録画してあった映画『蜂蜜』を観た。
賞を取った映画という以外には全く予備知識がなかった。
このトルコ映画は森のシーンから始まる。
どこか遠くの谷川の水音が聞こえて来る。鳥のさえずりが聞こえる。ピーという鹿の鳴き声も聞こえる。
木々にたゆたう木洩れ日のゆらめき。幽玄な森の中に遠くからロバの蹄の音がちかづいてくるようだ。
こうした自然の音の世界からこの映画は始まる。この悠然とした情景に引き込まれてしまった。
最後まで、バックグラウンドの音楽といったものはない。会話の声はあるものの、足音、風の音、ミルクを飲む音、蠅の羽音など自然の音だけの世界である。すべては自然であり作為も誇張もない。
台詞は極度の制限されており、カメラの動きも全くない。
幼いユスフ少年の姿に、満1歳から山奥の一軒家で祖父母に育てられたぼく自身の記憶が限りなく脳裏に浮かんでは消え、消えては映像は重なった。
ぼくは、丹波の片田舎の山里で育った。その天保年間に建ったという茅葺き屋根の家は、谷あいの村で一番高いところの山中にあり、庭先には鹿がやってきたし、柿の木には、犬に追われた狸が逃げ登った。
そこらのまわりはすべて鬱蒼とした森だった。
霧に煙る森の遠景は昔の山登りの記憶にある情景、続く地道、それらは全て遠い記憶を呼び起こすものだった。
ありのままに映し出されるカメラアイの自然の情景に引き込まれるように見入りながら、それにしても何を描きたいのだろうと考えているうちに映画は終わった。
父の死を知ったユスフが一人森に駆け込み、昼も暗い森の巨木の根っこに座り込んで、頭を幹にもたせかけて目を閉じるラストシーンは心に食い込んだ。
他には絶対にない作品だと思った。
そして、商業主義漬けのハリウッド映画に毒されきった自分に思い至った。