「戦後70年」にシナ(中国)の歴史を考える

 日本とは全くといってもいいくらい戦ったこともない国がともに今年「抗日戦勝70周年」を祝うという。いずれの国とも日本は戦ったことはない。日本がアメリカに大東亜戦争で負けた時、大韓民国も中華人民共和国も存在しなかった。
 大韓民国の国名が決まったのは1948年憲法制定国会の憲法起草委員会においてだったとされている。それで、1948年8月15日という日本の敗戦記念日を選んで「光復記念日」と呼んで、自らを騙しているわけだ。
 中華人民共和国はどうかといえば、その建国は日本の「ポツダム宣言受諾」から4年後の1949年のことだった。日本が戦ったといえば、それは戦争というほどのものではなく、「日華事変」と呼ばれた日本と中華民国との戦闘に過ぎなかった。大東亜戦争に日本が負けたのち、支那大陸では蒋介石率いる「中華民国」と「八路軍」と呼ばれた毛沢東の共産党軍との内乱になり、毛沢東軍が蒋介石軍を台湾に追いやって、中華人民共和国を設立したのが1949年だったわけだ。
 すでに明らかなように、中国も韓国も偽りの国史を作り上げており、その偽りを取り繕うためなら手段を選ばぬあらゆる策を弄してくるように思われる。

 さて、タイトルに「シナ」と書いたのは、もともと中国などと呼んでいい国はなく、そういう事実と整合性の取れない国名で呼び習わしているのは、世界中で日本だけなのだ。世界的には秦に由来するChinaで、現在のChinaはPeople’s Republic of China(日本名:中華人民共和国)で、1949年に毛沢東が作った共産党の王朝とも言える国である。
 それ以前は、もっぱら「支那」で通っていた。孫文が独立宣言をした時にも支那を使っていた。ところが、蒋介石がGHQに支那は差別的な意味を含んでいるから使ってほしくないと訴え、それからひたすら「中国」という理不尽で紛らわしい名称が流布した。あらゆる歴史書や歴史の名称も支那から中国に書き換えられることになった。ここにシナの偽りの歴史が始まることになった訳である。「中国四千年の歴史」とか五千年の歴史などというとんでもない呼称がまかり通っていて、多くの人がそれを信じているというのはなんとも滑稽な話なのだ。
 支那は差別的というのなら「シナ」にしたら問題なかろうと思うし、「中華人民共和国」の略称というのなら「中共」としたら、中国共産党の一党支配というこの国を表すもっとも至当な呼称という気もする。

 多くの人が中国は古い歴史のある国と考えているようだが、それはとんでもない誤りなのである。日本とは違うのだ。「中国」という国家は20世紀までなかった。領土も、皇帝の血筋も、そこに暮らす人々も、時代ごとに大きく変わってきたからである。
 シナの歴史は大きく分けて、5つに区分けすることができる。秦の始皇帝が統一を果たす以前は、「シナ」すら存在しなかった。つまり中国以前の時代である。
 第一のシナは、秦の始皇帝の統一から隋の再統一(589年)までの800年間である。この時代黄巾の乱で漢族はなんと10分の1にまで減少し、そこに多数の遊牧民が流入してくる。
 第二のシナは、隋の統一からモンゴル人の元朝に南宋が滅ぼされる(1276年)までの700年間。この間、女真人の金、契丹人の遼が強力となり、南方の漢人居留区は植民地となってしまった。
 第三のシナは、清が滅亡する(1912年)までの600年間。シナ全体がモンゴル化したあと、その元朝をついだ明朝は辛うじて漢族居留区を支配していたが、すぐに満州人の植民地となってしまい、彼ら漢人はチベットやモンゴルあるいは新疆に行くこともできなかった。
 第四のシナは、日清戦争(1895年)で日本に敗れたあと、日本をまねて近代化を始めてからの時代で、日本化の時代とも言える。言ってみれば、伝統的な「シナ」文明はここで終わりということである。だから以後はシナ以後の時代なのである。
 日清戦争のあとシナは二千百年をこす伝統的システムを完全に放棄して、日本型の近代化路線に乗り換えた。
 日本ではすでに漢字文化になじむように改変した欧米システムを採用していた。これを真似たシナは、これまでの漢字語の体系を全面的に放棄したので、日本製漢熟語を基礎とする共通のコミュニケーション・システムが生まれることになった。
 ここにいたって、シナの歴史はその独立性を失い、世界史の一部となって、しかも日本を中心とする東アジア文化圏に組み込まれることになった。

