天下無双の俗物でありながら「知の巨人」と称される立花隆(承前)

 人間顔かたちは親から頂いたものですから、それの善し悪しは本人の責任ではない。しかし、50あるいは60を越えた年になるともうそんなことはいっておられません。年を重ねるうちにその考え方や性格が顔に表れるようになって来るのかもしれません。「名は体を表す」ではなく「顔は体を表す」ということになる。
 そういった顔かたちだけではなく、しゃべり方や身振り手振りそして表情の変化などが、色々な情報を与えていることになります。

 先頃CSで放映されていた連続ドラマ「Lie to me(ライ・トゥ・ミー)嘘の瞬間」は、精神行動分析学者であるカル・ライトマンが、「微表情」と呼ばれる一瞬の表情や仕草から嘘を見破ることで、犯罪捜査をはじめとするトラブル解決の手助けをする姿を描くものでした。
 私たちは、ライトマンのような学者ではないし、そんな分析力もありません。しかし、そのつもりで集中力をもってその画面を追い観察力を持続すれば、言いよどみ、抑揚、表情、身振り、手振りなどから、なんとなく感じることが出来るのではないかと思います。
 時として、なんとも説明がつかないけれど、でもなにか臭(匂)うとか、そんなことがあると思うのです。
 あの田母神さんは、講演で、誰かとすれ違っただけで、その人が「サヨク」かどうか分かる。どう分かるのかというと、そういう人の姿勢をよく見ると、みんな少しだけ左に傾いているんです。そういって笑いを取っています。
 

立花隆

立花隆

 田母神さんの話しはもちろん冗談ですが、ぼくは思うのですが、テレビのコメンテータなどを見ていて、何とはなしに「この人は・・・」などと感じることが多い。別に何かを言葉にしていなくても、感じるというか臭うのです。顔つきや表情も影響があるかもしれません。
 前稿のNHKスペシャル『JAPANデビュー』の「天皇と憲法」の締めくくりに登場した立花隆氏について、書きたいと思っています。
 昔からこの人を見て、いつも「品のない人だなあ」と感じていました。そんな顔に見えたからだったように思います。立花隆が売り出したのは、ロッキード事件の追及だったように思います。その昔、その巨悪を追う姿勢に小気味好さを覚えたのも事実だったが、一方なんとなくの違和感を思えていたのも本当だったように思うのです。

 「天皇と憲法」でのコメントでは、驚くべき無知さをさらけ出していたと思うのです。それはとてもこの重いテーマの締めくくりとは思えないものだったのですが、ともかくここに再現してみることにしましょう。
<だから、あくまでも昭和憲法も第一章は天皇なんです。ね。それで、だからその天皇条項の中に、天皇のあり方は国民の総意が決めるという、そういう風な、あの条項があるというね、いまは天皇を憲法で雁字搦めに縛って、あの、これ以外何も出来ませんって言うね、これ以外のいくつかが、いわゆる国事行為ね、いわゆる国事行為で、まあ、天皇がハンコを押すものはこれとこれ、みたいな、そういうのが憲法に決まっているじゃないですか、あれだけなんです。だけれどあれはまた、その改正条項で改正して、そこのこの縛っているものを、その辺のを、チョキチョキ切れば、広げることもできるわけよ。だから国民の総意っていうのは、そういうことですよ。その時の国民が天皇に何と何ができて何をやらせないというね、その縛りがその時々の時代の国民が決めるという、それがあの、要するに、昭和憲法が考える国民の総意が天皇の権限のあの、え〜、この、何ていうか、可能性の範囲を決めるというね、そういうことだと思うんですよね>
 
 ほんとにこの人何も分かっていないと思いました。天皇というものも理解していないし、皇室制も分かっていない。もともと日本の国体への理解もないと思います。
 自分で言い出したのではないのでしょうが、どうして彼が「知の巨人」なのか分からない。
 国民の総意で成り立っているからまた総意で変えられるというとんでもない幼稚な考えだとぼくは思いました。ルソーの『社会契約論』での「一般意思」さえ理解していない。
 憲法の第一章は天皇であり八つの条項からなっています。第一条は「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」
 この条項はある意味で、古来からの日本の国の形を明治憲法(大日本帝国憲法)よりもより現代的に表現しているともいえる気がします。
 しかし立花隆は軽佻浮薄に「総意に基づく」となっているから、総意で変えられるなどといってしまった。天皇条項は、そういう意味では恐ろしい検出試験紙みたいなものかもしれない。だから普通の人は避けたいと思う。立花氏のようにマスコミに「知の巨人」などとおだて上げられた人だけは、不用意にペラペラと雑多なしゃべくりを披露し、その基本的な理解のなさと不勉強をさらけ出したといえるのでしょう。

