先の稿でも書いたように、三内丸山遺跡の発掘は多くの点において、縄文文化に対する認識の変更を迫るものだったと言えます。そして、世界の古代史において、縄文文明と呼んでも良いものであると思わせるものでした。
地面に径2mの穴が6つ掘られていて、そこには径1mの栗の丸柱が立っていたことは、大きな驚きでした。
考えられたのは、雪があるときに引きずったのだろう。雪の上なら引きずることも可能と考えられたからです。
ところが、柱を取り出してみて分かったのですが、底には濶葉樹の葉があり、この柱が雪のない季節に運び出されたことになりました。
しかし想定される重量から言って、この500人の集落の人間だけでは、運搬できないということになり、おそらく近くの集落からの動員があったのだろうということになりました。
長野県の御柱祭りでは、径1m、長さ19mのモミの巨木をひきおろします。その重さは7.5トンでこれを引くのに2000〜3000人が必要となります。
三内丸山の場合はこれより軽かったと思われますが、集落の人間だけでは無理であったことは明らかです。近隣の縄文人が寄り集い、御柱祭のように祭事として運搬や立ち上げが行われたのでしょう。
柱の立っていた穴を発掘して分かったことなのですが、柱の底部分や周りが硬く搗き固められていました。柱の立つ地面を搗き固めるというのは、中国伝来の版築工法と呼ばれ、飛鳥時代に寺院建築とともに伝わったとされてきました。
しかしその遥か前の縄文時代にすでに我が国にあったのです。
ぼくが中学生の時、天保年間に建ったと言われた茅葺の田舎の家を捨て、高い山中から、下の平地の田んぼの中に移転することになりました。
その新築の時、床を支える束柱を載せるいくつもの束石を置く地面を搗き固める「石場撞き」という共同作業をした記憶があります。
組んだ櫓の周りに集まった5・6人の人が綱を引き、丸柱を引き上げては、ドンと落とし、地面を搗き固めるのです。あのような作業は、縄文の昔からのものだった。そう思うと、ぼくの育ったかやぶき屋根の破風の風情なども三内丸山の屋根に似ているような気がしてきて、なんとも不思議な感懐を覚えたものです。
あの丸柱は栗の樹だったのですが、現在の栗の樹はあんなに太くもないし、真っ直ぐでもない。栗は食料として植樹栽培されていました。富山県の遺跡からも同様な柱が見つかっていますが、比較してみて、こちらは自然生えのものを使っていることが分かります。
考えらることは、おそらく品種改良されて現在のようなものになったということです。
だいたいあの6本の柱を立てた櫓は、なんの目的で作られたのだろうか。これには二説あって、一つは祭祀のため、もう一つは見張りのためです。
地形や海を望む場所から言って、ぼくは後者だと思っています。縄文人は他に例を見ない漁労の民だったし、海の民だったから、というのが根拠です。この縄文人海の民説については、後で詳しく述べたいと思っています。
別にこんなびっくりするような発見もありました。いわゆる「縄文尺」です。三内丸山の建造物の柱がある基準に基づいて置かれていることがわかりました。
あの櫓の丸柱はすべて4.2mの等間隔に建っています。この長さは35cmX12=4.2mというのです。35cmというのは何なのかというと、これは成人の肘の長さで、紐を腕に巻いて長さを測るのに便利だというのです。どうして12なのかはよくわからないのですが・・・。
計測をするための特定の人がいたとか、メートル原器みたいな縄文尺原器があったのかもしれません。
また、この櫓の木ぐみにいわゆる「貫工法」が使われていたというのです。これは木に穴を開けて横木を通すやり方なのですが、これも飛鳥・奈良時代に大陸から伝えられたとされてきました。しかし、縄文期にもう出来上がっていた。
日本の木造建築の技術はすごいもので、法隆寺は世界最古の木造建築です。江戸時代の木造建築技法は他の国のものとは比べようもないものであるのは、すでに5500年前に基礎があったと考えると、誠に納得できます。