建国記念日に想う

 今日は日本の祝日・建国記念日の日です。
 昨夜の夜半、明日はこの建国記念日についての報道がなされると思って、DVDレコーダーで番組検索をやったのですが、一つも出てこなかった。
 これは一体どうしたことなのかと思ったのでした。
 建国記念日は言ってみれば、日本国の誕生日です。だから祝日なのだと思います。それについての番組が全くないというのはどういうことなのか。
 録画していたミヤネやの報道番組では、アナウンサーが「きょうは祝日ですので・・・」というくだりがあって、やはりこれは意図的に建国記念日と言葉自体をパッシングしているのではないか、そう勘ぐってしまったのです。

 建国記念日は、大東亜戦争敗戦までは、「紀元節」といっていました。「雲に聳える高千穂の・・・」という紀元節に唱う歌があって、この歌をぼくは覚えています。その記憶はないのですが、小学校では習い唱ったのだろうと思います。紀元節唱歌
 半世紀ほども前の1965年、ぼくはカラコルムの未踏の峰・ディラン峰への遠征隊員として、パキスタンに赴きました。そのころ、地球はけっこう平和だったので、空港でもセキュリティーチェックなどはありませんでした。
 遠征隊の先遣隊員として本隊の半年も前に、当時は西パキスタンのカラチに着きました。そこには日本大使館があり、アラビア海の潮風に吹かれて、日章旗が翩翻(へんぽん)と翻っており、なんとなく高揚した気分になりました。

 大使館もいまの要塞のような感じではなく、なんとなく僻地の小学校という風情でした。当時の日本は60年安保の大騒ぎが治まり、高度成長の波に乗りつつありました。カラチには先端企業の代表であったいくつもの綿紡会社の支社が拠点を構えていました。
 ほとんど連日のように、ぼくたち2人の先遣隊は、支店長のガーデンパーティーに招かれたものでした。
 間近に建国記念日に日本大使館が行う記念行事が迫っており、ほとんど毎日のように大使館や日本人クラブに出かけていたぼくはその準備の手伝いを頼まれました。各国大使や財界人・政治家に出す招待状の表書きをすることでした。信じられないような長い名前があって驚いたものです。
 記念行事の内容はといえば、主に映画の上映でした。日本の紹介映画と井上靖が朝日新聞に連載し登山ブームのきっかけになったともいわれた小説『氷壁』の映画でした。
 
 日本の紹介映画でいまも覚えているシーンは、高速道路と新幹線がクロスする光景で、それはサントリーのある大山崎のあたりの光景で、この地でのロバやラクダの車が混在して走るカラチの光景を見慣れた目にはやけに新鮮に映り、凄いななどと思ったものです。
 でもぼくはよく知ってはいたのです。新幹線や名神高速の橋脚の下にはバラック小屋が点在していることを・・・・。
 カラチの大使館員はみんな、だれも建国記念日とはいわず「紀元節」と呼び合っていました。それは、ぼくにとっては大変耳新しい言葉に聞こえたものでした。

 紀元節より建国記念日のほうが、大変理解し易い。でも、本当の理由は大東亜戦争のように敗戦後GHQによって呼び替えを要請されたものだと思います。
 いま世界一般に用いられている年号は西暦であり、それはキリストの生誕を元年とするものです。
 一方、日本の起源とされる神武天皇を元年とするのが日本の皇紀です。これは西暦でいうと紀元前660年、いわゆるBC(BeforeChrist)660です。だから西暦を皇紀で表わすには660を足せばいい訳で、今年は皇紀2675年となります。
 天皇の存在を認めたくないし消し去りたい、それが無理でも意識からだけでもなくしたいと思う人たちにとっては、皇紀などという年号は用いたくないのでしょう。しかし、日本の天皇を認める日本人が皇紀を用いることは至極当然のことだと思うのです。

日本のバースデーケーキ

日本のバースデーケーキ

 今朝昼前に起きだすと、家内が何やら作業をしていました。どうもぼくの朝餉の用意ではないようでした。尋ねると、「バレンタインデーのチョコレートケーキの予行演習よ」というのです。
 ぼくは、「それ日本のバースデーケーキにしてくれない?」と頼んだのです。
 建国記念日とは、日本の國の誕生日です。日本の母なる大地に暮らし日本の父祖の魂を受け継ぐ日本人がその誕生日を祝うのは当然のことだ、と思ったからです。
 正直言って、ぼくは父親の誕生日を憶えていなかったし、誕生日を祝った記憶もありません。しかし、日本のテレビメディアが日本国の誕生日をネグっていることは悲しいことだと思い、それを祝うのはぼくの遥かなる父祖の魂を喜ばせるのではないかと考えたのです。

JapanCake2 家内は、「ますます極右になってきたね」と笑いました。
 素敵なケーキが出来ました。
 ぼくは、お神酒を飲みケーキを食しながら、ふと生前の一時期、反発し続けていた父親のことを思い出していました。
 父は、郷里の山向こうにナイキ基地が設立される計画に反対して、教育委員長の職を辞し、共産党と一緒に戦いました。この反対闘争は珍しい成功例となりました。
 彼は、「アメリカが日本を駄目にした」と言い続けていました。ある時、郷里を訪れての去り際に、走り去るぼくの車に向かって、大きな日の丸の旗を振る父を見て、「いつもの茶目っ気が出たな」と思ったのですが、いまになって、あれにはもっと深い意味があったのではないか。そんな気がしたのです。