田原総一郎の不埒な作り話

 YouTubeにアップされていた直近の「朝生」を見ていたら、田原総一郎氏がびっくりするような発言をしていました。それは、番組の最後の方で、天皇陛下御譲位が話題になった時のことです。
 百地章さんが譲位について発言していると、「そんなもの条件をつければいい」と田原総一郎が割って入り、その条件を列挙しました。そして、そこに遠山議員が発言し、天皇が権能を有しない政治不介入の原則に抵触するのではないかという意見を述べました。

発言を続ける遠山議員に指差しして、「遠山くん」を連呼、そして大声をあげ、「遠山くん聞け!」と怒鳴った。

 こんな風に言っても、皆さんは何のことかその内容がわからないと思うのですが、まあわからなくてもいいのです。ともかく、遠山議員が話しを続けていると、田原は、「そんなことはねぇ、そんなことは」と割って入り、遠山議員が構わず発言を続けると、「遠山さん、遠山さん、遠山さん、遠山さん、ちょっと待って遠山さん」と連呼し続けたのです。そして突然「遠山さん、ちょっと聞けよ!」と大声をあげたのです。
 みんなはびっくりして一瞬しんとしたところで、田原総一郎はこんなことを喋り出したのです。

 まずは、天皇が吉田茂に、実は民主主義と天皇制は矛盾してると。どうすりゃいいだろうねと。相談するんですよ。昭和天皇は要するに民主主義というのは選ばれる。天皇制はね、世襲だと。こりゃ矛盾してると。どうすりゃいいんだろうねと。聞かれて吉田茂は答えられない。困っちゃった。本当はハラキリもんだと。
 で、実は、要するに彼は主治医の武見にこんなこと聞かれて困っちゃったと。どうすればいいんだと。そしたら、その時、あの慶応のあれ、あれ作った、・・・・、それで、慶応の誰かを呼べば何かいいアイディアがあるんじゃないか。それでねぇ、小泉信三、これ呼ぶんですよ。それで要するに、皇室を開かれた皇室にしようと、民主的な皇室にしようと、それで今の美智子さんとの恋愛関係まで作って行くんだよ。要するに昭和天皇自身が、要するに天皇制と民主主義は矛盾してると。どうするか。

 と、ここまで延々、グダグダと喋ったところで、話は途切れ、コマーシャルとなり、話は立ち切れとなりました。彼は一体何を言いたかったのだろう。この話、陛下が民主主義について困惑されていたのは事実なのかもしれません。時は終戦直後のことだったと思われます。
 しかし陛下が天皇制などという言葉をお使いになることはありえませんし、吉田茂にお訊ねになることもありえないと思われます。だいたい天皇制などという呼称を作ったのは、その消滅を策したコミンテルンなのですから。陛下が吉田茂に、天皇制と民主主義は矛盾しているからどうしたらよいかと尋ねた。そんなことはありえないと思います。
 よくもまあ、こんな話をでっち上げられたものです。まさに国賊的発言と言っていいでしょう。ぼくがこんな風に確信的に言うのは、この話の元ネタを知っているからです。

 いつも祇園などのお茶屋の女将や芸妓たちが、その時々の世界情勢や経済の動きに深い理解力を持っていることに驚いたことが、これまで何度もありました。その理由を考えて思い当たったのは、彼女らが、時の政界や財界の大物たちの宴席に侍って、話し合われていることを聞いているからなのだ、ということでした。
 ただ彼女らは、その内容や人物に関しては、口が裂けても明かしません。テレビ芸者の田原総一郎と違うところです。
 
 田原総一郎が負けそうになった相手の話の腰を折る手法は決まっていて、その一つは突如、相手が答えられないような質問、例えばチェルノブイリで死んだ人は何人?とかとやって話題を変える。他に、誰でも知ってるような質問を投げる。例えば「聖徳太子知ってる?」とか、今回もやってましたが、「中曽根首相知ってる?」。これをやられて相手が思わずムカッとしている間に、自分の方に話を引きずり込んで、話題を逸らすのです。
 自分しか知らない話はいっぱいあるのでしょうが、それがどうしたというものばかりなのです。おまけに、耳学問が多いようで、基礎的な勉強が足らず、おまけに若い頃に感染したコミンテルン史観に染まりきっていらっしゃるようなので、勝手に一方的な結論にたどり着いていることが多いようです。
 ぼくが思うに、彼の最大の間違った思い込みの一つは、「自分は戦争を知っている」というものです。小学生を出たか出ないかで終戦を迎えた子供が戦争を知っているなどと声を大にできるわけがない。鳥越氏と同列の話で、長じてからの安保闘争時代に刷り込まれた戦争観をなぞっているだけだと思っています。

