新しい年を迎えて(その2)

 大学を終えて、化学を教えることになったぼくが赴任したのは、京都の桂離宮の近くにある桂高校でした。
 共産党や社会党の支援を受けていた蜷川知事の京都府は日本で有名ないわゆる民主教育の中心でした。社会党、共産党の違いはあれ、日教組傘下の京都府教職員組合は極めて強い存在でした。
 多くの活動家教員の影響を極力少なくするため、京都府教育委員会は、活動家の教員を一箇所に集めるという方法をとりました。その高校が桂高校でした。そうしたことを知ったのはずっと後のことです。

 確かにぼくが座った化学準備室の机の隣の先生は、共産党の党員で知られた人でした。教職員組合の組織はそれなりに強固だったようですが、さしてそんなに強い政治色を感じることはありませんでした。
 というより、そうしたことに関心のなかったぼくは、「若いくせに覇気がない」と苦情を言われながら、マルクス系の生物学説の勉強会などでの話は、けっこう新鮮だったし、それなりに知識欲を満たすものでした。いろんな誘いは、「ぼくの興味は全て山登りだけ」という態度で防いでいたと言えます。
 しかし、後になって考えると、かなり多くの部分は、共産主義的なプロパガンダに類するものだったと言えます。
 とはいえ、ぼくの度重なる遠征登山を助けてくれたのは、この高校の先生方だったことは事実であるし、感謝しないといけないと思っています。

 60年代の日本は高度成長の始まりの時期にあり、会社は中小企業までもがみんな研究室を作り、研究職を望んでいました。卒業のだいぶ前から、企業の人が大学を訪れ、ご馳走などしてくれて、お小遣いをくれて我が社へ是非になどということも珍しくなかったのです。
 そんな中、当然給料も安い理科教員は成り手がありませんでした。そこで、理科教員優遇法という法律が作られました。そういう状況の中で、教職実習の指導教官だった先生が、教育委員会の人事課への転出の後釜として特別指名で赴任したぼくは、多分少々態度が大きかったし生意気だったかもしれません。

 その頃、多分上からの指令に基づいていたと思われますが、各学校に組合主導で職員会議規定を制定するということが行われました。
 職員会議で、草案が示され議決によって決定されます。その草案の第1条は、職員会議は学校の最高議決機関である、となっていました。そこでぼくは質問したのです。
 「最高議決機関であるならば、教員の人事も職員会議で決めることになるんですか?」。一瞬全員が固まった感じで、沈黙が訪れました。
 結局、第1条の最後に、「ただし、校長の人事権は侵さない」という文言が入りました。
 総じて、あの頃は日本全体が左に寄っていたというか、今から言えばかなり左寄りという考えはごく当たり前であり、常識とされていたようです。

 赴任して2年生を担任したぼくは、そのまま持ち上がり、3年生を担任することになりました。
 ぼくの進学指導は、浪人はするな、現役で入れる大学を受けて、4年間頑張って、行きたい大学の大学院を目指せというものでした。こんなことを言っても、今とは状況が違いますから、なんのことか分からないかもしれませんが・・・。
 結果はといえば、ぼくのクラスからは、現役で5人が京大に合格しました。学年全部で8人でしたから、他の教師は驚き、「ほったらかしにしているのになんでや」と不思議がったものです。ぼく自身不思議だったのですが、「ほったらかしたから良かったのでしょう」と答えていたのです。

 それから3・4年経った頃、同窓会が開かれ、大学生たちが集まりました。宴会が終わり、主だった5・6人が二次会に流れました。そして朝方まで、京漬物をつまみに、飲みながら議論を戦わせていました。
 場所は半世紀経った今でも覚えていて、どんぐり橋の先の蛸長という店の向かいの畳敷の飲み屋なのですが、名前は覚えていません。
 そこでの議論というのは、キンケイとマルケイのいずれが正しいかというものでした。キンケイというのは、いわゆるケインズ経済学で、マルケイはマルクス経済学です。そのいずれが正しく、日本の経済はどうあるべきか、という議論でした。彼らは飽きもせず、熱い議論を延々続け、ぼくはその口説を、黙って聞いていました。それは今では決して見られない光景だったと思います。

 長く続いた蜷川府政が自民党の知事に変わり、教育現場にも変化が訪れました。回り持ちだった職員会議の議長は、常に校長が努めるようになりました。
 そして、件の「職員会議規定」の廃棄が議題となりました。そして、各高校では次々とその廃棄が決まって行きました。
 結局、桂高校の職員会議規定の廃止が決まったのは、ぼくが次の高校に転出した後だったようですが、ともかく一番最後になったと聞きました。多分あの但し書きがあるために、廃止の理由が見つけづらかったのではないかと思いました。

 もう一つ思い出すのは、「国旗掲揚問題」です。それまでは国旗掲揚は行われていませんでした。国旗掲揚をすることという指令が来たのです。
 どの学校でもこの問題は大揉めに揉め、会議は夜半を回り、それでも結論が出ないということでした。
 この時に、ぼくはこんなことを発言しました。
 「昔、若い頃、山登りでパキスタンに行きました。そこで、カラチの大使館に向かうと、高く翻る日の丸が見えます。目に鮮やかな日の丸は感動的でした。あんな素敵なものをあげない理由がわかりません。だから提案します。日の丸と一緒に京都教職員組合の旗も掲げたらいいのではないでしょうか」 
 一同は鼻白んだ感じになり、早々に会議は終結することになったのでした。
(つづく)

新しい年を迎えて(その2)」への1件のフィードバック

  1. こんばんは

    日の丸と同時に日教組の旗ですか!
    高田様の発想、すごく面白いです。
    それには相手もぐうの音も出なかったでしょうね。
    毒を以て毒を制す・・・いったいどう表現したらいいかわかりませんが、とにかく素晴らしい。
    さて、国旗掲揚問題はその後どうなったのでしょうか。
    続きを楽しみにしています。

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