前稿で、国際連合憲章の誤訳ともいえる件について書きました。国際語としての英語を日本語に変える際の意味のずれや不一致はどうやら必然的に起こるらしい。これは日本語の持つ柔軟性という長所が仇となっているともいえるようです。
明治期の日本国においては、数万語の英語やフランス語から和製漢語の創作が行われました。これを可能にしたのは、多くに日本人が欧米に留学し、その言語の本質的な意味を理解することができたということと、その意味を漢字を使って表現できるだけの漢学の素養があったことでした。
日清戦争の後大量に渡来したチャイニーズたちがこれを持ち帰った結果、現在の中国で用いられている熟語の7割がこの和製漢語であるというびっくりするような事実は、先の稿で述べた通りです。
「自由」という用語も代表的な和製漢語の一つです。元の言葉は何かというと、これには実は二つあって、ひとつはFreedom、もうひとつはLibertyです。福沢諭吉はLibertyに自由を当てることに反対であったそうです。「勝手気侭」が当てられたこともあったようですが、結局は「自由」になりました。
Freedomは英国伝来、Libertyはフランス伝来という考え方があります。「自由」がもつ二つの意味については、実にさまさまな考えがあるようなのですが、ぼくはこの英国伝来とフランス伝来という考えかたがいい得ているという気がしています。
Libertyにはフランス革命に根ざす奪い取ったものというニュアンスがあり、Freedomには、イギリスのマグナ・カルタに始まる権利宣言という意味合いがあると思われます。ところが、ネットなどで調べてみると、それぞれの解釈が混ざり合ったり、逆転したりしているみたいで、なんだか訳が分からなくなってきます。
いずれの概念にも人権が絡んでいますので、人権が異常に肥大している戦後日本においては、これは特徴的に見られる現象ではないかと思うのです。
「君民一体」という特殊な國の形を保持しつつ発展してきた我が国では、この「自由」という外来語には、それが素晴らしい普遍的価値を持っているが故に、特に敏感であるべきで、その危険性をも同時に認識すべきだと思います。
なんだか話しが、七面倒くさくなってきたので、もっと単純なことに戻しましょう。たとえば「尖閣問題」です。日本国政府は「問題は存在しない」といっているのだから、これはおかしいでしょう。問題というならば「尖閣侵略問題」でないといけません。
「北方四島」もおかしい。北方領土は四つの島だけではないのですから。「北方領土」でないといけません。さらには、「領土返還交渉」ってなんですか。北方領土は不当に占拠されているわけなのに、どうして返してなのでしょうか。戦争末期のどさくさに乗じて火事場泥棒的に不当に占拠されているだけです。日本も一度は放棄したといってもその後の帰属はどこにも規定されてはいません。だから、それは「領土確定交渉」であるべきです。
「太平洋戦争」これも変です。日本はアメリカと戦った唯一の國ですが、その戦場は太平洋ではありません。もし日本帝国が、ハワイに奇襲をかけた後上陸占領して、西海岸を攻めたのならば「太平洋戦争」で意味が通ります。
しかし、両国が戦ったのは、東シナ海だった。GHQは日本帝国が用いた「大東亜戦争」を嫌ってこの用語を禁止し「太平洋戦争」と呼び変えたのです。
いまはもうGHQは関係ありませんから、「大東亜戦争」と呼ばないといけないでしょう。
「平和憲法」や「昭和憲法」。いずれも、正しくは「日本國憲法」だと思います。現行憲法が戦後の平和を守ったという主張が込められた命名だと思われます。しかし、ほんとのこの憲法が平和を守ったということ決して正しいとは言い切れません。
「昭和憲法」は「明治憲法」に対応した名称といえるでしょう。しかし、この「明治憲法」も全く勝手な命名で、名付け親はあの宮沢俊義氏だったそうです。GHQが「大日本帝国憲法」を禁じたためだったといえますが、いまや「帝国憲法」と呼ぶべきです。「天皇制」もおかしいことは、もう何度も述べた通りです。
いまふと思ったのですが、戦後の日本は「醜いアヒルの子」だったのではないか。GHQを始めとする世界の国々から、「悪いことをした」「間違った戦争をした」といわれ続けました。そして、本当に悪いことをした、世界に迷惑をかけたと思い込んでしまった。これこそが、GHQの<日本弱体化計画>のねらいだったのですが、まんまとその悪だくみにに載ってしまいました。
「醜いアヒルの子」はみんなから「醜い、みにくい」といわれ続け、自分でもそう思い込んでしまいます。努力しても認められない。とうとう逃げ出して、オシドリの群れにいってもやはり「醜い」といわれます。
ちょうど同じように、日本は醜いアヒルの子のように、悪い國だと思い込んでしまったのではないか。
「醜いアヒルの子」は、寒い夜を一人で過ごし、夜明けに空を渡る白鳥の群れを目にします。その群れの白鳥に憧れ羽を動かすと、空に浮き上がったのでした。群れを追いかけ、一緒に池におります。水面に映る自らの姿を初めて見ます。そこには素敵な白鳥の姿があったのです。
「醜いアヒルの子」であった日本の場合はどうだったのでしょうか。日本が自分のことを「醜いアヒルの子」ではないと確認した水面はなんだったのでしょうか。それは、3.11あの東北大震災だった。人口や経済指標などというものは國を映す指標であるとはいえ、心を映すものではありません。
