習近平は中国共産党の最高指導者として有名な人物であるが、詳しいことはあまり知られていない。
この2月9日にYouTubeにアップされた「桜チャンネル」の【討論!】間接侵略の実態で、出席者の一人である、月刊『中国』編集長・鳴霞氏が習近平について、あまり知られていない経歴を語っている。
この明霞氏だが、彼女は桜チャンネルの討論の常連の一人ではあるが、中国人であるにもかかわらず、中国や中国人への並外れた危険意識を常に吐露している。そういうことから、彼女自身については月刊誌の編集長であること以外はあまり情報がない。少ししつこくインターネットで探したら、次のような経歴が見つかった。
鳴霞(めいか)
1957年中国遼寧省瀋陽市(旧奉天市)生まれ。元中国共産党のエリート。
中学校で中国青年団のリーダー。高校卒業後、東北の農村に下放され1979年に瀋陽市科技日本語学院に入学。
1981年中国航天部瀋陽市軍工企業の戦闘機・ミサイル製造現場(旧満州航空機株式会社)の情報課日本語担当勤務。
1982年来日、京都日本語学校を卒業し、兵庫・大阪の中国語学校で講師を務める。
2002年から「月間中国」主幹として、日本マスコミが扱うことのない中国内部情報を精力的に発信し注目される。
2003年にはアメリカで開催された中国問題国際会議に招待され、女性問題・農民問題などについて報告。
2007年9月にはオーストラリアで開催された国際人権会議に招待される。同年12月には、スイス・ジュネーブでの第6回国連人権理事会に招待され、英語とフランス語で書かれた「日本人拉致被害問題」の冊子を携えて出席。元・近畿福祉大学中国語課講師。
2000年に「苦悩の中国」(文芸社)を出版。 現在、日本人に対し、中国の日本侵略について緊急警告を発信して精力的に活動中。
この経歴からは、彼女がどうして、そんなに反中国的なのか分からない。テレビによく登場する石平氏と同じ感じであるが、もっと過激だ。常に生々しい中国の内幕をリアルに独特の日本語で語る。
前置きが長くなったが、彼女が語る習近平についての語りを聞こう。
「いま、一時間目と二時間目の休みの間に、明霞さんに習近平ってどういう人物なのかを聞いたら、びっくりするような話もあったので、どういう風になってトップになったのかなどを、話してもらいましょう」という司会の水島氏のリードで明霞さんが、独特の語り口で語り始めた。
習近平は、1985年に福建省の書記になったの。なる前に、習金平、例えば、中国文化大革命の時に、今年、59歳、60歳やからね、毛沢東の文化大革命の10年間の間で、中国全国の学校、小学校、中学、大学、めちゃくちゃ壊れました。その時の北京大学とか、精華大学とか、上海大学、いろいろな大学のレベルは、日本の中学生とか、高校生までのレベルです。だからその時は、誰でも精華大学に入る事ができました。
習近平のお父さんは毛沢東時代に捕まって、反共産党の罪名で刑務所に入れられたのよ。ちょうど、習近平は、小学校5、6年生頃で、その少年はものすごく勇気がありました。北京の公安局に行って、「私のお父さんのどこが悪いんですか」と言いました。そこで、北京警察は、「お前、何を言うんだ」と、すぐ捕まえて、その少年は刑務所に入れられたの。
普通、「自分のお父さんのどこが悪い」なんて言う、そんな子供はいない。習近平だけです。勇気がありました。
そうです、水島さん。立派なもんですよ。それで警察で少年は刑務所に入れられて、ご飯はお腹いっぱい食べられないから、お腹すいて逃げたのよ。逃げて家に帰った。それが、お母さんは「お前、なぜ逃げて帰った。戻らないと駄目ですよ」。まじめなお母さんは、共産党が恐ろしいから。そうしたら習近平は、「お母さん、私、お腹がすいたよ。ご飯ちょうだい」「ご飯ないですよ」もう一回刑務所に入れたら恐いから、習近平は、外へ逃げたの。
それで、周りの人が助けてあげて、それで、最後また警察に捕まって、15歳未満で、ちょどその時、文化大革命1969年。それで警察は、全国の青年、毛沢東時代の最後、全部紅衛兵、みんな田舎へ下放されたのよ。習近平は、喜んで、笑って笑って、田舎に下放されたら自由があります。刑務所の中で自由はないです。殴られるとかね。それで、山西省、自分の出身地に、中学を卒業しないのに下放されました。田舎に行きました。田舎は長かった。13年間くらいです。
それで、文化大革命の後、コウキする時に、お父さん名誉回復されました。1973年頃、名誉回復しました。その時に習近平は、「私、精華大学以外の大学は、どこも入りたくない。」それで、最後は田舎の人が、農民達が推薦して、精華大学に入りました。
中国精華大学、その時の中国教育部、国の部長が言いました。精華大学のレベルは、外国の中学生、高校生までのレベルです。
(水島:今は、北京大学、精華大学は有名な一流大学になってますけどね)
日本人のおかげで。日本で、精華大学で日本を研究する研究所を作りました。日本が1億5千万以上お金を出して。中国人ね、日本を研究するから、日本人がお金を出して作りました。
(水島:日本研究所をね。)
