温泉に泊まるならやはり和室がいい。岩風呂に浸かって戻ってきて洋室というのは、やはりしっくりしない。
豪華である必要などないけれど、窓辺りにテーブル椅子が欲しい。民宿などではこれを欠くことが多く、そういう時には椅子を頼むことにしている。
部屋の真ん中には座敷机があって、その上には大きな灰皿が置かれていることが望ましい。最近では、禁煙の部屋が多くなったけれども、温泉宿ではタバコが吸える部屋を得るのに大して苦労はしない。
こうした温泉の要件の中で、ぼくが最も重視するのは、入浴時間である。有名な温泉宿ほど、時間規制があり、だいたい夜中12時でクローズとなる。
ところがなんと、今度の宿は二十四時間いつでもお風呂は開いているというのだ。少しびっくりしたし、大いに嬉しかった。
夕日ヶ浦温泉というのは丹後の温泉である。丹後のこの辺りはぼくにとって、とても思い出の多い土地なのである。というのは、ぼくの母親の生地が丹後の網野というところで、ぼくは幼い頃から学齢期何度もこの辺を訪れている。
今度調べて分かったのだが、網野町は明治にできて、1950年に浜詰村、木津村、郷村、島津村が合併して網野町となった。さらには、2004年に町村合併で丹後、弥栄、中郡峰山、大宮、網野郡久美浜がまとめられて京丹後市となり、網野町は無くなったということを知った。
昔からある名前をいとも簡単に変えていいものなのか。なんとも憤懣を覚える話である。
浜詰の海水浴場には何度となく通ったし、その帰りには木津温泉の浴場に浸かるのが常だった。
マグネチュード7以上の地震の震源地が、隣村だったのだから母親の生家は当然倒壊した。
この時、母親は少女だったらしい。誰も怪我はしなかったのだが、父親がびっくりして腰を抜かしてしまった。起き上がろうとしても、起き上がれず、「こりゃどうじゃ、こりゃどうじゃ」と繰り返していたという。こんな話を、母は何度か語って聞かせたものだった。
ぼくの母は、やはり小学校の教師だった父親と恋愛結婚したのだが、丹後の女性だったから、進取の気性というか合理性の塊みたいなところがあった。それが、ぼくを育ててくれた祖母の気に入らなかった。
祖母の母親のお照さんは、山向こうの天引という村の、参勤交代のお殿さんが宿泊するという陣屋から大量の弓矢と刀を持って嫁いできた人だった。その一人娘がぼくの祖母だった。祖母は口癖のように「丹後もんの女は門にも立たすなと言うたもんやで」といったものだった。
父親の生家である園部町大河内は、楠木正成の落人部落と言われる村で、因習と伝統にうるさい場所だったはずである。普通に考えれば、そんなところの家で、何代か前には庄屋を務め苗字帯刀も許されたという家に丹後もんとの結婚が許されるとは考えにくい。
ぼくが思うには、それを認めたのは、祖父の鎌吉だった。彼は、山の下の八田というところからやってきた婿養子だった。大工さんで、結婚したすぐ後には、妻を伴って京都に出て、二条城の改築の仕事をしていたという。
時代の流れを知っていたし、広く世間を知っていたから、恋愛結婚をするという息子の考えを受け入れたと思われる。
祖母のお照さんに育てられたぼくの父親は、ぼくが母親のお乳で育てられることを望まなかったらしい。教師の務めもあったのだろうが、生まれるとすぐ、ぼくには乳母があてがわれた。
そして、満一歳を期して、祖父母の元に預けられ、そこで養育されることになった。だいぶ後になってそう思ったのだが、ぼくの父親はぼくを武士の子供として育てるべきだと考えていたらしいのだ。
十年近くも前、97歳まで生きた母親が亡くなり、長持ちの底から、母親の日記が発見された。そこには、ぼくを産んでから、引き離されるまでの一年のこと、そして別れの日のことが詳細に書き綴られていたという。
ぼくは気後れしてまだ読んでいないのだが、読んだ家内や娘の話では、涙なしには読めない愛しい子供への思いが書き綴られているという。
考えてみれば、ぼくには母親に抱かれた記憶はないし、母親に甘える感覚もなかったと思う。母親はぼくにとって、ずっと亡くなるまで、少々腹の立つところもある姉さんのような存在だったような気がするのだ。
今回、久しぶりに母親の生まれた丹後へ来ることになって、突然思い出したことがあった。
あれは確か、終戦直後のことだったから、小学校五年の夏のことだったと思う。母親が突然丹後の磯村に行くことを命じた。
丹後には磯という小さな漁村がある。そこに私の知り合いが住んでいるから、夏休みにはそこへ行って過ごしなさい。万事頼んであるから、何も心配はない。
学齢期になって両親の元に戻るまでに、あっちこちと親戚を泊まり歩くのには慣れていたから、ごくすんなりとこの話を受け入れたように思う。
母親と二人で、バスを降りると、右前方に、青い海が、急斜面に密集した家の屋根の重なりの下に見えた。左手には山に登る細い道があり、その辻にはお地蔵さんが立っていた。この光景はなぜか今も目の底に残っている。そして、母親が「ここは静御前の母親・磯禅尼の生まれた村なのよ」と説明したのをはっきりと覚えている。
約一ヶ月、ぼくはこの小さな漁村の家で過ごした。その家が何人家族だったのか、あまり記憶がない。覚えているのは、ぼくより4・5歳下の男の子がいたことと、その母親のおばさんがいたことだけである。
いつも朝食時に、一切れの茄子の浅漬けが出た。それはぼくだけに供されたので、男の子はいつも「俺がん茄子にゃーだか」(俺には茄子がないのか)と苦情を言ったが、おばさんは全く取り合わなかった。茄子は、畑のない村にとって貴重品だったのである。
後になって、いや今になっても、ぼくはどうして、半分分けて与えなかったのかと悔やんでいて、胸が痛む思いなのである。
夜来の雪が積もっていたし、ところどころは、完全な氷となっていたから、緊張を強いられる道だった。
この磯村で、一ヶ月の間、ぼくは毎日、おじさんやお兄さんたちと船に乗り、伝馬船の漕ぎ方を教わり、素潜りでアワビを採ったり、舟べりから乗り出して、歯で咥えた箱メガネを覗きながら、深みにいる魚をヤスで突く方法を習得していった。
約七十年ほども前の記憶がよみがえり、その場所を再び見て、ぼくには、これまで考えても見なかった疑問が沸き起こった。ぼくの母親はなぜ突然ぼくを磯村に行かせたのだろう。
そんなことは今まで考えもしなかったし、母親に問いただしもしなかった。
でも今、その答えが分かるような気がするのだ。あの頃、父と母は幾度となく激しい口論を繰り返していた。そして、その内容はいつもぼくの育て方をめぐってのものだったことを思い出した。
父親が、ぼくをサムライの男として育てようとして、母親から引き離し、祖父母の元に送ったように、母親はぼくをサムライではなく、漁村の漁師のような男になって欲しいと思ったからなのではないだろうか。
問いかける父も母もすでにこの世にはなく、何か胸苦しい思いだけが残るのである。