ずいぶん昔のことを思い出した。高校の教師になってすぐのことだったから、もう半世紀も前のことになる。
赴任してすぐに2年生の担任を命じられてすぐにメーデーがあった。
組合の分会からは、ビラが配布され、「メーデーは世界の労働者のお祭りであり、これに参加し連帯するのは労働者の権利であり義務でもある」とあり、これを生徒に説明しなさいということだった。
一方学校長からの指示は、メーデーは休日ではない。正常な学校生活と授業を行わないといけないという指示文書で、これも生徒への説明を要求していた。
ぼくは困った。それぞれの考えをまっとうに説明するには、ぼくはあまりに不勉強だと思った。山登りにかまけて、当時の流行とも言えた安保闘争などには、理屈はわかったが興味がなかった。
そこで、ぼくは、この二種類のビラを並べて、教室の掲示板に貼ることにした。そして、みんな読むようにとだけ言っておいた。
聞きたいことがあったら聞いてくれと言っておいたのだが、質問してくる生徒はいなかった。しかし、教師からは猛烈なバッシングが来た。組合の教師からは、校長の指示を張り出すとは、何を考えてるのかと人非人のようになじられた。非組合員の古参教師は、あんな組合のアジビラを張り出すとは、お前はとんでもない奴だと呆れ顔で、純真なぼくを叱った。
難詰されたぼくはこう答えた。こんな正反対の考えを両方とも示して、自分で考えさすのが最も教育的ではないかと考えたんです。
この答えにさらに突っ込んでくるものは誰もいなかった。
その日、学校は休日とはならなかったと思うが、例年通り授業はなく、僕もメーデーに参加はしたが、デモ行進には加わらなかった。デモというものがぼくは決定的に嫌いだった。後の懇親会だけに参加したが、それを咎められることはなかった。
なぜこんなことを思い出したのかと考えて、その訳がわかった。この頃マスコミや国会でも繰り返し問題になっている放送法の問題だった。
今日の朝生でも冒頭でこの問題が取り上げられていたが、ヒステリックに安倍政権の圧力を叫んでいるのは、ここでも同じだった。しかし出席している自民党や公明党の議員が強い反論を言わずにさらりと受け流したので、この話はさして盛り上がりも深まりもしないままで終わったようだ。
その質問をしたのは、「放送法遵守を求める視聴者の会」だった。この会は作曲家のすぎやまこういち氏やケント・ギルバート氏など7名の呼びかけ人と60名を超える賛同者によって昨年の11月に設立されたものである。
主張するところは、「国民主権に基づく民主主義のもと、政治について国民が正しく判断できるよう、公平公正な報道を放送局に対して求め、国民の「知る権利」を守る」ための活動を行うとしている。
彼らが最初にやったことは、安保法制報道において、賛成と反対の意見の放送時間を正確に測定することだった。
彼らは、TBS岸井成格氏とTBSさらに総務省あてに3通の質問状を送付した。総務省あての質問の内容の前半は次のようなものだった。
【質問】
放送法第 4 条が求める、放送の政治的公平性や多様な見解への配慮については、平成 19 年の総務大臣の答弁において、「一つの番組ではなく当該放送事業者の番組全体を見て、全体としてバランスの取れたものであるかを判断することが必要」との見解が示されています。この見解に従うなら 、2015 年 9 月 16 日の「NEWS23」という単独の番組が不公平で一方的であったとしても、直ちには「TBS が放送法に違反している」とは言えないことになります。しかし、この総務大臣見解そのものが、そもそも不適切なのではないでしょうか。
一般視聴者は、ある一局の報道番組全体を見ることはできません。従って、なるべく一つの報道番組内で公平性や多様な意見の紹介に配慮しようと努めるのは、放送事業者の当然の責務だと我々は考えます。そのような配慮によってこそ、放送法第 4 条の理念は守られ、国民の知る権利が守られるはずです。ところが、上記総務大臣答弁が「当該放送事業者の番組全体を見て」、公平性を担保すると言う、現実には誰にも確認不可能な判断を示したため、放送事業者がこれを盾に、個々の番組の中で公平性や意見の多様性に配慮することを怠る結果となっています。(後半省略)
これに対して、総務省(高市大臣)は次のように答え、公平性の判断は局の番組全体で行うとする従来の見解を次のように変えた。従来の見解を紹介した上で、
他方、一つの番組のみでも、例えば、選挙期間中又はそれに近接する期間において、殊更に特定の候補者や候補予定者のみを相当の時間にわたり取り上げる特別番組を放送した場合のように、選挙の公平性に明らかに支障を及ぼすと認められる場合、国論を二分するような政治課題について、放送事業者が、一方の政治的見解を取り上げず、殊更に、他の政治的見解のみを取り上げて、それを支持する内容を相当の時間にわたり繰り返す番組を放送した場合のように、当該放送事業者の番組編集が不偏不党の立場から明らかに逸脱していると認められる場合といった極端な場合においては、一般論として「政治的に公平であること」を確保しているとは認められないと考えております。
どう考えても、この見解が間違っているとは、ぼくには思えない。「放送法遵守を求める視聴者の会」が求める「公平公正な報道」というのはまず難しいとは思う。放送法4条では公平であるべきとしているが、そこには公正の文言はない。
公平と公正は同時に使われることが多いのだが、一緒にしてはいけないとぼくは考えている。公正というのは公の正義という意味だと思うが、対立する二つの正義が常に存在するからだ。どちらの正義に与するかは各自の判断によるべきである。
一方公平というのは公の平等ということで、こちらは数量化が容易であり、したがって客観性が担保できると考えられる。
そういう観点からみれば、対立する二つの考えを報じるときには、その時間は同じでなければ公平とは言い難い。
そういう放送環境があって初めて、私たち国民はそのいずれに与するかが各個人において公正に決めることができるのだと思う。
局の全体の番組で判断するという従来の見解を個々の番組でも判断できると変えたのは表現の自由の侵害だなどとわめく左翼リベラルは、本当におかしいと思ってしまう。活字媒体と違いテレビは公共の電波を使う認可媒体であるから、放送法の規定はより厳密に遵守されねばならない。当然電波法には罰則規定がある。その罰則に電波の停止があるということを述べただけで、政府が威嚇しているなどというのは、あまりに子供じみているように思えてしまう。
冷静により正確に事実を報道することに集中していただきたい。テレビ局にはそう願いたい。それを見て判断するのは、視聴者の国民一人一人であってあなたたちではないことを肝に銘じていただきたい。
(付記)「放送法遵守を求める視聴者の会」についてはこのサイトをみてください。公開質問状のサイトもあります。