このドラマについては、ぼくはかなり特別な思い出があるのです。
最初に短く、こんな可愛いコマドリのカットが出ます。そして、有名なあの煙突のシーンです。
などとクダグダ説明しているよりも、実際を見てもらいましょう。
1分足らずの冒頭のシーンです。
この画面を見、流れる音楽を聞くだけで、もうぼくの頭は多くの思い出が駆け巡り、ボーとしてしまうのです。
さて、どこから喋ったらいいものか、ともかく年寄りのぼくの思い出話に付き合ってください。
東京でアップルのカンファレンスがあり、彼はその時、アップルからのスピーカーとして来日していました。後のパーティで彼の講演内容について幾つか質問し、話し合っているうちに、この後大阪にも行くかもしれない。京都は近いのかと聞くので、すぐそばだよ、そんな確約していない講演なんかやめて京都においでよとぼくは誘ったのです。
数日後のこと、ラリーから電話がありました。大阪に来ている、講演は断ったけどパーティには出てくれと言われているんだと言います。
そんなもの、スニークアウト(こっそり抜け出し)しといでよ。とぼくは言ったのです。
その頃のぼくは、嵯峨にある府立高校に異動して間もない時期で、少し前から始めていたパソコン・ソフトの会社も学校の近くの御室仁和寺近くの古民家に移していました。
学校では、進路部に配属されて、電話付きの個室が与えられ、そこではコンピューター・ソフトの開発を自由にすることができました。
電話といえば、その当時は、大職員室にしかない時代でしたから、これはとんでもない厚遇を与えられていたと言えます。その部屋で、ぼくは一人で進路データの分析やマークシート読み取りと採点などのソフトを開発していたのです。
古民家のぼくの会社にやってきたラリーは、ぼくの作ったタイプレッスン・ゲームに熱中していました。こんなタイプレッスンは初めてだと言ってました。
夕方から祇園に出かけ、大いに飲んで、三条京阪の改札口でハグして別れたのです。
しばらくして、今度はアメリカ東海岸のボストンでのアップルカンファレンスに行っての帰り、彼の住むビバリーヒルズを訪れたのは翌年の夏だったと思います。その時になって初めて、彼がアップルでは手書き文字認識のソフト開発をやっている結構主要なスタッフであることを知ったのです。
このときぼくは、ビバリーヒルズのあのホテル・カルフォルニアで有名なビバリー・ヒルズホテルに泊まりました。このホテルは、ハリウッドの俳優が毎日のように訪れるという高級ホテルです。
ぼくは、日本にいる教え子の秘書に電話して、予約をとるように頼みました。
たどたどしい英語しかしゃべれない彼女に、部屋の値段を聞いたら「イッツ、ツゥマッチ。ディスカウント、プリーズ」をなんども繰り返せと指示したのです。
そしたら、なんと信じられないくらい安い部屋をとることができたのでした。
ラリーは、ホテルからは少し離れた山腹の小さな山小屋みたいな家に住んでいました。一緒にいたのは、日本でも一緒だった女性で、結婚はしていないということでした。いかにも田舎育ちの控えめでいい感じの女性だったのですが、名前はすっかり忘れて思い出せません。
夕方には毎日のようにラリーが迎えに来てくれて、夕飯を食べにあちこち連れて行ってくれました。エスニック料理が多かったようです。
味はイマイチで、ただ量がやたら多くて、半分食べるのがやっとです。残りは持って帰ります。
そして、それは、翌日の家での食事となるのです。
料理屋の評価は、質ではなくて、量なのだと理解できました。
ある日、メキシコ料理のお店に行ったときのこと、フラメンコ・ギターとマラカスを持った3人の歌唄いが歌を唄いながらテーブルを回っています。
ぼくたちのところにやってきたので、ぼくは「ベサメムーチョ」と言って、リクエストしたのです。
彼らが「ベサメ、ベサメムーチョ」と歌い出した途端、お客が合唱を始め、店中の大合唱となったのです。
ラリーは、驚いて、「どうしてそんな歌を知ってるんだ」とたづねるので、「日本人は誰でも知ってると思うよ」と答えたのです。
ビバリーヒルズには、3・4日しか滞在しなかったのですが、この時に、カマールというアメリカ国籍を持つパキスタン人と仲良しになりました。彼は、ビバリーヒルズ・ホテルのレストランのキャプテンだったのですが、ぼくがウルドーを話すので、大いに親しみを覚えたようでした。
その後、なんども日本に来て、我が家に1ヶ月以上も滞在したりしたのですが、3.11のあと、なぜか音信不通となりました。彼についての話は、本題ではないので、別の機会にします。
それから数年して、ぼくは教師を辞めることにしました。
このあたりのことは、すでに<高田直樹ドットコムへようこそ>に書いたことがあると思い出して、探してみたら、ラリーのこともしっかり書いてあります。もう忘れていたラリーの奥さんの名前もしっかり書いてありました。京都に来たラリーは我が家に一泊したのですが、それもすっかり忘れていました。もうボケが進行しているのかもしれません。
この記事にリンクを貼りますので、読んでください。
<高田直樹ドットコムへようこそ>
高田直樹の異国四景 連載第二回 「新しい門出、スイスの旅」
