年8月15日前後に、日本全国で行われる祖先の霊を祀る行事で、そのため日本中の会社もお盆休みを設けている。
もともとは、神道に基づく行事で、大昔から先祖供養の儀式や神事を行うことになっていたのを、江戸幕府が仏教の檀家制度を作るとともに盂蘭盆の行事を行わせたため、二つが習合したとされている。

戦後の高度成長期に大量の工場労働者が必要とされ、巨大団地が作られ農村から都市部への人口の移動が起こり、過疎の村が生まれた。しかし先祖のお墓は普通は昔のままの場所にあるので、お盆休みには大きな人口移動が起こり、交通機関は満員、高速道路では、渋滞が起こることになる。
町中にお墓がある人は別として、そうでない人たちは郷里のお墓に参る為に、田舎に行くので、子供たちにとっては、夏休み中の都会にはない自然に触れる楽しい期間となると思える。

ぼくの郷里は、京都府立るり渓自然公園のそばにあって、ぼくはここで学齢に達するまでを祖父母とともに過ごした。るり渓は、環境省が定めた日本の音風景100選に選ばれた名勝ということになっている。しかし、東海・北陸・関西エリアの25箇所の一つとして、富山県の称名滝や和歌山県の那智滝などと並べるには、かなりお寒い感がある。

鳴瀑

鳴瀑

このるり渓(瑠璃渓)という名勝は、明治期の有名な文人・大町桂月の命名によるものなのだが、あまり知る人はないらしく、ネットのどこにもその記載がない。約4キロの渓流は、まことに日本の自然の繊細さを表出していると感じられるものだ。
鳴瀑、錦繍巌、双龍淵、玉走盤、水晶廉、會仙巌などなど、下流からの遊歩道に沿って渓流の各ポイントを名付けたのも大町桂月である。

8月2日の金曜日の夕刻、家を出てるり渓に向かった。最近、京滋バイパスが大山崎ジャンクションを経由して、沓掛で丹波自動車道とつながったので、京都市西部の市街地を抜ける困難さがなくなり、ストレス無く約一時間で到着した。
翌日、家の上手にある野墓の掃除を行う。
TombField野墓というのは、村の墓、村人の埋葬地である。ここには、いわゆる墓石は一切なく、卒塔婆があるのみである。木製のものだからやがては朽ち、そして終いには数個の石積みだけになる。それが誰のものなのかは、その子孫だけしか知らない。家々によって場所は決まっており、ぼくを育ててくれた祖父や祖母は石積みが並んでいる。周りの草を刈り掃き清める。
別にもう一つのお墓があり、それはダントゥ(卵塔)と呼ばれている。大河内村には、株と呼ばれる同姓の家集団があった。同姓であるといっても、必ずしも血縁関係はなく、従って本家・分家などというものは存在しなかった。株には親戚と同等あるいはそれを上回る結束があった。卵塔はその株集団ごとに、山中に散在して存在している。

ぼくが父親から聞いたところによれば、この村は楠木正成一族の落人たちの村である。楠木正成は山向こうでの湊川の合戦のあと、山越えでこちらに落ちてくる途中、山中の峠で正成・正季兄弟は刺し違えて死んだことになっているが、実は正季は生きてこの地に落ち延びてきたという。
しかし、ぼくが思うには、『太平記』などに記されている通り、刺し違えて自害したのだろうと思う。
ついでながら、このとき有名な「七たび人間に生まれ変わっても、朝敵を滅ぼす」と誓い、刺し違えて死んだと伝えられ、幕末にはこれに「国に報いる」の意が加わり「七生報国」の言葉が成立した。
そして、側近の落ち武者たちはここに落ち延びたけれど、破れた南朝方であるから公然と墓は立てられず、山中の隠れ墓となったのが卵塔であると聞かされた。

