先日、9月の末の日曜日のTBSのテレビドラマ『The Partner』を見ました。
「パートナー 〜愛しき百年のともへ〜」というもので、日本・ベトナム国交樹立40周年スペシャルドラマと銘打たれたものでした。
特に注目したものでもなく、何気に録画してあったのを見たのですが、けっこう感動したのです。それでネットで調べて、かなり大仕掛けなものであることを知った次第でした。
日本とベトナムの共同制作ということで、6月から撮影がスタートしていたようです。相当力の入った作品であることが分かりました。撮影は日本とベトナムで行われました。
ロケ地はベトナムで4カ所、日本で5カ所だったようです。
俳優もなかなかの人をそろえているといえます。
ツイッターに「いつも反日とも思えるドラマが多いTBSがなんでまた。宮崎駿が零戦を取り上げたように時代が変わってきたのか」という書き込みがあったと聞きました。しかし、宮崎駿氏はともかく、時代が変わってきていることはいろんなドラマにも現れているようです。8月に多いNHKの戦争ものも例年とは明らかに違ってきていることを感じました。
これまで黙っていた特攻の生き残りの人たちが重い口を開き、「死ぬのは怖くなかった。死んで当然と思っていた」と語っていました。
ベトナムは、他の東南アジアの国々とともにきゅうに注目されるようになってきています。企業が中国からシフトを始めています。
安倍首相は、今年の1月のベトナム公式訪問に先立って、ベトナムの「Tuoi Tre」紙のインタビューで、最初の外遊先に東南アジアの3国を選んだ理由を問われてこう答えていました。
「現在、アジア太平洋地域情勢は大きく変化しています。私たちは、地域の平和と繁栄を保障するためにより大きな努力をしなければなりません。このような状況のなかASEAN諸国は、2015年のASEAN共同体構築を目標に掲げ、ひとつの「経済連合」として、より地域を発展させようとしています。これまでも、そしてこれからも、日本は常にASEAN諸国を重視し、ともに歩んでいきます。特に私がベトナム、タイ、インドネシアの3カ国を訪問することを決めたのは、これらの国々が21世紀の「発展の中心」として重要な役割を果たし、3カ国との関係強化により、地域の発展と安定に貢献できると考えたからです。 」
この時のASEAN訪問は、アメリカに嫌われたからだなどと、アホなコメンテーターが的外れな推測を述べたものでしたが、実際は安倍外交の核心部分だとも思えるもので、このインタビューもずっと続きます。全文が見たい方のためにリンクを張っておきます。インタビュー
あらすじ
ドラマは、現代の日本とベトナムの両国で働く日本人ビジネスマン・鈴木哲也の視点を通して描かれる。哲也は一人娘のさくらと暮らし、ベトナム人女性リェンとの再婚を控え、忙しい日々を送っている。そんなときベトナムでの取引先のナム社長から、ある謎を解き明かせば契約をしようと提案される。タイムリミットまでに謎が解けないと、長年かかって築き上げてきたベトナムとのプロジェクトがご破算になってしまう。哲也は謎解きに奔走するが、その謎を解く鍵が実は日本にあった。それは100年以上前、フランスの厳しい圧政下にあった祖国の独立を願い危険を冒して来日したベトナムの英雄と、名も無き日本人医師の強い絆であった。ベトナムの英雄、ファン・ボイ・チャウは「フランス支配に自由を諦めたベトナムの若者よ、目を覚まし、日本で学ぶのだ」と若者たちを鼓舞し、ファンの影響を受けた多くのベトナムの若者たちが日本へ渡った。これが、後にベトナムの独立に大きな影響を与えた「東遊(ドンズー)運動」であるが、この東遊活動を支えた日本の開業医、浅羽佐喜太郎とファンの間には、これまで語られることのなかった史実が隠されていたのだった・・・。
