日本にいたインド独立の志士

友人の富永くんが「以下の記事は、本日4日の日経新聞文化欄に載った記事です。こういった日本人?もいたということで、参考まで。」と、以下のような記事をメールしてくれました。びっくりするような話なので転載することにしました。

バーラティ・アシャ・チョードリ

バーラティ・アシャ・チョードリさん

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インド独立の志士 朝子
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日本育ちの少女だった私はボースに傾倒、出征した。

「新しく 生まれ変わりて 一兵と なりたまりしも 心淋しき」

弾の破片が目に刺さり眼帯をしている(1943年6月)

チャンドラ・ボース氏と。 弾の破片が目に刺さり眼帯をしている(1943年6月)

太平洋戦争で日本の敗色が濃くなった1945年3月、17歳の時に詠んだ歌だ。詩や文学の世界に浸り「おセンチ」と呼ばれていた少女が、恐怖を振り払い「インド独立の志士」であろうと葛藤している。あのころの自分を抱きしめたくなる。

圧政に苦しむ祖国思う

私は28年、神戸で生まれた。両親はインド人。「希望」という意味のヒンディー語で「アシャ」と名付けられたが、「朝子」と呼ばれて育った。神戸の小学校を卒業後、東京に転居。昭和高等女学校(現昭和女子大)2年の時、インド独立運動の指導者チャンドラ・ボースが結成したインド国民軍に身を投じた。冒頭の歌はその時のものだ。

父アナンド・サハイはボースの側近で23年から神戸に身を寄せていた。当時、インドは英国の植民地。国民は圧政と搾取に苦しんでいた。「非暴力・無抵抗主義」を掲げるマハトマ・ガンジーとたもとを分かち武力闘争を掲げたボースの招請を父は画策。偽装離婚した母をコルカタにいたボースの元に秘密裏に送り、訪日を促した。

戦時下の我が家は日本の家庭そのもの。日本人と同じ配給を受け隣組にも参加した。薄いおかゆをすすり、モンペをはいて登校。千人針を縫い、家族で戦勝祈願の神社参りもした。母はカレー用の豆や小麦粉を防空壕(ごう)に隠し、多忙な父がたまに家にいると、祖国の料理をふるまった。

空襲の時は防空壕から日米の空中戦を眺めた。日本の戦闘機が撃たれ、操縦士が白いハンカチを振りながら散っていくのが見えた。「祖国のためにあんな風に死ねたらいいね」と妹と話した。

病み上がりで終戦迎え

ボースの来日は、私たちに新しい生命を与えた。初めて彼に会った日、私はインド式に礼を尽くしその足先に手を触れた。これがいけなかった。「我々は150年前から奴隷のように頭を下げているのに、まだ下げ続けるのか! 独立するまで誰にも頭を下げてはならない」と雷を落とされた。この日から、妹との挨拶も国民軍の合言葉「ジャイ・ヒンド(インド万歳)」になった。

私に出征を決意させたのは、44年3月に始まった日本軍とインド国民軍による「インパール作戦」だ。インド北東部で両軍が共闘し英軍攻略を目指した。居ても立ってもいられず、私たち姉妹は入隊をボースに志願。すると「花のような娘たちが戦えるのか」とからかう。ムッとした私は「私たちが国のために死ねるのを閣下は知らない」と言い返してしまった。

結局、私だけ入隊を認められた。45年3月21日早朝、軍服姿の私は日の丸と万歳三唱で見送られた。母の顔を見れば涙があふれそうで目をそらし続けた。「勝ってくるぞと勇ま〜しく〜」。今も軍歌はそらんじている。

バンコクで念願のインド国民軍女性部隊へ入隊。しかし、インパールから飢餓や感染症で壊滅状態となった日本とインドの兵士が次々に戻ってくる。訓練を終え少尉になった矢先、マラリアにかかってしまい、病み上がりで終戦を迎えた。日本が負けるなんて信じられなかった。

46年にインドに入国、日本にいた家族とも再会した。47年にインドが独立。しかし、パキスタンを失っての独立は、我々が目指したものとはほど遠かった。その後、私はインド人男性と結婚し、2人の息子に恵まれた。子育てが一段落した後、祖国の言語と歴史を学ぼうと、ヒンディー語を勉強し直し、女子大学の通信講座で古代インド史の学士号を取得した。

「遺骨をガンジス川に」

74年には、日本語で書き綴(つづ)っていた日記(43〜46年分)をヒンディー語で出版した。2010年には、母校の昭和女子大が「アシャの日記」としてまとめてくれた。

私の夢は、蓮光寺(東京都杉並区)に安置されているボースの遺骨をガンジス川に流すことだ。ボースは終戦直後、台湾での飛行機事故で落命。遺骨はひそかに日本に運ばれた。国内ではガンジーら現与党・国民会議派と対立したボースの評価は政治的にデリケートで、事故死の信憑(しんぴょう)性を疑う人も多い。そうであっても、ガンジーの誉れとは裏腹に、ボースの遺骨はなぜ祖国に帰ることがいまだ許されないのか。