大河内村は、るり渓の渓流が流れ下る園部川の上流の川の両側の山腹に家が点在している。川の右岸側を日向(ひなた)、左岸側を影側(かげわ)と呼んでいる。上流より下流に向かって、日向から始まり影側に一組から五組までのグループ分けがある。髙田家は一組に属している。
ぼくが、育った古屋敷は、川に沿って東西にのびる村の中央あたりに位置して、村でいちばん高い場所にあった。子供の頃から、村道から100メートル近いその急坂を上り下りしていたから、ぼくの足腰はたいそう鍛えられたと思われる。
この古屋敷は、天保年間に建ったといわれる、茅葺き屋根の家で、前栽には石垣沿いに斑入りの紅花を咲かすツツジの低木が植わっており、その珍しい木は仙右衛門という先祖が園部城の殿様からもらってきたものだと聞かされていた。
仙右衛門は庄屋だったから名字帯刀を許され、お城にも登城を許されていたという。

Hokora1古屋敷から西に向かって、山中を水平道があり、それを辿ると大河内分教場とその先に村のお寺・盛光寺があった。
古屋敷の背後には、一枚の山田を挟んで、卵塔があった。
古屋敷から盛光寺に向かう水平道のとっかかり、古屋敷の西隣の一段高いところに、古い祠があった。そこは、幼いぼくの遊び場でもあった。
その祠には大きな黒色で四角い鍵がかかっていた。あるとき、その鍵は恰好だけのものであるのに気付き、扉を開けてみたことがあった。中には、菊水の紋を記した布があったのを記憶している。
しかし、開けてはいけないことだというのは子供心にも分かっていたから、それは誰にもいわなかった。

Shrine1村の西の外れの山手にある盛光寺のさらに上方に大山祇神社がある。
本殿は、国の重要文化財に指定されている。設計図に相当する版木が屋根裏に完全所蔵されている大変珍しい例なのだそうだ。この本殿は、応永26年(1419年)に楠木氏の子孫の郷士下村義則・田井義高が再建したことになっているのだが、この地にそうした名字の家は存在しない。再建の年代に付いては、本殿の壁の絵額の裏にその年代が記されているので信頼できるものである。

Shrine2大山祇神社は何の神を祀る社なのかに付いては諸説があるようだ。
まず、素盞男命・伊邪那岐命・伊邪那美命の三柱というもの。ついで、熊野権現の熊野夫須美大神・家都御子大神・御子速玉大神の三柱という説。さらには、この熊野権現に加えて、産神金峰蔵王権現・祗園牛頭天王・豊浦大神・河内大神(=楠木正成)を祭神とするという盛りだくさんな説である。
ぼくとして、子供の頃、座敷には常に天照大神の掛け軸が掛かっていたことを記憶しているので、最初の説を信じることにしている。
大河内村には、宮の当という年中神事がある。各家が順に当主を担当し、10年間続ける。この当主は100年に一回回ってくるとされている。むかしは、この宮の当の神事への参加はよそ者には許されず、そういうクロースドな集まりだったようで、そこに参加を許された家が、親戚縁者を集めて祝いの宴会を開く習わしがあったという話を聞いたことがあった。
重要文化財の本殿。中に大きな祠があるという構造になっていて、周りの通路を巡りながら小さな祠にもお参りをする。

重要文化財の本殿。中に大きな祠があるという構造になっていて、周りの通路を巡りながら小さな祠にもお参りをする。

十数年前、かげわの最西端の家が最後の宮の当の担当を終え、ぼくに順番が回ってきた。ぼくの父親の代をとばしたわけだ。当主になったものは、まず近隣の村の代表に挨拶回りをする。
宮の当の当主は、お供えの為の野菜を下肥等の肥料を一切使わない清浄野菜を栽培しなければならない。野菜などの盛り合わせなどにも、複雑な約束事が多いのだが、昔からの文書が残っているので、それが参考になる。たとえば、用いる枝豆はすべて三つだけの豆がはいっている鞘を選び出して用いるとか。
祭事の当日は、当主は白ネクタイをつけて、受付に立つ。訪れた年配の村人たちは、「寿命を長らえて今年も宮の当に来れたのは神様のお陰でありがたいことです」などと、長々と宮の当の口上を述べる。答える口上もあるのだが、ぼくは適当にごまかしながらお辞儀を繰り返していた。
一組の十軒の順が終わるまでの10年間、毎年宮の当の神事の準備に携わることになって、善かったことがあった。それは、この村に住んでいないぼくと家内にとって、村人と親しくなる恰好の機会だったということである。ぼくは子供の頃ここで育ったから、何人かの幼なじみもいるが、家内はそういうこともなく、人間関係を作るのに絶好の機会だったのだ。