このようなストーリーは、実は数えきれないほどあったというべきです。しかし、それは語られることがなかったし、オッピラにすることがことが憚られる風潮があったのです。つまり、そうした話しは大東亜戦争を正当化することになるとされたからです。今年はあの有名な最初のアジアサミット「大東亜会議」の開催70周年にあたります。12月には東京で「日本ASEAN特別首脳会議」が開かれます。
どこかの国が、「大東亜共栄圏」の再開を目論んでいるなどと言いがかりをつけてくるのは分かるような気がしますが、それがどうしたと無視すればいい。
このドラマには一つのキーワードがあると思うのですが、それは「家族」だと思いました。
ファン・ボイ・チャウが、ひたすらに自分を助ける浅羽佐喜太郎に、「どうして自分をそれほどまでに助けるのか」と尋ねます。その答えは「家族だから」でした。
また、どうしてもなつかない鈴木哲也の一人娘のさくらに困惑しているベトナム人女性リェンを助けようとする哲也に、リェンは「私たちは家族になるのだから自分に任せて欲しい」といいます。
明治維新後、伊藤博文たちがヨーロッパの国民国家の形をとりつつ日本の独自の形・国体を模索して得た答えは、天皇を頂点とした家族のような国家でした。
このドラマを書いた脚本家がそこまで分かっていたとすれば、凄い人ではないか。そう思って調べたら、谷口純一郎という人でした。でもこの人については、ネットでもほとんど記載がなくよく分かりませんでした。
調べて他に分かったことがありました。それもこの脚本の優れたことの証明でもあると思うのですが、実はフォン・ボイ・チャウは別の中国人と合体されています。その中国人とは梁啓超です。この人は大変有名な人です。しかしどちらかというと孫文などの陰に隠れていたようです。それが、孫文が薄れだしたため浮き上がってきたといえそうです。
梁啓超は、共産主義が大嫌いでした。これがポイントです。世界中でマルクス主義が消え去る中で日本の学会だけはなお根強いといっても反勢力が育ちつつあるのが現状ではないかという気がしています。
ストーリーでは、ファン・ボイ・チャウは日本に流れ着いて、東遊活動を支えた日本の開業医、浅羽佐喜太郎と知り合ったことになっています。しかし、ファン・ボイ・チャウが頼ったのは、梁啓超でした。そして、梁啓超を助けていたのは大隈重信であり犬養毅だったのです。
ここで、「東遊(ドンズー)運動」をWikipediaで見てみましょう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー1883年以来、フランスの保護国であったベトナムでは日露戦争に刺激され、1904年頃、ファン・ボイ・チャウ(潘佩珠)らによって反仏運動の結社「維新会(ベトナム語版)」が組織された。1905年、チャウは日本に渡って武器援助を仰ごうとしたが、日本に亡命中だった清の梁啓超を通じて知り合った犬養毅らから武装蜂起の考え方を批判され、代わって人材育成の重要性を説かれた。チャウはその忠告を聞き入れ、ベトナムの青年らに日本への留学を呼び掛けた。科挙に合格していた青年ら200人以上が日本に留学し、この運動は「東遊運動」と呼ばれるようになった。
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では、梁啓超とはどんな人だったのか。
日本の明治維新は中国大陸の清国にも大きな影響を与えました。清国には士大と呼ばれる貴族階級があり、その家臣階級を士大夫といったのですが、こうしたエリートの若者が、光緒帝の全面的な支持のもとで、明治維新に倣った改革で清国を強国にしようとしました。これを変法自強運動といいました。
こうした清国の志士に挙げられる3人のうちの一人が梁啓超でした。彼らは「戊戌の変法(ぼじゅつのへんぽう)」とよばれるクーデターによって追われます。