 そういうアホみたいな考えをもった人も、かつてはいたようです。昭和天皇が崩御された時、ある新聞社の投稿欄に読者投稿を装った投稿が載りました。
 それは、「天皇が亡くなったのだから、次の天皇をどうするかを国民みんなで考えるべきではないのか」というものだったといいます。
 それから25年経ったいま、もうそんな考えをもつ人は、まずいません。しかし立花氏はそんな小学生じみた考えを述べたりするのは、ほとんどジョークのように感じられたのでした。
 天皇を憲法が縛ったりしないのは、君主と天皇は違いますが、立憲君主制でも、君臨すれども統治せずの原則は常識であるし、権威と権力は全く異なります。日本国は昔から天皇は権威ではあったけれど権力であったことは一度もなく、それが万世一系2千年の永きに渉っての歴史を持つことになったという事実が見えず、まるで、フランス革命のすぐ後みたいなことを、立花隆はいっているようなのです。

 立花隆氏は「週刊文春」2001年3月29日号で「超法規的日本再生計画」と題した記事を発表しました。
<クーデターを起こし、日本国再生法案を緊急発布し、超法規的に次のことをまず決める。
(1)いかなる例外もなく、いかなる組織からも60歳以上の人間を引退させる。
(2)政界、官界、経済界、学会で指導的立場にいた人間は全員、日本を破滅的状況に追い込んだ連帯責任者として、問答無用で全員投獄し、強制労働させる。
中でも責任重大な立場にいたものは裁判にかけ、トップランクは日本国第二の敗戦のA級戦犯として絞首刑。(中略)A級戦犯にも切腹の機会が与えられる。

この記事が書かれた2001年は日本はアメリカとの経済戦争に敗れたとされ、「第二の敗戦」がいわれていました。もう少し詳しく説明しましょう。
 平成5年(1993)、大統領に就任したクリントンは、日本を「敵国」と名指しで表現し、以来、クリントン政権は、米国資本の意志を受けて、我が国への激しい経済的・外交的攻撃をかけてきました。そして、グローバル・スタンダードという名の下に、アメリカ主軸の世界を築くための戦略をもって、「経済戦争」を展開してきました。(歴史は繰り返しています)
 日本は平成10年(1998年)この戦いに敗れ、「第二の敗戦」とマスコミが騒いでいたのです。その頃、立花隆は絶好調でした。そんな中で、さきの「超法規的日本再生計画」が発表されたわけです。
 それにしてもこれはひどい。クーデターを煽動しています。近代法の大原則である罪刑法定主義も無視しています。自由、基本的人権、法の支配、民主主義そのすべてを無視しています。
 この時、立花氏は61歳。とても若気の過ちとはいえません。どこか狂っている。

 驚くべき女性蔑視をあらわにして、『文明の逆説』講談社文庫でこう書いています。
<だいたい女は男にくらべて脳細胞の数が少ないせいか(日本人の場合、脳の重さの平均値・男1372・9グラム、女1242・8グラム)浅はかと愚かしさをもってその身上とし、それがまた魅力ともなっているのだが、浅はかさはここまでくれば、いささか許しがたい。(中略)女性に特有の思考形式は、現実を無視して議論を展開することである。(中略)多淫な女、複数の男性を望む女は例外なく冷感症、不感症なのである。オルガスム不全がニンフォマニアとウーマン・リブを生むといって過言ではない。女性が真に解放されたいと望むなら、早くオルガスムスを味わわせてくれる男を見つけることだ>
こんなことを公の文章にして発表したら大問題になって当然です。しかし、マスコミにおだて上げられたともいえる「知の巨人」は、なおも自由に発言し続けていました。

 当然無数といっていいほどの批判本があります。
 それを詳しく紹介するのはなぜか馬鹿げているような気がします。あのしゃべくりや内容をみただけで分かることなのですから。
 ここまで書いてきて、なぜかぼくは、スケールは全く違うのだけれど、あの上野千鶴子先生を思い出してしまいました。
 まごうことなき俗物は、マスコミによって造り上げられて「知の巨人」となりました。マスコミからは重宝がられ、読者からは権威として受け入れられ、科学者からは放置される。そんな構図を抱えたまま、立花隆は老いているようです。
(付記)この稿は、潮匤人『日本を惑わすリベラル教徒たち』(産經新聞出版)を参考にしています。