新しい年を迎えて(その3)

 大学に入って、ぼくが毎日のように通ったのは図書館でした。そこには高校の図書館とは比較にならないくらいの本がありました。そこにある山関係の本を片っぱしから読んで行きました。
 中には図書カードはあるけれど、本がないものがありました。尋ねると、山岳部の顧問の教授の部屋にあるということでした。かなり勢い込んで、その教授の部屋に向かいました。
 高校の教員室に入るようなつもりで、ドアを開けると、大きな机に座っているかなり年配の先生は、「君、部屋に入るときはノックするもんだよ」とぼくを叱りました。
 教授は、「山が好きなのかね」と尋ね、「山岳部に入りなさいよ」と言われたのですが、「いや、ぼくは集団に縛られるのは好きじゃありません」と答えたのです。ぼくは間違いなく、礼儀知らずの生意気な学生だったようです。

 どうしてその本を買ったのかは覚えていないのですが、ぼくが熟読した本がありました。それは、コリン・ウィルソンという人の書いた『アウトサイダー』という本でした。
 その内容については、ここでは述べませんが、大学も出ていない彼が、昼は大英図書館に通い、夜は公園のベンチで野宿するという生活の中で、24歳で書いた処女作が、この『アウトサイダー』でした。様々な文化人・文学者などに対する鋭い評論に強く惹かれたのです。
 この本に取り上げられている内容にしたがって、関連した本を次々と読んで行くことになり、それはぼくの読書の手引き書ともなりました。

 というわけで、サルトル、カミユ、ボーボワール、T.E.ロレンスなどと順番に、というよりかなり並行して読み進めていったのです。カミユ『異邦人』は、特に強い印象はなかったと思います。でもボーボワール『第二の性』からはかなりの影響を受けたと思います。フロイドが取り上げられていたかどうか定かではないのですが、精神分析には高校の頃から興味があり、『夢判断』などは高校の頃に読んでいました。
 もっとも熱中したのは、T.E.ロレンスでした。いわゆる「アラビアのロレンス」です。彼の著作『知恵の7柱』なども読破しました。
 その当時の流行りの思想は、サルトルの実存主義であり、マルクス主義だったと思います。『アウトサイダー』は、この実存主義への批判書ともいえ、ぼくにとってはそこが魅力的だったのかもしれません。
 
 その頃、マルクスの『資本論』は必読の書などと言われていましたが、本屋でちょっと立ち読みしただけで、興味は持てませんでした。
 文学にしたところで、ぼくは西洋の長編は性に合わないと思っていました。冒頭の見開きに登場人物の相関図が載っているような長編は苦手でした。やはり日本の作家、例えば菊池寛や芥川の短編などの方がしっくりきました。
 このごろテレビのサスペンスものなどで、登場人物が多くなると、どうも筋についていけなくなって、年のせいでボケてきたのかなと思ったりもするのですが、考えてみれば、そんな傾向は若い頃からあったんだと納得しているところです。
 こうした読書への没入も、山岳部に入って、山登りに熱中するにつれ、段々冷めていったようでした。

 実存主義が世界を風靡したのは、第二次大戦後のすさんだ人間不信の状況のせいだったと思われます。この流れは映画にも現れ、「勝手にしあがれ」や「俺たちに明日はない」などの映画が生まれ、それは「ヌーベル・バーグ」などと呼ばれました。そうした中で、『西欧の没落』(シュベングラー)が言われる状況を経て、「実存主義」に代わって現れたのが「構造主義」でした。
 これは、人類学者のレビ・ストロースが唱えたものです。彼は、フィールド・ワークによる著作『悲しき熱帯』を著しました。ヨーロッパの文明が優れているわけではなく、それぞれの民族の文化はそれなりに同等の価値を持つという考え方です。もともと有色人種に対して基本的に差別意識を持っていた西欧の白人が、いずれその優位性を認識できなくなることを見越して、早めに自分から同等性を唱えることで、少々のプライドを保とうとしたものである。ぼくは勝手にそう考えていました。
 
 「構造主義」が日本に伝わると、それはいわゆる「文化人類学」という形をとりました。どんな人間にも等しい価値があるわけで、その全ての行動や生き様を記録するというフィールド・ワークが重視されました。それは素人にもできる学問とされ、京大の梅棹忠夫教授によって、広められました。
 ぼくもこれには大いにはまり、『季刊人類学』は創刊号から購読していました。1969年の二度目の海外遠征は、だから「辺地教育調査隊」と名乗りました。もちろん山登りが主ではありましたが、スワット・ヒマラヤの遊牧民へのフィールド・ワークもその目的の一つにしていたのです。
 出発前に、梅棹先生にも会いに行き、アドバイスをいただきました。遊牧民の夏村に滞在して、歌の収集、家族構成、財産(保有羊数)などの調査を行いました。その時に収集した言語は、ゴジリー語と呼ばれる報告されたことのない言語であると、後に知りましたが、この時の調査結果はどこにも発表しませんでした。ぼくの悪い癖で、やり終えたところで興味が失せるのです。

 「実存主義」を批判して生まれたのが「構造主義」だったのですが、これも批判を受けるようになり、思想・理論の主張は四部五裂していったようです。その状況は「ポスト構造主義」あるいは「ポストモダン」と呼ばれました。
 「構造主義」自体が、全ての価値観を肯定するわけですから、これも真実、いやそうではない真実もあるとなるわけです。みんな勝手なことを言い合うということになりました。
 こうした中で、決定打ともいえる事件が起こります。ソーカル事件と呼ばれます。アラン・ソーカルというニューヨーク大学の物理学教授が、難解な数式などをちりばめた論文をコピペーのみで作成して、学術誌に発表するという悪戯をやったのです。彼の意図はこのデタラメの疑似論文を変に衒学さをひけらかすだけの特にフランスのポストモダン派の学者に見破れるなら見破ってみろと試そうとしたのです。面白い事件でした。興味ある方はネットで調べてください。

 フランス革命という極めて残忍なテロ事件によって、自由・平等・博愛が近代のスローガンとなって世界は動いてきたのですが、そんな綺麗事ではすまない事態が進んできました。「構造主義」が言われるまでは、まあ世界は、ある互いに同意できる共通認識を保ち得たようです。しかしこの辺りから少し変になり、ポストモダンでくちゃくちゃになりました。
 おまけに、全ての主義・主張には科学的な裏付けがあり、かつ論理的だったから、とても議論によって一致を図るなんてことはできないことになったわけです。ソ連の崩壊と冷戦の終結はこの傾向はさらに強めることになったのかもしれません。
(つづく)

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