 ここまで読み進められた諸氏は、ほんとかいな、そんな話は初めてと思われるかもしれない。それは当然で、今の日本人が知っている中国史は、毛沢東が書いたものであり、勝手な創作と言っていいとぼくは思う。
 たとえば、毛沢東は中国の近代化はアヘン戦争から始まったとするが、それは日清戦争の敗北という史実を認めたくない勝手な解釈に過ぎない。
 日本の歴史学界は、こうした中国の歴史書を手本にしているからみんなおかしいのではないかと素人のぼくは勝手に邪推している。
 すでに述べてきた時代区分は、私淑する歴史学者、岡田英弘先生のものである。孤高を保ち、独自の歴史観を打ち立てた日本唯一と言っていい素晴らしい歴史学者であるとぼくは思っている。
 彼によれば、世界には二人の歴史家が存在した。一人はヘロドトスであり、もう一人は司馬遷である。二人はそれぞれ歴史書を書いた。『歴史』であり、『史記』である。しかしこの二人の歴史家の著した歴史書は全く異なっている。ヘロドトスのそれは、歴史は国家の興亡であり、それは並んだ棒グラフのようにそれぞれが伸び縮みする。一方司馬遷は、それは皇帝の歴史であり、天命によって権力を得た皇帝が移り変わるものである。いわば一本の棒のような歴史なのである。

 これまでの歴史は、このいずれかのスタイルをとって書かれ、あるいは織り交ぜて書かれてきた。しかし日本の歴史を書くには、このいずれのスタイルも取ることはできないのではないだろうか。ぼくにはそう思える。
 江戸時代から明治にかけて国学が隆盛をきわめ、日本独自の歴史も書かれたと思われるが、それは戦後GHQに危険とみなされ焚書された。
 マルクス史観の枠にねじ込もうとしても、こと日本の歴史に関しては無理なのである。歴史教科書を少し注意深く読んだだけで、それは誰にでも見て取れるのではないだろうか。
 たとえば、時代区分に関しても、日本の歴史に中世はないと考えられる。それはヨーロッパのような教会の支配や互いに皆殺しをしあう宗教戦争はなかったからである。日本独自の歴史観による国史が書かれる時がやがて来る。安倍さんの70年談話を読んで、何の脈絡もないのだが、ふとそんな気がしたのである。

 ぼくが中国を批判するような話をした時に、よく返ってくる言葉に漢字の問題がある。「4千年の歴史があるからねぇ」などというのは、NHKの中国関係番組を丸呑みで信じとるなあと口には出さずに嗤うだけなのだが、「漢字はもらったんだから・・・」という反応には困っていた。
 漢字について書く必要があると考え、この項を起こした頃、漢字に関するテレビが放映された。

最近見つかり発掘された殷の遺跡

最近見つかり発掘された殷の遺跡

 NHKスペシャルで、「中国文明の謎」<多様な人々がなぜ一つにまとまるのか>という番組が放映された。少々首をかしげる副題ではあったが、そのテーマは漢字であったので思わず見入った。中井貴一さんが漢字をテーマに各地を探訪してゆくという筋立てになっていた。
 青銅製の武器を開発した殷は約500年にわたって栄えたのだが、この軍事強国であった殷が夏を攻め滅ぼした時の遺跡が最近発掘されたという。そこに埋葬されていた人骨は、顔を潰されたり両足を切断されたりした夏の人のものばかりだった。それは殷の兵士が夏の人を残忍な方法で処刑したものと考えられた。
 
 
この意味は?

この意味は?

