まだ酷暑の頃だったから、だいぶ前おそらく一月前くらいだったと思います。
小用があり京都まで電車で出掛けることにしました。
駅のプラットフォームには、冷房の効いた待合室があります。暑さに弱いぼくは大急ぎで待合室に向かいました。中にはマスクをした中年のおばさんが一人座っていました。
ドアが開いたままだったので、ぼくは後ろ手でドアを閉めようとしたところ、「開けたままにしなさいと書いてあります」と注意されました。たしかにその引き戸のドアには張り紙がしてありました。
電車はガラガラで優先席にはぼく一人だったので、マスクをすることもなく京都につきました。
半日近く市内を動き家に戻ったのですが、その間、マスクなしの人を全く見かけることがなかったのです。マスクなしのぼくは、大変な違和感と孤独感を持たざるを得なかったのです。
帰りの電車は勤め帰りの人たちで、かなり混雑していました。前に人がやってきて、つり革を持って立ったので、ぼくは初めて、マスクを取り出し顔にはめました。その人がくしゃみをしたらぼくは飛沫感染の範囲に入ると思ったからです。
駅に着くと同時に激しい夕立が来ました。傘のないぼくは誰もいない待合室に一人入り、しばらく雨宿りをすることにしました。待合室に入ったぼくは、ドアをしっかり閉めました。そして改めてドアのメッセージを読んだのです。そこにはこう書いてありました。
【 お知らせ
待合室の換気について
当社では、待合室内の空気を入れ換えるために当分の間窓を開け換気に努めさせていただきます。
みなさまのご理解とご協力をお願いいたします。 駅長
】
「窓を開け」と書いてある。戸を開け放せとはどこにも書いてないではないか。どうしたことなのか。ぼくは注意深く窓の全面を観察しました。ありました。しっかり見ると部屋の上部の両側に細長い窓があり、それはしっかり開放されていたのです。この文面に言う窓とはこのことで、ドアではない。あのおばさんは深読みしすぎと言うか忖度しすぎだった。そう思ったのです。
数日後、我が家に来た女性にこのことを話し、帰りに京都までの各駅の待合室のドアをチェックしてくれるように頼みました。すぐに来たSMSによると、ほどんどの駅でドアが開放されていたそうです。
この話は、今の日本の状況をあらわしているようで、大変面白いと思ったのです。かなりの人が、ウィルスの50倍近い穴の空いてるマスクの効用についてそんなに信じていないと思います。でも信じ込んでる人が多いのだからまあそれに合わせておこう。そんな感じなのではないかと思っています。ないよりはあったほうがいいと言う感じなので、医者や専門家は外でしても意味ありませんとは言いづらいようです。
感染者が出ると、必ず同時にマスクをしていましたと報じられます。これ意味がわからない。マスクをしていて感染したのならマスクの意味はないことになります。
感染者とは、pcr検査で陽性、つまり鼻・喉からウィルス菌が発見された人ということです。感染者と発症者は違います。咳・くしゃみ・発熱などの症状が現れて、初めて病気を貰ったと言うことになるのです。感染者のうち半数くらいが発症者で、そんな人も数日休養して横になって居れば、直ってしまうようです。重症化することなどほとんどありません。それは、死者数の変遷を見れば分かります。感染者数は大きく変化を続けていますが、死者数は減り続けて安定しているのですから。
ほんとの専門家でもない専門家と呼ばれる人たち(と聞きました)が、「三蜜」などという罪作りなスローガンを提唱し、マスコミが煽ったものですから、日本中がおかしくなった。「政府の「新型コロナウイルス感染症対策専門家会議」メンバーの顔ぶれを見ると、脇田隆字・国立感染症研究所所長以下12人の構成員のうち、実際の医療現場に立つ医師は釜萢敏・日本医師会常任理事ひとり。」
四六時中、手を握り合ったり、抱き合ったりする習慣のあるアングロ・サクソンが言い出したソーシャル・ディスタンスなどと言うことをありがたがる変な考えが広まっているようです。
この写真を見てください。これはまさに冗談画像。運動会のリレーだそうです。2メートルのバトンを運んでいます。こんなものを考えた小学校の先生の頭を疑います。こんな現象が見られる日本は、おかしい。みんな頭がおかしくなっている。みんな頭がウィルスに感染している。
そのウィルスとは、民放テレビウィルス、NHKウィルスといっていいでしょう。
コロナウィルスに関して、日本人はもう集団免疫を得て、もう終わってる。死者数、重症者数がそれを示しています。
冬になるとインフルエンザが重なると大変だと不安が煽られていますが、インフルエンザとコロナとは互いに競合するので、インフルエンザが流行る分だけ、コロナ感染は減る。それはもう今年のデータに出ています。
今注意しすぎるとせっかく得た免疫を失うことになって、むしろ危険と、京大の小久先生は唱えておられます。
このあたりのことについては、改めて述べたいと思います。