そして、あれから習近平は精華大学を卒業した後で、中国の人民解放軍の軍廟の司書になりました。司書になったら2〜3年くらいで鄧小平が司書と仲が悪くて、それで、習近平は、この状態で自分は上のランクに上がるのは難しいから、福建省に行きたいと。
それで、福建省の書記になって、1985年、福建省の書記になった(なってから)17年間の間で、沖縄に行ったり来たり、沖縄に対する工作をして、沖縄の中井知事と仲良くして、あと、沖縄と中国福建省の都市、姉妹都市を作りました。その時、中国の国が2億以上お金を出して、沖縄が6千万以上のお金を出して、研究所というか、事務室を作りました。今は、廃棄されましたけど。
だから、日本に対する無限攻略、無限侵略。昔からですよ。20何年前からですよ。沖縄に対するね。
(水島:これはすごい話ですね)
「必ず沖縄を取ります」習近平は言ったの。はい、そう言ったんです。
(水島:これ明霞さんの資料ですけど、17年間に4度も行ってるんですか)
少なくとも4度ね。
(水島:少なくとも4回ということで、思い入れとか、情報も知っている訳ですよね。そうですか。それともうひとつは、なるほど、習近平が情報関係のそれに長けていたと。つまり、工作とか、謀略宣伝工作とか、そういうものに、相当よかった訳ですね。そういうのが、担当だったという面もある。そうですか)
はい。沖縄に対するだけじゃなしに、習近平の時代、習近平はマカオで国際交流会議とか、台湾とか、日本とかね。その時に台湾の教授は、マカオ会議の講演会が終わってから、途中で休憩時間に、急いで事務員さんが来て、「一人偉い人が、大学教授の貴方と会いたがっています。いいですか」「いいですよ」
その台湾の大学教授は事務室で待っていて、その時、習近平が入ってきて、名刺を渡して「私はこの会社のものです。「白い羽」という名刺。その名刺を見たら、えー、このような名前は初めて見たな。その会社も初めてです、と。
名刺交換の後で習近平は、上手に沖縄の事とか、日本の事、台湾の現在、台湾の陳水扁応援派とか、それとも???とか、いろいろな事を調べたのよ。
それで、2年後に、習近平のことですね。この大学教授は、テレビを見て急に、「あれ、この人、白羽か、何か」
習近平が出てきたから、政治局の偉い人になっているから、びっくりしました。テレビで見てから、ビックリしました。あぁ、その時私は工作されたんだなぁと。偉いさんやなぁと言いました。
(水島:そういう人なんですね)
そういう人ですよ。
(水島:それはつまり、沖縄とか、尖閣に対する思い入れが相当強いって言うのは分かりますね)
20年前からですよ。その時から工作、沖縄に対する工作です。
と、明霞氏の述懐はここまでなのですが、この沖縄の工作に関して、別の出席者の一人が、驚くべきというか、今に続くともいえる納得出来る話を始めたので、これも載せることにしました。
坂東氏は語りました。
外国人参政権に関して活動している、ムラタハルキ先生。
前にお茶した時に、私、ビックリした話を聞いたのが、昭和46年の12月31日に、ムラタ先生がご自分で体験されたお話ですけども、沖縄の「オク」という地名のところが北の方にあるらしいんですけど、そちらの方に行ったら、山の中にテントがいっぱい張ってあって、訓練している青年達がいっぱい居たんだそうです。
「何やってるんだ」って聞いたら、その時は学生運動が盛り上がっていたものですから、「俺たちはここで革命の訓練をやっているんだ。解放軍の将校さんが来て教えてくれるから、みんなで訓練しているんだ」っていう話をしてられて。
それ聞いて、お茶吹き出しそうなくらいビックリして。それ、マジですかって。本当に俺は行ったから、見たから間違いないと。それで、行った時に、テント20だか、30だかいっぱいあったんだけど、その中の一番大きなテントの中に案内されたら、真中に、なんでか知らないけれど、解放軍の服を着た軍人さんが座っていて、その後ろに、毛沢東と林彪の写真があったって言ってました。
二つ掛かっていたんだけども、ムラタ先生はその時に、『正論』だったか『諸君』だったかを読んでいて、その時は、ちょうどその直前に林彪が失脚したと言う事が分かっていたんですね。
それで、話してみたら、「なんで貴方の後ろには毛沢東だけじゃなくて、林彪も掛かっているんですか」って言ったら、「それは私の同志だから。2人とも私たちと同じ同志だから、ここに二つ写真を並べて掲げているんだ」と言った時に、ムラタ先生が、「でも、テレビではまだやってないけれど、もう林彪は失脚してますよ」って言ったら、その将校がビックリしていたと。
その時に居た、通訳をしたのももちろん日本側の学生みたいなのがいたみたいなんですが、そういうような人たちが、すでに中国側から通訳を必要とするような解放軍の将校が来て、極左がすでにそこに行って、まだそのころは極左予備軍みたいな青年の皆さんですけど。
そういうような動きがあって、着々と準備をしていたんだと、今思うと、その時には、私は未知との遭遇の話を聞いているみたいに、へぇーなんて聞いていましたけども、ムラタ先生は本気で、「いや、本当なんだから」と、「これ、俺証言するから、皆に広めてくれ」と、言われてましたね。