昨年、日本とインドは国交60周年を迎えた。両国の関係はかつてなく良好で、遺骨返還の環境は整いつつあると思う。今月末には天皇・皇后両陛下が訪印される。もし謁見(えっけん)が許されたなら、私の数奇な人生についてお話したいものだ。(元インド国民軍女性部隊少尉)

こんな人がいたのかと驚いた。彼女はインパール作戦に加わるためにチャンドラボースの「インド国民軍」に身を投じたという。
インパール作戦といえば、その戦自体が必要以上に貶められてきたといえる。
たとえば、こんな具合に。
①牟田口中将が 皆の反対を押し切って強引に強行した
②補給を無視した卑劣な作戦で
③勝算が全く無く、やる意義も無い作戦だった
という具合に宣伝流布されてきた。
「しかし詳しく検証すれば、これらの批判は全ていい加減な大嘘。 政治的作為と利権にからんだ文芸春秋社などの商売目当てのエセ保守勢力である 半藤一利ら主導による、悪意と捏造と曲解による大嘘ばかり。 これらは東京裁判史観と陸軍悪玉論を定着させ責任転嫁したい 戦後の権力者に迎合し、地位と名誉と利権を得ようとする 商売作家が創作したプロパガンダ小説の作り話しでしかない。 」
という悪し様に罵った書き込みもあった。

ここに出てきた半藤一利氏。この半藤一利という人はかなり問題ありの人とぼくは見ている。この人については、以前からいいたいことがあったので、ここに書くことにした。
売り出しは、1965年の『日本のいちばん長い日ー運命の八月十五日』だったようだ。
この本の序文はこう始まる。「内外情勢の変化によって、右に左に、大きくゆれるということは、やむをえない。ただ、適当な時期に平衡をとり戻すことができるか、できないかによって、民族の、あるいは個人の運命がきまるのではあるまいか」
ここにもうその本質「軽薄な進歩主義を掲げた凡庸な歴史家」と呼ばれるものが現れているともいえそうだ。歴史家が揺れてどうするのだ。歴史の垂直軸を持たないといけないのではないか。
先日NHKの尖閣侵略問題を取り上げる番組に登場して、「長い海岸線を持つ日本は防備すること自体が不可能。外交解決しかない」と唱えていた。この人には正しい国家の形が見えていないのではないかと思える。

半藤一利の国家認識の狂いは「昭和十年代の日本と金正日政権の類似点」を喧伝した『愛国者の条件』(ダイアモンド社)にも見られる。日本は朝鮮と対比できる國なのか。
『昭和史 戦後編』では、「いま流行なのか、「東京裁判史観」と盛んにいわれます。そりゃいったい何ぞや、と問うてみたいのですが、そんな歴史観があるはずはなく、私はその言葉自体がよくわからないので使いません」と述べているが、どっぷりの中でそれが分かるわけはなく、白状したことになっている。
南京大虐殺について、『昭和史』では、「中国がいうように、三十万人殺したというのはあり得ない話」としているが、一方ではこんな自虐史観発言を行っている。
「とにかく軍にはちゃんとした法務官がいるのに、裁判もせずに捕虜を大量に処刑したのはいけないことなのです。南京で日本軍による大量の「虐殺」と各種の非行事件の起きたことは動かせない事実であり、私は日本人の一人として、中国人に心からお詫びしたいと思うのです」
この人の歴史家としての最大の欠陥は、事実の実証・検証が極めて不十分で、推察や憶測が常に混じっていることである。

ベストセラーとなった『昭和史』は次の一文で終わっている。
「いやはや、やっと間に合ったのか、本当にあの時に負けることができてよかったと心から思わないわけにいきません。それにしても何とアホな戦争をしたものか。この長い授業の最後には、この一語のみがあるというほかないのです。ほかの結論はありません」
この本を買うには買ったのだが、最後のこの部分を読んで、真剣に読む気がまったく失せたのを覚えている。
小林秀雄は、戦後行われた文人の座談会で、みんなが口々に日本を悪し様に批判するのを黙って聞いていたが、「僕は馬鹿だから、みんなのいってることが分からない」といって席を立ったといいます。

小林秀雄によれば、日本人は「正銘の悲劇を演じた」(「政治と文学」)のです。
「批判とか清算の名の下に、要するに過去は別様であり得たであろうという風に過去を扱っているのです。凡庸な歴史家なみに掛け替えのなかった過去を玩弄する。実に子供らしい考えである。軽薄な進歩主義を生む、かような考えは、私たちがその日その日を取り返しがつかずに生きているということに関する、大事なある内的感覚の欠如から来ているのであります」(「私の人生観」)
半藤一利は、小林秀雄にいわすれば、過去を玩弄する浅薄な進歩主義者であり、半分子供の凡庸な歴史家に過ぎないということになる。
考えてみれば、1965年にデビューした時から彼には「大事なある内的感覚」が欠如していたのかも知れないと思えるのです。

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