前稿で歴史教科書について書いたことから、今の教科書はどうなっているのかと、気になり始めました。そこで、友人のイノウエ君にメールで依頼しました。
早速彼は、木曜の定例ミーティングに高校の日本史と世界史の教科書を持って来てくれました。
まず、日本史を開きました。
詳説・日本史というタイトルで、改訂版と書いてあり、石井進以下5人の著者名があります。5人とも東大の先生です。
最初の部分を少し読んで、なんか変だなと思いました。
【前期・中期の古墳】というあたりです。
<最大の規模を持つ古墳、大仙陵古墳(現、仁徳天皇陵)は、第2位の規模を持つ大阪府誉田御廟山古墳(現、応神天皇陵)などとともに5世紀のヤマト政権の盟主、すなわち大王の墓と考えられる。>
天皇陵がなんで大王の墓なんや。天皇陵は天皇の墓と違うのか。なんでヤマト政権なんや。大和政権と違うのか。それに、この(現、仁徳天皇陵)の「現」とは、どういう意味なのだろう。昔は違ったということなのか。大王の墓はいつから天皇陵になったのか。
そう思いながら読み進むと、天皇の代りにすべて大王が使われています。それもご丁寧に、そのすべてに、上に「おおきみ」下に(だいおう)とルビがふってあります。こんな記述もあります。
<8世紀の初めにできた歴史書である『古事記』『日本書記』のもとになった「帝紀」(大王の系譜)>
大王の系譜? それなに。少しむかついてくる感じです。
「帝紀」について、少し調べてみました。Wikipediaによれば、「歴代の天皇あるいは皇室の系譜類」とあります。ぼくのiPhoneに入れている「大辞林」では、「古事記」「日本書紀」編纂の際、「旧辞」とともに原資料となったと伝える書。天皇の系譜を主内容としたもの、となっています。
こんな常識みたいなことを、ねじ曲げてまで、大王と書くのは変だと思ったのです。どこかに天皇の代りに大王という記載があるのだろうか。しかし『古事記』『日本書紀』を始めとするあらゆる文献のどこにも大王という記述はないようです。
大王は東アジアでは、王の王という意味で、大和政権はそれより上という意味で、天王と呼んでいたようなのですが、随との国交であちらにより上位とも取れる皇帝がいることを知ると、字を変えて天皇としたらしいのです。当時の日本人は「日出ずる所の天子・・・」にみられるごとく、えらく誇り高かったようです。
この教科書を書いた5人の著者は、よほど天皇という名前を使いたくなかったのだろうか。5人とも東大の先生です。それは分からんでもない。さもありなんとも思ったのですが・・・。そうかといって、そんな出鱈目を書く筈はない。そう思って、さらに調べてみました。
大王の呼称の根拠は、どうやら出土品にあるようです。熊本の古墳から出土した太刀、和歌山の隅田八幡宮にある人物画像鏡という鏡、法隆寺金堂の薬師仏の光背、埼玉の稲荷山古墳から出土した鉄剣、これらの表面に大王と読める文字があるのだそうです。しかし、このたった五点の「金石文」つまり石や金属に刻まれた文字だけで、そこに大王の文字があったというだけで、天皇を大王に言い換えるというのは何とも乱暴と思えるのです。その大王が、天王だったという証拠はどこにもないのですから。しかし東大の先生が言い張ると、それが定説となってしまうのが、歴史学会という所なのかもしれません。
ぼくが、見たかったのは、帝国憲法やポツダム宣言だったのですが、最初から引っかかって、そこには達せませんでした。これらについては、次稿にします。