連載第三回 「おじさんのホームステイ」
この30年も前に書いたブログにあるようにぼくは、教師を辞めてスイスの山小屋で40日の一人暮らしをします。
当時は、メールというものもありませんから、通信はもっぱらファックスでした。だから携帯できるファックスマシンを持って行ったのです。
そこから「スイスにいるよ」とラリーに連絡したら、ロス・ガトスに大きな家を買ったよ。ベッドルームは余ってるから、一緒に暮らせると思うよと、すぐ折り返しの返事が来ました。
89年のサンフランシスコあたりの大地震で、金持ちが大きな家を捨てて、他の国へ移住したので、えらく安く家が手に入ったらしいのです。
40日ほど暮らしたらスイスを後にアメリカに渡る予定をしていたから、これはまさに渡りに船だったのです。このあたりのことは、上の異国四景の「おじさんのホームステイ」に書いた通りです。
UNIX使いのラリーは、ぼくのためにUNIXマシンを用意してくれたのですが、ぼくはもっぱら「ツインピークス」のダビングに明け暮れていたのです。
この時ぼくがアメリカに行った理由の一つは、コンピュータの動向を探るためでした。当時これからコンピュータはマックになるのかウインドウズになるのかで、意見が分かれていました。
何人かのプロを含むぼくのコンピュータの弟子たちは、ぼくの結論を待っているはずです。
すでに、ぼくの結論は出ていました。アメリカに来る前に、ロンドンでの勉強会にも参加していました。それは、当時最先端とされていたウープ・プログラミングの研修でした。ウープというのは、Object Oriented Programingのことなのですが、説明はよします。
ぼくの結論は、どうなるかはまだ分からないというものでした。どうなっても対処できるよう用意しておけばいい。
そこでぼくは考えたのは、ずっと続けてきたプログラミングの勉強はやめて、英語を勉強しようというものでした。
ラリーの友達のツインピークスおたくの中には、このドラマの全セリフを文字起こししている男もいて、ラリーはそのファイルをぼくにくれたのです。勉強の教材はバッチリでした。
ぼくの週一回のレッスンはもっぱらツインピークスの英語版を視聴することだけになったのでした。だから先ごろ再放送が始まったツインピークスの二ヶ国語版を見ても、単純なところでは、英語が浮かびます。
例えば、ローラパーマーの死体の発見の報を受けた保安官が、「場所はどこだ」と聞くのですが、元は、一呼吸おいて、「ウェア!」と言ったなという具合なんです。
そんなわけで、ぼくを含めてぼくの周りの人たちは、ウィンドウもマックも並行して使うことになりました。
教師を辞める少し前に、ぼくはバンコックで一夏の英語留学をしました。山好きということで仲良しになった、リーディング・ライティングのジェフ・タッカー先生がシアトルに帰っているからいらっしゃいという誘いが来ました。シアトルといえば、ツインピークスの舞台のそばではないか。
彼はおそらく、シアトルのマウント・レニアにぼくを案内したかったのでしょう。でも、ぼくの興味はひとえに、ツインピークスの街・スノーコーミーを訪れることでした。
タッカー先生のしつこい誘いを振り払って、ぼくはスノーコーミーに向かったのでした。
やがて、スノーコーミーの街は有名になり、ツインピークス絡みでツアーまで組まれることになりました。
こうしたことに先駆けて、ぼくは、あのグレートノーザン・ホテル、いわゆるサリッシュロッジの、窓からあの滝が真下に見え、滝の響きが止むことなく続く部屋に泊まりました。そして、勝手にいい気分になっていました。
もちろん、ロネット・ポラスキーがよろよろと歩いた線路や転轍機なども、観光名所となったようです。 そして、チェリーパイ。これは名物となりました。大粒のアメリカンチェリーのパイで、やたた大きかったように思いました。
あの頃から、大方40年近くも経ち、消えかけていた記憶を取り戻すきっかけになったのは、ツインピークスの新作放送の知らせでした。それは、ツインピークスThe return、帰ってきたツインピークスというのだそうです。
それにしても、ラリーは元気なのだろうか。その後10年ほどして、訪ねた時は、ラリーは不在で会えなかったのですが、奥さんの話では、馬を買って、乗馬に凝っているということでした。今、ネットで調べると、ウィキにこんな写真が載っていました。説明によると、アップルはやめて、グーグルに移ったようです。
こんな写真だけでは何もわからないのですが、なんとなく安心しました。
昔だったら、ツインピークスの新版が始まると聞いたら、多分心浮き立ったのではないかと思うのです。ラリーに、ツインピークスの新作が始まるねぇと連絡する気になったでしょう。
でも、いっこうにそんな気分ではないのです。そして、新ツインピークスに関しても、例によって、謎かけみたいな、ホラーみたいな映像と筋立てを見せてくれるのかいな、デビッド・リンチさん。なんていう冷めた気分なんです。番組を盛り上げるべく、みんな必死で騒いでる感じなんやけどねぇ。こっちは、ほんでなんやねんという気分で、やっぱり結論として、ぼくは年取ったんやなあ。やっぱりそういうことなんでしょう。