武漢ウィルスとマスクの効用

 このブログ、大変長らくご無沙汰でした。
 たしかこの前の記事は、4月18日の「武漢ウィルスの巨大世界蔓延」でしたから、それからもう2ヶ月も経ってしまいました。
 この間、世界中が大騒ぎの中でぼくはいつものように引きこもりの日々を過ごしていました。たしかに週一二回の外出はしなくなりました。なんとなく出かける気分になれなかったし、周りの人たちが驚くほど強く反対したからでもあります。
 家にこもることはぼくにとっては普通のことで、全然苦になりません。むしろ連日忙しい時間を過ごしていたのです。何をしていたかって? それはまた別に書くことにします。

 居間のソファーに座りきりで、二階のトイレに行く以外に立ち上がることさえない毎日(二階のトイレを使うことがぼくの唯一の運動でして)を過ごしながら、このコロナ騒ぎを、なにか人ごとのような感じで眺めていたのです。
 そして、世の中ほんとに変になっていたんだなと気が付き、一体いつからそうなったのだろう。やっぱりバブル期からなんだろうか。いやもっと前、マッカーサーの時からではないか。いやもしかしたら、大正デモクラシーの時代からと言えるかもしれない。などと考えたりしていたのです。

 それにしても、テレビを見ていて、違和感を持つことがいろいろあります。その最大のものはマスクです。
 花粉症でないぼくは、マスクをする習慣がありませんし、したこともないと言っていい。家内の話では、いまスーパーにはマスクをしないと入れないのだそうです。えらいことになったもんだと思いました。
 マスクをするのは飛沫感染を防ぐためのものだという認識のようです。NHKの番組では、飛沫がどれだけ飛ぶか、マスクはそれをどう減らすかという映像を流しています。
どれだけ飛ぶかという競争ではない。向かい合って飛ばしっこをする人などいません。マスクの効用は、手で口と鼻に触るのを防ぐことにあるとぼくは思っています。人は1時間に20数回、無意識に顔面に触るという調査があるそうです。そうであれば、メガネをしていない人にとっては、顔面シールドは有効だといえます。

 この頃ようやく、ちょっと自粛がやり過ぎだったのではないかという考えが語られるようになってきました。このままでは経済が崩壊するという危機感が大きくなってきたようです。
「冷静に恐れろ」と言いながら、闇雲に恐れるばかりでパニクっていたようにぼくには思えます。
「仕方ない」という日本語に相当する英語はないそうです。縄文の時代から自然とともに、自分を自然の一部と認識して自然災害を切り抜けてきた日本にあっては、「仕方ない死」がありました。そしてそれが日本人の死生観に関わっていたと思われます。
そうした死生観は今の日本では薄くなった。難破してボートで死にかけたら誰を食って生き延びるかを冷静に考えるというサンデル教授のような考えが、日本に蔓延してきた所為かもしれません。彼の考えには、では一緒に死のうという日本人の発想はありません。

 冷静に考えれば、日本人の死者数は驚異的に少ないのだし、インフルエンザの死者数と比べてもその10分の1に過ぎないと言われています。どうしてこんなに大騒ぎになるのか。
 専門家会議なるものが組織され、新型コロナに対応する指針が示されました。その頃、大阪のライブハウスで集団感染が発生していました。専門家会議は徹夜で討論し、いわゆる「三密」なる対応策を発案し、これが日本挙げての対応策の基本となったようです。でも、この専門家会議のメンバーにはコロナウィルスの専門家は一人も入っていなかったそうです。
 そのライブハウスの間取りを見ましたが、テーブルは全く密集していませんでした。専門家会議は「三密」を唱えると同時に、どうして感染は、「手」⇨「口」「鼻」「目」であることを強調しなかったのか。

 最近のエール大学の調査によると、下水中のウィルス濃度のカーブが感染者数のカーブと7日遅れでほぼ完全に一致していたのだそうです。
 ウィルスは便中に含まれている。とすれば、いくら距離をとっていても同じ便所を使っていれば、意味はない。あのライブハウスではどうだったのか。扉の形状はどうだったのか。手洗いはどうなっていたのか。専門家会議は検討したのだろうか。ぼくは最初からそんな疑問を抱いていました。
 日本の死者数の少なさは、ウオッシュトイレの普及も関係しているかもしれないと思いました。
 専門家会議はどうしようもないと思えるようになってきています。そのきっかけは、メンバーの一人の西浦教授という人が、何も対策しなければ、死者は41万人という発表をしたことです。根拠を辿ると、試算の元になったのは、武漢のものでした。これはダメだと思ったのです。

 最初の頃から、このウィルスに関してPCR検査が大きく取り上げられていました。しかし、この検査をしても病気は治りません。検査部位のウィルス濃度によって、陰陽が 変動したりする。治療とは全く関係ないと言っていい。
 ワクチンがないから、とりあえず既存の薬で治療を試そうとしているようですが、効果があるようでもあるしないようでもある。なぜなら治ったとしても、その薬が効いたのか、関係なく治ったのか分からないからなのです。
 明確な結論を得るためには、患者を2グループに分け、一方にはいわゆるプラシーボ(偽薬)を投与してその結果を見なければなりません。おいそれとできる状況には今ないというわけです。

 同じことが、ワクチンにも言えます。ワクチンの場合、数千人の治験グループを必要としますから、そんな数の患者はいないのです。
 罹患していない人に、ワクチンを接種して、それからウィルスに感染させる。発症しなければ、ワクチンは効いていることになります。
 種痘ワクチンのジェンナーは、自分の子供に接種しました。牛を飼っている家庭の子供が疱瘡にかからないという事実から、牛に接種してワクチンを作ったのです。華岡青洲も麻酔薬を自分の妻で試しましたが、子供で試すとは、それなりの確信はあったのでしょうが、すごいことだと思います。
 現在、一般人を使ってこれをやるということは、ほぼ不可能と言っていい。でも、中国なら可能かもしれません。人民軍を使う。だから、武漢ウィルス対応のワクチンは中国で出来る可能性が一番高いと思います。

 ぼくにとって、マスクよりもっと気になるのは、いわゆるソーシャルディスタンスという奴です。この舶来の考えは日本人には全くなじまない。四六時中抱き合ったりキスしたりする民族において、コロナ対策として生まれたものです。
 日本人はもともとしっかり距離を置く文化があるのです。それが破壊されつつあると感じます。武漢ウィルスによって日本文化を壊されてはなりません。
 ソーシャルディスタンスなどというものは無視すべきだと思います。
 一体何人がいわゆるエアロゾルで感染したのか。専門家会議は調査しているのでしょうか。
 やみくもにハグしたりなければいい。第二波は起きるでしょうが、それがどうした。みんなが感染してゆき、ある人は気付き、ある人は発症し、ある人は気がつかない。そして極めてまれに死ぬこともある。
 そんなことを繰り返しているうちに、誰もが免疫を獲得してしまう。そんなところではないでしょうか。

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