もう少し詳しくいうと、変法というのは法律のみでなく政治体制全体を改革しようとする運動で、その邪魔になる西太后を除こうとしますが、西太后はクーデターを起こし光緒帝を監禁し関係者を処刑します。
梁啓超は日本大使館に逃げ込みます。日本政府は彼の亡命を認め、軍艦大島丸に乗せて日本に至ります。
このとき、日本の印象を梁啓超は次のように書いています。
日本に亡命した時、上昇している新しい国を実際に見て、まるで明け方の風を呼吸するようで、頭も体もすっきりして気持がよかった。ここの役人から職人まで、希望を持って活躍し、勤勉進取の気風に満ちた全てが、昔から無名の小国を新世紀の文明の舞台に立ち上がらせた。腐敗している清政府を振り返ってみると、活力がなく積極性に欠けている。両国を比較し、日本人を愛すべき、慕うべきだとつくづく感じた。
こうして、梁啓超は志賀重昂や犬養毅などと交わりを持つことになり、横浜に居住しました。
ファン・ボイ・チャウは日本に来るまでに、おそらく清国を訪れており、梁啓超と知り合いであったと思われます。ファンはフランスから独立する為に日本に武器の援助を求める為に日本にやってきます。おそらくファンは、梁啓超を通して白人のアジア植民地支配への義憤という日本の考えを聞いていたと思われます。
梁啓超はすぐに、彼を大隈重信と犬養毅に引き合わせます。ファンはこの二人に協力を頼み込みます。この時の話し合いは漢字の筆談で行われました。これはなかなか興味ある場面でした。
ベトナムはその頃は漢字を使っており、筆談が可能だったのです。
これが、史実ですが、ドラマでは梁啓超が開業医、浅羽佐喜太郎に重ねられています。ファンは日本に漂流してきて、浅羽佐喜太郎に助けられ彼が親しくしている大隈重信に紹介されることになっています。
日本の政治家の忠告を聞いて東風運動を起こした結果、200人を超すベトナム留学生が日本にやってきます。しかし、これを危険視したフランスは日仏同盟を結び留学生の追放を迫ります。
この辺りからの浅羽佐喜太郎とファンの描写は、本当のようです。
実は、浅羽佐喜太郎は、日本にやってきて行き倒れになった阮泰抜というファンの同志の一人を助けただけではなく、留学生の為の学校への入学手続きをして学費までも払ったことがあったのです。そういうこともあって、浅羽佐喜太郎は義侠の人としてベトナム留学生の間でも良く知られていたのです。ドラマではこの玩泰抜もファンに取り込まれています。
同志の留学生がほとんど強制送還される中、官憲の目からの逃避行の中で困窮したファンは、すがれるのは浅羽佐喜太郎さんしかないと思い、手紙を書きました。そしてその手紙を玩泰抜に託しました。
その手紙が着いた同じ日の夕刻に1700円というお金が届けられたといいます。当時の小学校の校長の月給は 18円だったといいますからこれは大金でした。一緒に届いた書状には次のように書いてありました。「手元にはこれだけしかありませんが、またお知らせ下されば出来るだけのことをします。」
1909(明治42年)3月、日本政府からの国外退去命令が、ファンとベトナム皇子のクォンデ候に出されます。10日以内の退去を命令されたファン・ボイ・チャウは、数々の佐喜太郎の支援へのお礼と別れの挨拶のために、小田原・国府津の浅羽邸を訪ねます。阮に紹介され、まず今迄の不義理を詫びますが、佐喜太郎は早々にチャウの手をとり招き入れ歓待をします。佐喜太郎はよく飲みよく談じ、チャウらを守れなかった大隈や犬養を酷評したといいます。
そしてその時、あの先に述べた質問をするのです。そしてその答えはあのキーワードでした。
日本を去って9年経った1918年(大正7)にファン・ボイ・チャウは日本にやって来ました。しかし佐喜太郎はすでに亡くなっていました。そして佐喜太郎氏への報恩のために立てられたのが、静岡県浅羽町梅山の常林寺にある大きな記念碑というわけです。
このへんのいきさつをさらに辿ると、こんな新事実を知ることができました。