人は鏡でその姿・形を見ることはできますが、心を見ることはできません。それを映すのは、他人の自分に対する対応なのでしょう。人は自分のことを人の対応という鏡で見ることができるのです。
東北大震災というあの大災害時の日本人の有り様をみて、世界の人々がどう感じどう思ったのか。それを知って、日本人は自分自身のことを知り、自信を取り戻したといえると思うのです。
皆さんはご存知でしょうか。今年の7月、日本人あるいは日本の國を表わすような事件が起こりました。その事件の経過を読んでください。
さいたま市のJR南浦和駅で22日、乗客の女性が電車とホームの隙間に転落しました。この30代の女性は、電車から降りようとした際、脚を踏み外し、電車とホームの隙間10センチに落ち込み、へその辺りまで入り込んでしまいました。
駆けつけた2人の駅員が女性を引っ張り出そうとしたのですが、うまくいきません。別の駅員がとっさに車両を両手で押したところ、周囲の乗客や別の駅員も一緒に押し始めたのです。その数は約40人に達しました。
「押しますよ! せーの!」という駅員のかけ声とともに、重さ約32トンの車両が傾き、ホームとの隙間が広がりました。
2人の駅員が女性を引っ張り上げると乗客から拍手や歓声がわき起こり、万歳をして喜ぶ人もいたといいます。女性には目立ったけがはなく、ありがとうございましたとお礼を述べたそうです。
さて、この事件を各国紙はどう伝えたか。
・「おそらく、日本だけで起こりうること」米 CNNテレビ
・「(駅員や乗客が)集団で、英雄的な行動を示した」AP通信
・「イタリア人だったら眺めるだけだろう」伊 リエーレ・デラ・セラ紙
・「中国で同様の事故が起きれば、大多数の人はやじ馬見物するだけだ」香港 フェニックステレビ
・「どうしてこんなに迅速に乗客が団結できたのだろうか」「他人の命に対して、我々ロシア人も無関心であってはならない」露 コムソモリスカヤ・プラウダ
・「日本の人々が生来の結束力を余すところなく示し、困っている人に助けの手をさしのべた、素晴らしいニュース」タイ TNN
日本人の心、こうした心を持った日本という國が見事に映し出されていると思うのです。
さて、話しを戻して続けます。
ちょうど勧善懲悪映画のように悪方(わるがた)とええ方がハッキリしてしまっている言葉があります。
「国際化」最近の流行言葉のように使われるええ方の言葉です。しかし、その内容は問題で要注意なのです。英語でいうとInternationalとGlobalとがこれにあたるのでしょう。インターナショナルというのは、日本なり国境を意識した用語であり、常に日本に回帰すべき言葉です。一方グローバルというのは、日本を世界一般に合わせよう国境をなくしようという感じの言葉で、それは拒否しなければなりません。
明治維新以前も以後も、我が国は外国に学び、よいところはどんどん取り入れたけれど、日本がグローバルに流れたことは一度もなかったというべきで、そういう流れが起こってきたのは、反戦後のコミンテルン指向の流れと一致しているといえると思います。日本は外国に合わせる必要など毫もないと考えるべきです。
「新自由主義」などというのは、極端な言い方をすればある種のアナーキズムと拝金主義を内包しており、危険視すべきだと思うのです。
おなじような意味あいで、TPPはおおいに問題というべきなのです。
「改革」もええ方の言葉とされていますが、内容は問題です。「抜本的改革」などはまことに危険です。そうしたことが危険であることを、私たちは民主党政権で実証実験的に思い知ったのです。だから、「改革」ではなく「改善」であるべきだと思うです。「談合」は悪方の言葉です。しかし本当に「談合」は悪いのでしょうか。
「談合」を排除したためにどんな弊害が起こっているかを知るべきなのです。「談合」自体を排除するのではなく、改善すべきだったのではないでしょうか。
どんどんカタカナ語が増えつつあります。どうしても上手い訳語が見つからない場合を除いて、安易に横文字語を取り込むべきではないと思うのです。インフォームド・コンセントは「納得診療」といった方がよほど明確で認識の一致が可能です。
アセスメントより「事前評価」の方がよりハッキリする。にもかかわらず、こういうカタカナ用語をどんどん量産するマスコミや言論人には自省して頂く必要があります。
ぼくは、カタカナ語を多用する人を見ていると、なんか足が地に着いていない感じがするし、いってることも眉唾のような気がしてきます。
日本国民はGHQによって、使用禁止された言葉を、心からそれを使うことが悪いことだと信じ込み、いわれるままに「日本国」や「わが国」でさえ使うことを憚り、「この國」などといい、「日本国民」を使わずに「生活者」などという。
国民の祝日に国旗を掲げることなど考えもしない。座標軸全体が左にスライドした結果、中庸でさえ右となってしまう有様で、まともな考えは極右となったりする。
だからここいらで「醜いアヒルの子」におさらばするには、戦前に用いられていた用語を堂々と使うことだと思うのです。極右でなにが悪い、それがどうしたと静かにクールに開き直ることだと思うのです。