すべての人骨には頭部がない

すべての人骨には頭部がない

 左に示した絵は、同時に発掘されたもので、その甲骨文字には羌三十牛十と記載されている。それは占いにあたって神に羌30と牛10を捧げたという記録である。
 羌とは人間の生贄の意味である。殷墟では生贄を埋めた穴がいくつも見つかっている。
 一つの穴は一回の占いを意味し、多くの人骨があるが、そのいずれもの頭部が無い。殷の神は人間の頭を好んで食べると考えられていたからだという。殷墟から見つかった生贄の人骨は14000体に及ぶ。
 これらの映像は、NHKスペシャルによっているが、この生贄についてはそれ以上の説明はなかった。それにしても、漢字の誕生がそんなおどろおどろしい史実を持っていることを知って考え込んでしまった。

空から落ちる水を表し、雨という字は今でも解読できる。

空から落ちる水を表し、雨という字は今でも容易に解読できた。

 漢字はシナ以前の時代、3千年前の古代王朝殷の時代に発明されたとされている。甲骨文字とも言われ獣骨に刻み、熱した鉄棒を押し当て割れ方で吉凶を占った。
 100年ほど前、初めて発掘された殷の遺跡(殷墟)から1万枚にも及ぶ甲骨や亀甲が見つかったが、そこには漢字の原型があった。
 文字の解読は容易に進んだ。これは他の古代文字では考えられないことだった。たとえば、エジプトのヒエログリフ文字は、何世紀も後になって有名なロゼッタストーンが見つかるまでは、解読は不可能だった。
 また古代文字は次々と消滅して行ったが、唯一漢字だけは生き続けた。それはどうしてなのか。

占いの文字。この10日の間に災はないか?

占いの文字。この10日の間に災はないか?

 漢字は殷の時代の中頃、突如5000字が現れたとされている。それは占いの用途を持っていた。左には旬亡災と書かれており、これで旬(10日の間)亡(ないか)災(わざわい)、つまりこの10日の間に災はないかどうかを占った。
 それにしてもこの漢字文には助詞などがない。これは最初からの漢字文の特徴であったといえる。いわば一種の符牒のような働きをし、全く異なった言語を持つ部族・民族の間でも有効に用い得たと言える。
 シナではいくつもの民族が王朝の攻防を繰り返したが、漢字が使い続けられたのはこの単純さにその秘密があったとぼくは考えている。
 満州族は満州語の文字を持っていたから、清朝では満州文字も用いられていた。しかし、異民族を統治するためには、昔から用いられてきた符牒としての漢語の方が便利であったから、これが主となったのだろう。
 インド亜大陸のムガール帝国も多くの異なった言語を話す官吏を統括するために、主にペルシャ語を基にしての一種のエスペラントの様な意味合いで、新しい言語を作った。それがいわゆるウルドー語であった訳である。

パクバ文字

パクバ文字

 清が滅亡するまでの第三のシナの時代、元帝国はモンゴル語を用いていた。その頃植民地となっていた中原の漢人居留地では漢語は話されたが、公用語はモンゴル語であった。フビライ・ハーンはモンゴル語を表記する文字を作らせた。いわゆるパクパ文字と言われるものだった。それまではモンゴル語の表記にはウイグル文字が用いられていたが、すべての支配地域で共通して用いられる文字が必要だったからである。
 しかし、以前より使われてきたウイグル文字の方が馴染みが深かったので、やがて使われなくなった。ところがこのパクパ文字は元朝支配下の高麗王国に伝わり、それが基礎となって李氏朝鮮の世宗王がハングル文字を作った。フビライ・ハーンがパクパ文字を作らせたおかげで、今の韓国語・朝鮮語があるといえる。

 すでに述べた様に、符牒の様な漢語には、形而上的・思想的な、精神的な目に見えない様なものを表す語彙はほとんど無いに等しい。それはもともと商売上のコミュニケーション用として使われてきただけの不完全なコミュニケーション・ツールだったからだ。
 これが大きく変化したのは、唐代だった。李白や杜甫が現れた。漢詩の黄金時代と言える。漢詩ももともとは、花鳥風月など形而下的で具象的なものを詠んでいた。この枠をはみ出して四書五経の漢字の配列にとらわれない自由で闊達な表現が考案された。
 おそらく彼らは、「てにをは」をもつモンゴル人やウィグル人あるいはトルコ語の言葉からその手掛かりをつかんだと思われる。
 しかし、こうした漢詩での表現の工夫発達が、日常語としての漢語の表現を助けたわけではなかったと思われる。岡田英弘氏は、科挙制度がもたらしたものとして、シナ人の感情表現の枯渇をあげ、「もともと抽象的な表現に向いていない漢字の性質がこれに拍車をかけ、中国人の自由な感情表現はほとんど不可能になったのである」と述べている。

