カラコルム・ハイウェイ(一帯一路の道)の旅(1)〜


 令和元年大晦日の夜、ぼくはパキスタンの奥地フンザにいました。
 フンザというのは、カラコルムの深奥部カラコルム山地に、インダス川の支流・フンザ川が切り込んだ源流部にある標高2500mの村です。
 さらに上流に遡るとすぐに、中国との国境のクンジェラーブ峠(4700m)に至ります。
 フンザは日本では、あの『風の谷のナウシカ』のモデルになったところとして知られていますが、それよりもっと昔から欧米ではシャングリラ(桃源郷)として夏には世界から観光客が集まります。

 フンザ最高のホテル、バンガロー風のフンザ・セレナホテルには、真冬ともなると我々日本人以外の客はほとんどいません。
 周りの7000m級の雪の峰や背後に聳える岩峰に夕闇が迫る頃、中庭には私たちのためにニューイヤー・パーティの場が設えられていました。
 屋根付きの屋台には、二人の白服のコックが立ち、前には仔羊の丸焼きが用意されています。暗闇の中に大きな篝火が赤々と燃え、周りに立つぼくたちの顔を赤く照らし出しています。
 
 ぼくたち7人の日本人とガイドのアミン、それにホテルのスタッフの全員を前に、ぼくは英語でスピーチをし、「いやさか!!」の発声で乾杯をしました。
 お酒は持ち来ったワインです。パキスタンは回教國なので、税関でお酒が見つかると没収されます。それもあって、メタルボトルのワインとは見えないものにしました。それと、ここフンザには、「フンザ・バニー(フンザの水)」と呼ばれる蒸留酒があります。
 フンザの人たちは回教徒ではあっても、スンニ派でもシーア派でもない、イスマイリー派とされる人たちです。ここでは昔からブドウが実り、ワインを醸していましたし、桑の実を絞った糖液を発酵させたものを蒸留した強いお酒を飲んでいました。
 この透明な、日本の焼酎のようなお酒をフンザ・パニーと呼ぶわけです。

 イスマイリー派は、大変開明的な宗派で、決まった時間にお祈りを強制されていませんし、女性はブルカを用いず顔をだしています。もちろんモスクはありますが、あのドーム型のものではなく、ごく普通の平屋の体育館様の建物です。
 かつては、どんなモスクも日本のお寺の様に自由に出入りできました。暑い夏の日などモスクの礼拝堂の冷たい石の床に横になっていても咎める者はいませんでした。
 ところが、フンザのモスクだけは、異教徒の立ち入りは駄目で、これには少し違和感を持ったものでした。いまでは、異教徒を立ち入らせないモスクが増えた様です。
 回教圏が大きく変わったのは、あのホメイニ革命からではなかったかという気がしています。それはまた原理主義の台頭でもあったわけです。
 イスマイリー派のイマーム(頭目)のアガ・カーンは、病院や大学や研究所などをたくさん立てており、大金持ちでパリに暮らしているという話です。

 ワインはすぐになくなり、フンザ・パニーに移りました。今は密造酒となったこのフンザ・パニーはガイドのアミンが調達してくれたものでした。
 その頃には、お酒など飲んでいないホテルの人たちが、大音響で流れるナガール・ガーナ(ナガールの歌)に合わせて全員踊りだし、私たちもそれに加わりました。彼らはぼく達のために踊ってくれているのだそうです。お酒を飲んだわけでもないのに、いつも踊り出すをぼくは知っていました。
 軽く足を踏みしめ両手をかざす、ちょうど阿波踊りの様な仕草です。

 篝火の火勢が衰え、踊り疲れた人たちが去ると、私たちのグループだけになりました。薪を足すように言うとアミンが運んできたのは、若木の桜の薪でした。なるほどそれで火持ちがいいのだと納得しました。
 指折り数えてみると、今度のフンザは、ぼくにとって8回目なのです。ちょっとびっくりしました。パキスタンを訪れた回数は数十回になるでしょう。
 一昨年の暮れ、女医のモナちゃんが、鉄板焼き屋で、突然、「センセ、パキスタンに連れてって」と言いだしたのです。それで、ラトック初登頂40周年と言うこともあって、このツアーが出来上がったのです。フンザは8年ぶりの訪問でした。
 それにしても、たしかにパキスタンは大きく変わった。でも、そこに住む人達はさほど変わっていないのではないだろうか。

 そんなことを考えている時、宴の最後のスピーチの番が回ってきました。もう日本人だけだし、アミンは日本語が達者なので、日本語でしゃべれます。
 「あけましておめでとう。もう年が明けて、パキスタンに初めてきた時からちょうど55年が経ったことになります」とぼくは語り始め、主立ったパキスタン遠征の思い出を語りました。
 そして、危険極まりない道をここまで運んでくれたドライバーとガイドのアミンに感謝の言葉を述べて、スピーチを終えました。
 その時、そばにいたアミンが突如立ち上がり、ぼくの肩を掴んで、涙を流したのです。肩に顔を押し付けているアミンの背中をぼくも抱いたまま、そのままぼくは立っていました。

 それにしても、アミンはなぜ涙を流したのだろう。この疑問を、帰りの道中も折に触れて考えていました。そしてやはり、あの時、ぼくもなぜか、もらい泣きしそうになりながら考えていたことに間違いなかったと思い至ったのでした。(つづく)

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