武見敬三参議院議員

 さて、先程言った元ネタです。これは、いつだったかプライム・ニュースという番組で、ゲストの武見敬三氏が語ったものです。今ぼくは東京にいるので、細かいところまで、忠実に再現できませんが、家に戻れば録画したものから再現できるので、いずれそうしたいと思っています。
 ぼくの記憶によれば、武見敬三参議院議員は、確か昭和天皇にまつわる番組だったと思うのですが、そこで父親の思い出とともにこんなことを語りました。
 彼の父親はあの有名な日本医師会会長の武見太郎氏です。この人は昭和天皇の侍医でもありました。

 終戦直後のある夜のこと、陛下が大変沈んだご様子なのが気になり、どうかされたのかとお尋ねした。陛下は民主主義というものがよくわからないとおっしゃった。武見太郎氏はそんなものは福沢諭吉がちゃんと書いてますよ。そう答えました。陛下はその本はどこにあると問われ、私の別荘にありますと答えると、今すぐ持ってこれるかと言われたので、夜中に軽井沢まで車を飛ばしたというのです。その諭吉全集をお読みになった陛下は、皇太子(今上天皇)の教育係には慶応出身者を当てるようにおっしゃった。そこで、小泉信三氏が教育係に決まったのだそうです。
 ぼくが聞いた話の内容はこんなところです。

 この話はあちこちに伝わったと思われます。そして勝手に変造され、そしてコミンテルンに都合よく作られたのが、「昭和天皇は天皇制と民主主義に矛盾を感じていた」などという荒唐無稽なとんでもない捏造された話だったのだと思います。
 天皇譲位の議論、この極めて重く慎重になされなければならない話題を、大声を発して打ち切り、そして田原総一郎が述べたのは、「要するに昭和天皇自身が、要するに天皇制と民主主義は矛盾してると。どうするか」という話だったのです。日本の根幹をなす皇室制度、そして民主主義、この二つが矛盾していたらどうする。どっちかを捨てろといいたのでしょうか。

 昭和天皇は民主主義に矛盾など決して感じておられなかった。ぼくは固くそう信じています。
 その理由は、終戦の翌年に発せられた昭和21年(1946)の年頭1月1日の【新日本建設に関する詔書】と名付けられた詔(みことのり)にあります。このことについては、この<葉巻のけむり>の「五箇条の御誓文について」にすでに書いています。  「五箇条の御誓文について」
 この詔勅は、俗に「人間宣言」などと呼ばれますが、これは左翼学者の勝手な命名に過ぎません。
 この詔勅の冒頭には、「五箇条の御誓文」が全文引用されています。昭和天皇がおっしゃりたかったのは、民主主義は「五箇条の御誓文」に示されている通りで、それはアメリカからもらったものではない。もっと元気を出そう。それがこの詔の趣旨だったのです。

 このことは、その後30年以上もたった昭和52年の昭和天皇の記者会見(昭和52年8月)の発言で知ることができます。一部引用しましょう。
 記者 ただそのご詔勅の一番冒頭に明治天皇の「五箇条の御誓文」というのがございますけれども、これはやはり何か、陛下のご希望もあるやに聞いておりますが………
昭和天皇陛下  そのことについてはですね、それが実はあの時の詔勅の一番の目的なんです。神格とかそういうことは二の問題であった。
それを述べるということは、あの当時においては、どうしても米国その他諸外国の勢力が強いので、それに日本の国民が圧倒されるという心配が強かったから。

五箇条の御誓文

民主主義を採用したのは、明治大帝の思召しである。しかも神に誓われた。
そうして、五箇条の御誓文を発して、それがもととなって明治憲法ができたんで、民主主義というものは決して輸入のものではないということを示す必要が大いにあったと思います。
それで、特に初めの案では、五箇条の御誓文は日本人としては誰でも知っていると思っていることですから、あんなに詳しく書く必要はないと思っていたのですが。
幣原が、これをマッカーサー司令官に示したら、こういう立派なことをなさったのは感心すべきものであると非常に賞讃されて、そういうことなら全文を発表してほしい、というマッカーサー司令官の強い希望があったので、全文を掲げて、国民及び外国に示すことにしたのであります。

 いかがでしょうか。田原総一郎はこんなことも知らないのか。それでジャーナリスト面ができるのか。もう早く消えさられた方がいい。
 ともかく、昭和天皇陛下の発言の主旨はまとめると次のようなことでした。
【民主主義を採用したのは明治大帝の思召しである。しかも神に誓われた。そうして五箇条御誓文を発して、それが基となって明治憲法ができたんで、民主主義というものは決して輸入物ではないということを示す必要が大いにあったと思います。】
 人間宣言などという変な名前をつけられた「新日本建設に関する詔書」の本意は、そういうことだったのです。

 あのYouTubeの動画を見たら、なんだかムカムカしてきて、とても寝つきが悪かったのです。やはり、こういう人はみんなして呪い殺さないといけない。そんな気がしてしまうのです。