タカヒコドクターのこと(承前)

ほんのちょっと前のように思えるのに、指折り数えるともう半年近くも経ってしまった。
セキタと同じくタカヒコドクターも大学山岳部での出会いだった。
ここで、この出会いの2年前頃の話から始めたい。

大学の農学部に入ってみると、新入生のほとんどは浪人で、現役入学は少なく2浪3浪はザラで、中には5浪などもいて驚いた。特にぼくの入った農芸化学科では、現役はわずか3人しかいなかった。それで卒業を急ぐ必要はないと思った訳でもないのだが、ぼくは授業に出ないで、もっぱら一人での山歩きを始めた。中・高を通して抑え続けていた山歩きの欲求が噴き出したわけである。教科書代のほとんどがその費用となった。
でも全く授業に出なかったわけではなく、面白いという評判の授業には出た。英語の授業に出たのは、それが重要だと思ったからである。でも試験は受けなかった。必ず出たのは、同級生のコンパだった。校舎の片隅には小庵があってそこが会場だった。料理は食堂のおばちゃんに頼んだ。ぼくは何度もコンパを企画し熱心に幹事もやり、いい感じ(幹事)と呼ばれるよう努めた。
一年が過ぎて、新入生が入ってくると、ぼくは彼らと一緒に授業を受けることになった。
同級生とはいえ新入生にとっては、ぼくは一年上の先輩で、彼らにとってぼくは「髙田さん」だった。
授業に必要な教科書は同級生がくれたり貸してもらったりした。試験になると親切な女性の同級生は英語の単語帳をくれたし、何人もの人があの教授は毎年おんなじ問題を出しとると試験問題を教えてくれたりした。
考えてみれば、これは決してそう目論んだわけではなく、自然とそうなったというのが実情なのだか、結果的には、ぼくはけっこうコスイ手を使った奴と言えなくもない。

そのうちに『なんで山登るねん』の序章に書いたようにスミさんと出会い山岳部に入ることになる。当然ぼくは部員の勧誘を行った。最初に引っ張り込んだのは3人の現役仲間の一人であるダンボーだった。偉丈夫の彼は膳所高のラグビー部出身で当然大学でもラグビーをやっていたが、山もおもろいでと誘ったらあっさり乗ってきた。
ラグビーでは「ダウンボール」という掛け声をかけるが、元々大声の彼が、そう叫んでいるのがダンボーの由来ではないかと勝手に思っていた。
3年生になると、彼は「栄養化学」ぼくは「生物化学」と専門は分かれた。
夕刻の実験室に居残っていると、ダンボーがふらりと現れ、「タカダ、センターでもいこか」
センターとは四条河原町のことだった。
路面電車に揺られて着いて喫茶店にでも行こうとなって、「お前金あるやろ」「俺もないで」となって、これは困ったとなっても、彼は一向に動ぜず、なんとかすると言って、歩道の脇に立ちつくしている。
しばらくすると、会社帰りの若者で道はいっぱいになる。その数人に彼は声をかけ、コーヒ代以上のお金を手に入れるのが常だった。みんな高校の友達だという。