 日清戦争に敗れたシナが二千年以上も続いたシステム変更のやむなきに至ったことはすでに述べたが、この変更の最大のものは科挙の廃止だった。科挙の制度が始まったのは隋王朝の時代だった。それまで貴族階級に有利だった官吏登用システムを止め、家柄ではなく能力によって選抜することにしたのである。
 詩文の能力試験の成績によって人材を選抜した。漢字の使用能力さえ優れておれば、誰でも政府の要職に就くことができた。漢字とその組み合わせに基づいた人工的な言語以外にコミュニケーションの手段のなかったシナでは大変有効に働き、以後1300年も続くことになった。
 科挙に合格し地方に赴いた官吏の給料は大変安かった。その収入は賄賂で賄われるのが常だった。贈賄・収賄は悪いことでは決してなかった。最初から一般的な習慣だったのだ。現在の中国の官吏である共産党員が賄賂を取り、溜め込み、海外送金を行うのは、シナで科挙が始まった千数百年前からの習慣だったのである。習近平の虎とハエ退治がパフォーマンスであることがわかるし、その限界も見えてきておおいに同情するばかりだ。

 ぼくがずっと抱いていた疑問は、どうして中国は漢族ばかりそんなに多いのだろう。大昔の漢の時代に攻め滅ぼされて人口が10分の1まで減ってしまったのに、なぜいまはほとんどが漢族ばかりなんだろう。そういうものだった。
 岡田英弘先生はこう書いておられる。「中国人」や「漢族」という種族は存在しない、と。以下引用してみる。都市を囲んでいる城壁は「中国」の空間を外側の「蛮・夷・戎・狄(ばん・い・じゅう・てき)」の世界から区別する、最も重要な境界だったのである。つまり、いかなる種族の出身者であれ、都市に住みついて、市民の戸籍に名を登録し、その市場の組合員になって組合費をはらい労役に服し、非常時には召集に応じて武器を取り、市民の職種に応じて規定されている服装をするようになれば、その人は中国人だった。これを裏返せば、いかなる異民族の出身でも、家でどんな外国語をしゃべっていても、こうした条件さえ満たせば中国人になれるということである。もっと簡単にいえば、城壁の中の人間は中国人であり、外にいる人間は非中国人である。その意味で、中国人は文化上の概念だというのである。

 要するに、古代中国にはもともと「漢族」というものはなかった。蛮・夷・戎・狄が接触して、その交渉を持った中間地帯に都市が生まれ、出身の種族に関係なく都市生活を営むようになったのが、中国人となったので元来中国人とか漢族という種族があったわけではない。
 しかし、司馬遷の『史記』によれば、中国は黄帝以来、中国人の天下であり、常に正統の帝王によって統治されてきたという立場を取っている。その結果、中国は五千年の歴史を持つ普遍の高度な文明であり、時折征服されることはあっても、すぐに彼らを同化してしまい、征服の影響は残らなかったという「中華思想」が固まってしまった。
 中国人だけでなく日本人の中国史家も、『史記』史観による資料しか読まないから、偏向に気づかず中華思想の枠組みに支配されていることさえ自覚しない。たとえ自覚してもどう修正したらいいのか、見当がつかない。

 中国共産党は、一党支配の中華人民共和国を作った時から、古代中国の方式によって、いわゆる少数民族以外の人々を漢族としたし、いまでも登録さえすれば、だれでも漢族になれるはずである。
 習近平主席もこうした『史記』史観を高く掲げ、中国4千年の歴史を信じて世界制覇を目指していると思われる。世界の主要国は、一致してこれに対する有効な対策を講じることができない状況にあるとも言える。
 戦後70年の歴史において、日本は文句をつけられるようなことを一切しなかった世界唯一の国である。文句を言っているのは隣の二国が、謝り方が少ないと言っているだけのことである。
 だから、世界で一番立派なのは日本であることを自覚し、かつ日清戦争後、漢字文化を始めとしてアジアの文化の中心となったことを想起して、世界に物申す立場をとる時代になったと、ぼくは思っている。