日本を追われたファンに安住の地はありませんでした。上海や杭州・香港などの雑踏に紛れ、あるいは広西・雲南の辺境に潜み、執拗な追求と逮捕・監禁・獄中の生活など命を懸ける日々だったのです。
そして、知られている再来日前年の1917年にファンは密かに日本に来ていたのです。真っ先に大恩ある浅羽佐喜太郎先生に会おうとしますが、浅羽先生はファンが日本を去った翌年、43歳で亡くなっていました。ファンは哀惜の念堪え難く、ご恩に報いることも感謝することもできなくなったことを嘆き悲しみ、先生の墓前に記念碑を作ることを決意したのです。
そしてそれを実行する為に、その翌年の1918年に日本に来たのでした。
この時の様子をファンの手記から知ることができます。
「私(ファン)は静岡(袋井駅か?)に着いて石碑を造る費用を調べた。石材と刻字の工賃で100円、それを運んで完成させるのに100円以上・・・・・。しかし私の懐中には120円しかなかった。私と李仲柏は東浅羽の村長さんのお宅へ行って事の次第を述べた。
今お金が不足しているから、中国へ行ってととのえて・・・と話した。村長さんは大変感激・・・石碑はすぐ建てるようにと。そして私たちを自宅に泊めて・・・週末の金曜日、村の小学校へ授業参観に連れて行ってくれた。・・・児童たちに、日曜日に家の人を学校に連れて来て、私の話を聞くようにと言われた。・・・日曜日、私たちは村長さんの案内で小学校へ行った。大勢の父兄が集まっていた。村長さんは、浅羽先生の義侠の行いについて話し・・・私と李仲柏を紹介・・・。このお二人が千里を越えて、こんな田舎の村へ来て、浅羽先生のために石碑を建てようとされている。・・・私たちも手伝ってあげようではないか、と。万雷の拍手が起こった。さらに村長さんは、このお二人には石材と石工の手間賃を負担してもらうだけで、石碑の運搬と建設費は村で出そうではないか・・・と訴えた。学校いっぱいに賛成の声が・・・」(立教大学教授 後藤均平訳「潘佩珠年表」)
完成には一ヶ月掛かったそうです。ファンの手記は次のように終わっています。
完成の日には、村人が集まり完成の式典を行い、自分達を主賓にして祝宴を張ってくれた。これは、皆村長の計らいであった。自分達はたかだか百円あまりを払っただけであった。このような日本人の義をベトナムの同胞に知らせたいので特にこの事を書き残す。」と
碑文には次のように記されていました。
「われらは国難(ベトナム独立運動)のため扶桑(日本)に亡命した。公は我らの志を憐れんで無償で援助して下さった。思うに古今にたぐいなき義侠のお方である。ああ今や公はいない。蒼茫たる天を仰ぎ海をみつめて、われらの気持ちを、どのように、誰に、訴えたらいいのか。ここにその情を石に刻む。
蒙空タリ古今、義ハ中外ヲ蓋ウ。公ハ施スコト天ノ如ク、我ハ受クルコト海ノ如シ。我ハ志イマダ成ラズ、公ハ我ヲ待タズ。悠々タル哉公ノ心ハ、ソレ、億万年大正七年(一九一八)三月 越南光復会同人」
ドラマがきっかけで、いろいろ調べていくうちに感動的な事実が次々に浮かび上がり、興奮しました。
このドラマにはもう一つのキーワードがありました。それは、「宝物」です。日本で学んだことのあるベトナムでの取引先のナム社長は、ある謎を解き明かせば契約をしましょうと提案するのですが、その謎というのが「宝物」で、それは「日本人の心」だったといえます。
ところで、日本を描いた作家は沢山います。しかし日本の心や日本人の心を描いた作家をぼくはあんまり知りません。
たとえば司馬遼太郎にしたところで、日本人の心は全然描けていません。だいたい彼は、女性が描けない。女性の心が描けないように日本のこころも描けません。
日本の心を描いたのは三島由紀夫であり、司馬遼は三島を全く理解できなかったようです。
話しを戻して、このドラマが最後に「日本人の心」を浮かび上がらせるのは、あの『永遠の零』に似ているとも思ったことでした。