縄文あれこれ 三内丸山遺跡


昨今、縄文が大人気のようで、そのせいでも無いのですが、ぼくもこんな駄文を書き連ねています。
ところで、皆さんは、日本中に縄文遺跡があることはよくご存知だと思います。全部でいくつ発見されているとお思いですか?
百?千?万?10万?
2013年3月の文化庁の発表によると、その数は46万5021なんです。
もちろんこの数は、旧石器時代からのすべての墳墓・横穴なども含めていて、純然たる縄文遺跡は9万531カ所なんですが、それでもすごい数です。47都道府県ですから、各県に2000近い遺跡があることになります。次のリンクでみてください。縄文遺跡一覧


三内丸山遺跡から出土した。高さ13センチ。針葉樹の樹皮を使って編まれている。



ぼくたちは縄文時代については、学校で習って知ることは知っていました。しかしそれが、大きく取り上げられたり、認識されるようになったのは、三内丸山遺跡の発掘によって、その全貌が明らかとなったことによると思います。そこは500人以上の縄文人が定住し、5500年前から1500年間も暮らした40ヘクタールに及ぶ大集落であったことが分かったのです。
縄文の人たちは、狩猟・採集を行う原始的日本人の祖先と考えるのが昔の定説だったのです。そして、大陸から稲の栽培技術を持った渡来人がやってきて、日本は進んだと考える人が多かった。ところがそれが誤りであることを認めざるをえなくなりました。稲・アワなどの栽培、栗やドンクリの栽培などが明らかになったのです。

6本の栗の巨木は、4.2mの等間隔に立てられている。



その場所は、本州の北端で、青森県の沖館川右岸の河岸段丘上にあります。
ここに遺跡が存在することは、すでに江戸時代に知られていました。ところが、県がここに県営野球場を建設する計画を立て、1992年文化財保護法に従って試掘を行ったのです。
ところが、たちまちその遺跡の驚くべき内容が明らかになり、野球場建設は中止されることになりました。2年間発掘が続く中で、6本の巨大円柱が見つかりました。
径1メートル近い栗の巨木が等間隔に6本立てられていたと考えられました。いったい何だったのか。祭式用の建物だったのか、見張り台だったのか。連日見物人が訪れ、県は野球場をやめ遺跡の保存を決めました。

長野県神神子柴遺跡。長いのは25センチあります。
前16000〜前11000年



それにしても、こんな太い樹をどうやって倒したのでしょうか。推定されるのは、炎で焦がし、写真のような石器で周りを気長に削っていったのでしょう。柱の切り口には焦げ跡がありました。
この根気のいる作業を想像してみてください。お昼には、奥さんが食事を運んだのでしょう。炭化した部分を削るのには石のナイフが使われました。
栗の大木の根元に座ったあなたは、この石ナイフを握って、長いのなら両手が使えますね。さてどう削りますか。押しますか?引きますか?
ぼくなら、引きます。
ぼくは昔から不思議だったのです。ノコギリを使うとき、西洋では押すのに、日本ではどうして引くんだろうって。理由は縄文人にあったのです。このときのやり方が後に伝わったのだ。そうに違いない。そう思えたのです。
それにしても、この1500年この集落が続いた。驚きませんか。一番長い平安時代だって390年ほど、京都が1000年の都と言ったって、1500年には及ばない。
1500年もの間、戦いもなく平和で豊かな暮らしが続いた。こんな例は世界には絶無と言っていいと思います。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です