新しい年を迎えて(その1)


 年が明けました。
 なにいうとるんや、年明けからもうもう二週間近くも経っとる。そんな声が聞こえてきそうです。世の中やけにスピードが重視されるようになってきました。ものすごいスピードでニュースが飛び交い、すぐに古くなって忘れられて行きます。
 ぼくのような昭和二桁のとっかかりの男には、このめまぐるしさはなんかしんどい。

 学生の頃、ぼくたち同期は、先輩から、「お前たち昭和二桁はやっぱりだめじゃ」と、よく言われたものです。ぼくは、「二桁いうても、境目で一桁みたいなもんです」と言い返していました。
 「軍事教練受けとらん奴はあかん」という人もいました。確かにぼくは軍事教練を受けた記憶はないし、ビンタをくらった覚えもありません。
 大東亜戦争が終わったのは、たしか尋常小学校4年の時だったと思います。生まれたのは、2.26事件の年で、ここから日本はまっしぐらに戦争に突き進んでいきました。そしてそれから82年が経っているわけです。

 昭和二桁はだめと言っている先輩は、昭和一桁の人で、そんなに大したことはないという感じでした。比べて、ぼくの父親は明治生まれでしたが、確かに明治生まれの人は違いました。気骨があったし、根性が違ったように思います。昭和の終わり頃には、よく「やっぱり明治生まれは違うなあ」という会話をしたことがありました。
 今年は御世替わりで、新しい御世になります。ぼくは三代を生きたことになる。しかし、明治生まれの人のように、「昭和生まれやし」と褒められることはないような気がします。もしかして、平成生まれよりましと言われるかもしれませんが・・・。

 今更ながら思うのですが、長く生きて世の中大きく変わった。つくづくそう思います。
 小学校の高学年から、ぼくは戦後教育を受けたことになります。年をとると物忘れがひどくなるとされますが、不思議に昔のことは鮮明に浮かび上がってきたりします。そんなわけで、ちょっと終戦直後のことを書きましょう。
 たしか6年生になったばかりの頃、父親がぼくに二冊の本を与えました。一つは『西郷南洲』でもう一冊は『坂本龍馬』でした。小さい頃から本の虫だったぼくは、すぐに読んでしまったと思うのですが、どちらも偉い人だなと思ったくらいだったように思います。
 これと相前後して、母親も二冊の本をくれました。それは『啄木詩集』で、これは繰り返し読んで、多くを暗唱できるようになりました。別の一冊は、『少年少女文学全集』という大判の大冊の古本でした。その中の「十五少年漂流記」と巌谷小波「黄金丸」は熱中して読みました。

 その頃、クラスは違うのですが、よく話をする女子生徒がいて、教室の机に座って、延々夕刻まで話し込むことがありました。彼女は、たしか金山さんという名前だったと思います。その名前からして多分在日の娘でした。ものすごい読書家で、いつも小説の主人公の恋物語のあらすじを語ります。そして、その経緯についてあれこれと議論するのが常でした。多分本の虫のぼくと話が合ったのでしょう。

 ぼくは、育った田舎の蔵の二階にある叔父・叔母が残した本を読んでいました。『少年倶楽部』だったり『家の光』や『婦人倶楽部』などの雑誌やその付録で『お産全集』なんてものもありました。さらに、中学生になってからは、ヴァン・デ・ヴェルデ『完全なる結婚』を読破していたぼくは、こと女性に関して、級友のどんな疑問にも答えられる先生でした。
 しかし、ぼくが小学生で読んだ小説といえば、『坊ちゃん』や『我輩は猫である』くらいのもので、恋物語らしきものといえば、雑誌の付録の常盤御前、袈裟御前、静御前くらいのものでした。
 だから彼女が熱く語るネフリュードフとカチューシャの物語、あるいはシラノ・ド・ベルジュラックの物語はえらく新鮮で、ただ聞き惚れていたようです。
 まあ、二人ともひどくませた小学生ではあったようです。

 年頭の所感みたいなことを書くつもりで始めたのに、小学校から戦後教育を受けた世代だったというところから、話が逸れてしまったようです。 
 ぼく自身としては、自分がいわゆる戦後教育を受けたなどという自覚は全くありませんでした。そういうことを認識し、理解したのは、50代半ばで高校教師をやめ、時間に余裕ができて、日本のことを主にネットで調べるようになってからだと思います。
 日本の神話などは、学校では全く教わりませんでした。
 ある外国の学者が「子供に神話を教えない国は100年後に消える」と言ったそうです。そうすると、日本が潰れるまでは、もう30年を切っています。

 「神様があまのきざはしにお立ちになって、あめのぬぼこで海をかき混ぜ、引き上げると、ポタポタと雫が滴り落ちて、日本の島ができたんやそうや」と、幼いぼくに語り聞かせたのは母親でした。
 父親は中学生のぼくに「皇太子殿下の学習院の成績は中の下くらいらしい」と結構とんでもない話をしました。
 両親ともに教師でしたが、当時の教育の現場は、戦後の反動期というべき状態で、赤化思想が大きな力を持っていたと思われます。
 母親は父親とは違っていて、「このあいだの天皇行幸の時、天皇陛下の姿を見たんよ。そしたら、急に涙が出てきて止まらんかった。なんでかわからんけど、ほんまに不思議やった」と、ぼくに語りました。

 たしか小学校6年の夏、ぼくは夏休みで、ぼくが学齢期まで育った田舎の祖父母の家に帰っていました。ある日の昼下がり、一人の学生がぼくの祖父を訪ねてやってきました。
 定期的に村にやってくる富山の薬売りさんとか行商の人が家に泊まることは昔からよくあったので、それは別に不思議なことではありませんでした。

 その学生風の人は、「ところで、本当は高田家の本家は、ここなんでしょう」という話を切り出しました。この大河内という村は、湊川の合戦で敗れた落人部落で、楠木正行の流れと称する高田家には本家争いみたいなことがあったので、その人はそれを話のとっつきにしようとしたと思われます。
 すると、祖父は、けっこう激しい口調で「そんなもん、どっちが本家かてどうでもええんじゃ」と言ったので、その人は後の話が続かず、早々に立ち去って行きました。
 だいぶ後になって、それが日本共産党の農村工作隊であったことを知りました。

 戦争前に、ソ連共産党が世界に共産主義を拡散しようとして作った国際組織コミンテルンの日本支部として作られた日本共産党は、戦後を好機と見て、日本赤化のため農村工作隊と呼ばれる工作員を農村に派遣し、共産思想の普及を図ろうとしました。
 その当時、マルクス主義は優れた思想とされ、いずれ世界は共産主義・社会主義に依って立つ国で占められることになる。そう考える人が少なくなかったのです。
 60年安保のあの激しい国民挙げての運動は、日本を資本主義国にしてはならないという人達が起こしたものだったと思います。

 学生時代を通じて、当時の学生たちの常識では、自衛隊は胡散臭い存在だったし、警察は権力の手先でした。
 しかしぼくは、学生時代から富山県警察の山岳救助隊の人達とは馴染みだったし、卒業してからは県警救助隊のコーチも務めていましたから、警察に対する考えは普通の人とは違っていました。
 小学校時代から群れることが大嫌いだったぼくは、だからデモに参加したことはありませんでした。
(つづく)

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