祖父はこの江戸末期の天保年間にたった家を建て替えたいと考えていた。そのお金がだいたい用意できた頃、日本は戦争に負けた。平価切り下げ(デノミネーション)が行われた。1946年3月には、銀行からの引き出しが禁止され、そして強烈なインフレーションが起こる。祖父が家が建つだけのお金が、タバコ一個になったと嘆いたのを、小学生だったぼくはよく覚えている。
ぼくが、紙幣は所詮紙切れと信じるのは、たぶんこの時の記憶から来ている。
それで、その後数年経って、ぼくが中学生の頃、新しく建った家がいまの家である。古屋敷は、高い場所にあることによって、いろいろ問題があったので、平地であるいまの場所にしたということだ。

新しい家は野墓の下方だったから、そこへの墓参は大変近くなった。反面、以前はすぐ裏手だった卵塔への距離は大変遠くなった。
数年前、村の墓をお寺の近くに新設しようという話が持ち上がった。山中に点在する卵塔へ高齢の僧侶が出向くのが大変であるし、卵塔ではかっこ良くないという理由のようだった。
場所的には寺の近くが望ましいということで、家の近くに墓が出来るのはいやだという予定地周辺の村人数人の反対もあったが、結局もと分教場跡地に新墓地が出来た。
その結果、村の共同墓地だった野墓は放棄されることになった。そこに眠る遺骨は残置され、祈祷によって問題は解決するというなんとも納得できない話だった。
しかしぼくは、先祖さまが眠る昔からの場所を移動させる気にはならず、新墓地への移動の勧誘には応じなかった。だいいちぼくの父親は、決して動かされるのを喜ばないと思えたのである。
新墓地には、スペースは確保されているようで、数十万円払えばいつでも移れるそうなのだが、ぼくにはその気は全くない。

RantouWithMonk8月4日、卵塔へのお参りの日だった。山に登り、朝9時到着予定の僧侶を待ち受けた。我が家は一組の筆頭なので、墓参の順序は最初なのである。
前日に前もってここに来て、墓石に積もった落ち葉を払い、周りを掃き清めてあった。
ぼくが子供の頃は、そばに明らかに掘り割ったと思われる小さな池があり、そこに奇麗な紅色の緋鮒が一匹だけいた。子供のぼくは、これをなんとか捕らえようと何度も試みたが成功しなかった。
そのことを知った祖母は、神様の使いだから捕まえたらバチが当たると諫めた。奇麗な湧き水をたたえていた池は消えてなくなり、湿地となっている。だから、お水は運んでこなければならない。

TombStone上の写真に見られるように、古い墓石は、楕円球の墓石が用いられている。これが、いわゆる卵塔のいわれであると思えるのだが、時代が下ると、墓石に文字が刻まれていて、「千山萬谷信士」「千峯妙谷信女」と読める。
そして、頭にある家紋は我が家の家紋である丸橘である。
Wikepediaにも載っている楠木正成の家系図によると、正成の父親は伊代橘氏の出の正遠である。橘姓を十数代続けてきたものが、突然楠木姓になる。少し変である。
一説によれば、楠木正成は「楠の木のようにあれ」として、後醍醐天皇に楠木姓を与えられたという。そこで橘姓から楠木姓に変わるのだが、父親までもが変わっているのは、どうも納得できないところである。いずれにしろ楠木姓は、正成に始まることは確かである。いずれにしろ、正成の一統は彼を除いて橘姓であったと考えられる。橘氏系譜 楠木氏系譜

