福沢諭吉の「事実を見る可(べ)し」

 福沢諭吉は朝鮮について、多くの評論を書いていますが、その中で広く知られているのが、「脱亜論」です。
 これについては、6年前の2013年この<葉巻のけむり>で「福沢諭吉「脱亜論」の背景」を書きました。そして、その全文も載せました。
 福沢諭吉は、朝鮮の近代化に燃える青年を慶應義塾で学ばせ、彼がクーデターに失敗して逃げてくると自宅に匿うなど、大いに支援を惜しみませんでした。
 この金玉均が上海で謀殺され、凌遅刑の末、五体バラバラにされて、各所に晒されるに及んで、朝鮮とは絶交すべしと述べたのです。
 それは明治18(1885)年のことでした。

 それから12年経った、明治30(1897)年、やはり新聞「時事新報」上で「事実を見るべし」と題する論考を書きました。10月7日の朝刊2面の社説欄でした。
 「脱亜論」に比べて、この「事実を見るべし」はほとんど知られていないようです。
 それは、日清戦争の3年後のことでした。朝鮮を独立させたものの、三国干渉によって遼東半島を返還せざるを得なくなった日本を、朝鮮は日本は弱体化したと見切りました。そしてより強いロシアにすり寄る裏切りの結果、内閣総理大臣・金弘集は追放され、親露派の民衆によって撲殺され、路上に晒されました。
 福沢の思想に深く共鳴し、朝鮮の文明化に強い意志を見せていた金弘集の無残な死に福沢諭吉の憤りは頂点に達し、この「事実を見るべし」を書いたのです。
(この時代韓国という国はなく、半島全体を朝鮮と呼んでいました)

ーーー現代語訳ーーー
 もともと朝鮮人は、数百年このかた、儒教の中毒症にかかり続けた国民であり、道徳仁義を常に口にするものの、心底は腐敗しており、その醜くけがらわしいさまは言い表すことはほとんど困難なほどである。身分の高いものから低いものまですべてが見せかけだけの君子の巣窟であり、誰一人として信頼できるものがいないことは私(福沢)の長年の経験に照らして明白である。このような国民とはどんな約束を結んでも、背信と違約が彼らの本性であるから、これを意に介する必要はまったくない。すでにこれまでの外交においてもしばしば経験ずみのことであり、朝鮮人相手の約束ならば、はなから無効のものだと覚悟して、日本はみずからの実利を追求するより他はない。

 122年も前の、福沢諭吉のこの言葉を、どう受け止めればいいのでしょう。本当に、今もやはり事実を見ないといけないのですが、明治の時代ほど、世界は単純ではない。ぼくは考え込んでしまうばかりなのです。
                     福沢諭吉「脱亜論」の背景
 

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