ロンドン・オリンピックの柔道の試合で、海老沼選手の判定がジュリーの判断で覆り、前代未聞と騒がれている。
少々因縁話めくのだが、一昔前の2000年のシドニー五輪の優勝戦での出来事で、世紀の大誤審といわれた事件があった。篠原選手が相手のドゥイエ選手が仕掛けた内股を内股すかしの返し技で投げドゥイエを仰向けに倒したが、ドゥイエが篠原の帯をつかんでいたため、少し遅れて篠原も横様に倒れる。一人の副審はこれを篠原の一本としたが、返し技の理解を欠く主審と副審の二人は、逆にドゥイエの有効と判定した。このため、篠原は金を逃すことになった。(これに関する記事はインターネットいまもインターネット上にあり、この時の動画はYoutubeで見ることができる)
このとき、山下泰裕選手団監督は、審判委員から審判団の再協議を申し出られたにもかかわらず、フランス語の分からない山下はそれに気づかず試合の継続を許してしまった。結局、試合時間が過ぎてドゥイエの優勢勝ちとなった。試合後、山下泰裕選手団監督及び日本選手一同が猛抗議したが、判定は覆らなかったのだという。国際規定で試合終了後の判定の変更は無いという条項があるからである。日本の選手団はフランス語の通訳かフランス語の分かる日本人を同席させておかなかったのは、不用意としか言いようが無いとぼくは思うのだが。
後でいくら抗議しても文字通り後の祭りなのである。
この時は誤審であったことを、国際柔道連盟も認め、審判委員団へのビデオの導入がこのことがきっかけで、後に実現することになったと思われる。あの時、すぐに再協議を申し込んで返し技を説明すれば、判定は覆ったと思われる。
今回の試合では、途中で海老沼選手の有効が宣告され、すぐ取り消しになった。しかしこれがきわめて有効に近いものであったが故に、旗判定に対して、ジュリーは再考を指示し、そして判定が覆ったと思われる。
そもそもジュリー(Jury)とは、陪審、陪審員団を意味する言葉であって、転じて審査員団という意味もある言葉である。
陪審は、裁判で事実認定に関わり、有罪無罪を判定する機能を有する。法廷での審理の後、陪審が有罪と判定した後、裁判官ははじめて法の適用を考える。そういう文脈からいえば、ジュリーは原義的に、ある意味において高位な位置にあると考えるのが常識ではなかろうか。
ところが、陪審制度を持たないこの国の人は、出来立ての陪審員制度のうすら理解が先に立ち、やたらカッカして、前代未聞だとか審判の判定をくつがえしていいのかなどと、スポーツ記者が書き、ひとかどの柔道家でオリンピック委員を務めるようなお偉方が、国際柔道連盟に抗議しろとなどと言い出す始末。
サッカー・ラグビーなどでは、審判は絶対である。審判の見えないところのファールは無かったことになる。ファールをあえて犯すのもテクニックの一つである。サッカーにも、ビデオ判定の必要が叫ばれたことがあったらしいが、沙汰やみとなったという。
しかし、サッカーなどと柔道はその競技の質が異なる。なにより柔道は日本の国技なのであり、フェアー・プレーを旨とする日本精神を基調としたスポーツである。柔道関係者は、レスリングか柔道か分からなくなって来ている今の状況を改善するよう、さらに働きかけねばならない。また日本の国技としての精神性を説く必要があるし、その具体化の方策を考えるべきだと思う。
そういう意味では、今回のバルコス委員長の「この試合、一度は「有効」と判定された海老沼の技以外に大きな判断材料がなく、試合場に配置された3人のジュリーはいずれも「白(海老沼)の勝ちは疑う余地がない」という判断は正しいし、シドニーの過ちを繰り返さないという意思が感じられる。
また、彼がいう「(判定を覆したのは)柔道精神の問題」は、その言やよしであるとぼくには思える。