Butudan8月13日は棚経の日である。前日に帰り、仏壇を掃除し、野菜などのお供え物を置く。盂蘭盆には先祖の霊が帰ってくるとされているので、お迎えとお送りの支度をするのである。
我が家の仏壇は、大工だった祖父が、手ずくりした質素なものである。
棚経を上げにお出でになるのは、先日の卵塔の僧侶の娘の直承尼である。例によって順番が最初なので、やはり早い時間で朝の8時だった。
父親の住職、森田清信さんは、ぼくより4・5歳年下で、叔父の僧侶がいる盛光寺に預けられそこで育った。ちょうどぼくが、学齢期に達して古屋敷の祖父母のもとを去ったのと入れ替わる時期に盛光寺に来たそうである。ぼくの祖父母は、ぼくがいなくなって寂しく思っていたから森田少年を大変可愛がり、彼は毎日のように、寺からの水平道を通って古屋敷の祖父母のもとに通ったそうである。
TanakyouWithJingasaぼくは忘れているのだが、夏休みなどに、ぼくが帰っている時に数回会った記憶があるというのだが、ぼくは全く覚えていない。
彼の本拠は亀岡のお寺なのだが、盛光寺の住職だった叔父が、長岡京辺りのお寺に転出したので、娘で美形の直承尼が盛光寺を預かることになった。年も若いし不慣れということで、父親が手助けしながら二人で勤めているわけである。直承尼は大変な酒豪で、先だってのぼくの母親の法要の後で、二人で酒を飲みかわした時など、二人で一升以上飲み干してけろりとしていた。
読経する直承尼の上に掛かっているのは、庄屋の仙右衛門が被って登城したという陣笠である。

Segaki28月18日は施餓鬼会である。盛光寺で行われる。施餓鬼というのはお盆にはつきものの行事である。
お盆にはお精霊さま(おしょらいさま)と呼ばれる各家の祖霊が、一年に一度、家の仏壇に還ってくるものとして、盆の期間中、盆供として毎日供物を供える訳なのだが、別に無縁仏になったり餓鬼道に落ちた死者の霊をも弔うというものだそうである。
ところが、この村の盛光寺で行われる施餓鬼会は少々内容が異なるようである。弔うのは、先の戦争での戦没者とその年に亡くなった新仏の霊である。
僧侶は6名で、精霊の一人づつに、まず婦人ご詠歌団によるご詠歌から僧侶の読経、僧侶たちは読経を行いつつ全員が焼香した後で、参加している村人全員が順に焼香する。
面白いと思うのは、このとき各人はまずお賽銭を上げる。お賽銭とはお宮さんではないか。ここにも神仏混淆が見られる。
参加者は各家一人なのだが、新仏のある家は親戚縁者全員が出席することになっている。

このお寺での施餓鬼会でお盆の行事はすべて完了である。話の内容の正確さを期すため断っておきたいのだが、ここまで書いた種々の作業に、この施餓鬼会を除いて、ぼくはほとんどと言っていいほど、何も身体を動かしていない。一緒にいるだけですべては家内が動いている。
Ihaiお寺から家に帰ると、家内がお位牌の取り出して、仏壇の掃除をしていた。本当はお盆の前にするべきなのにと言って笑っている。母親もしていなかったからもう何十年もしていなかったことになるそうである。
これまで、全く興味がなかったのだが、位牌の文字を調べる気になった。そんな気になったのは、そこに並ぶのがあまり遠くない将来だと思ったからなのかという気がした。
みんな真っ黒にすすけている。ぼくの子供の頃は、囲炉裏のある家だったし、長年のろうそくの油煙で燻されたのだろう。
写真のいちばん右側が最も古い位牌で、歸真 雲外玄洞禅定門 霊位、元禄十四年巳歳八月十五日の文字が読み取れた。
元禄14年といえば、1701年でいまから312年前である。
卵塔にあった千山萬谷信士の石碑に相当するものは、写真の右から6番目で、天保4年、つまり1833年で今から180年前のものであることが分かった。

これより前はどうだったのかと家内が尋ねた。それについては、盛光寺にあるはずなのだが、ぼくが父親に聞いたところによると、大東亜戦争の直前、神道の弾圧があり、有名な大本教襲撃事件が起こった。それを聞いた村役は次はここが狙われる可能性があると大変恐怖に駆られ、関係書類などをすべて焼き捨てたのだそうである。
位牌までも焼き捨てたとは思えないので、一度調べたいと思っている。