ダンボーが「こいつ山に興味あるゆうとる」と連れてきたのが、ハヤシタカヒコだった。
おもろいプレーしよるんや、とダンボーは少し小柄な彼を紹介した。ボールを持った途端に反対方向に走り出したりして敵を撹乱したりする。そういうラグビーを洛北高校では得意としたという。
タカヒコもセキタと同じく、最初の夏の剱の合宿にきたがぼくとザイルを組むことはなかった。彼はチャップはんという少し無鉄砲なところもあるOBに連れられて、剱尾根のβルンゼという新ルートを攀っている。その後薬師岳越えの縦走をして黒部源流祖父沢の出会いで解散ということになった。
高校時代からラクビーで合宿慣れしていたのか、合宿期間中も全く問題を起こすことはなかった。
縦走中荷物は毎朝みんなに分配される。食糧など毎日減ってゆくことになるし、その時々の状況に応じて個人の重さの多寡を案配する。そうしたことをするのは、サブリーダーの仕事だった。文句言いの新人などが、今日もこんなに多いのかなどと文句など言おうものなら、もっと増やされたりすることもある。
タカヒコは朝みんなより少し早く起きて、個々の荷物の重さをチェックしておいたのそうである。そして持ちたいと思う荷物を手にした分配者が、誰にしようかなと見回しているその時、パッと顔を上げてその目を見る。すると必ず「はい、ハヤシ」となるのだそうだ。
「あの期間中、ぼくが一番軽い荷物担いでたはずや」と何度か彼は自慢したものだった。
ぼくが、「あそこで休憩」と場所を指し示すと、タカヒコはいつもキスリング・ザックを大きく揺らしながら、そこまで全力疾走した。それは荷物が軽かったからなのか、ラグビーの癖だったのかは分からなかった。

彼が山岳部にいたのは2年間だけだった。大学には医学進学課程というのが設けられていて、教養課程のこの2年間を終えると、どこの大学の医学部にも、もちろん試験はあるが、3年に編入が可能なのだった。ぼくに医者の友人が多かったのはこうした理由による。
夏の合宿が終わってしばらくして、ぼくとセキタはタカヒコの家に招かれた。多分、彼の両親が息子の仲間を見たいと思われたのではないかと思う。
タカヒコのお父さんは大阪の有名大病院の院長先生だったから、その前で夕食をいただいたぼくは、緊張していたのか何を食べたかまるで記憶にない。
その時の話、「ぼくの同級生の水野祥太郎くんはねぇ」
水野祥太郎といえば、とんでもなく偉い登山家だったから、ただ驚いていた。話は「水野くんは人生の半分を医学に、残りの半分を山に注ぎ込んだ」となり、「君たちも頑張りなさい」と続いた。ぼくもセキタもただ畏まって聞いていた。
時折、山行きで一緒することもあったけれど、なにしろ大学を移ったわけだから、けっこう長い空白の期間があったといえる。
密接な付き合いが始まるのは、1975年からである。この年ぼくはラトック2峰に遠征登山を行い、遠征隊付きのドクターとして参加してくれることになったのだった。癌手術専門の気鋭の医師として、活躍中の彼は紛れもないタカヒコドクターだった。
遠征期間中、終始型破りのくだけた態度で若い隊員と接し、見事な健康管理をやってみせた。
例えば、ラワルピンディーで滞在中、隊員を集めて「ジブンらパキ来てから何回○○かいたんや」と尋ねて答えさせた。それはラグビー部出身の面目躍如と言えた。

隊の装備として、大量の医薬品を携行していたが、登山が終了すると多くの薬品が残っていた。ぼくは、みんなクレバスにでも投げ込んで捨てればいいと考えていたが、隊の連絡将校が、キャラバン途中の村の診療所に置いて欲しいと頼んだ。
説明文が読めるわけではないし、危険なものもある。選別はドクターの仕事だった。ところが、タカヒコは一つひとつ「タカダはん、これどうしましょ」と尋ねる。「お前が決めたらいいやん」と言っても「いや、わしだけでは決められへん」
昔の合宿の時、何度か傷の手当てをしてやったことがあったのを思い出して、山へ来たらそういう感覚になっているのだろうかと思ったりした。
あの夏の合宿に参加していたもう一人、タナカは、編入ではなく新規に受験して京大の医学部に進んだのだが、北海道で小児科のドクターになってだいぶしてからのことだった。突然連絡があった。脳腫瘍があると言われた。手術を勧められたけれど、開くかどうか迷ってます、どう思いますか。
「お前医者やろ。わしに聞いてどうするんや」とぼくは答えた。すると彼は、いやタカダはん、こういう問題は医者の問題ではないんですと言ったのだった。

遠征から戻ってしばらくして、タカヒコは勤務医を辞め、林医院を開設した。その頃から彼はぼくにとってかけがえのない侍医となったのだった。彼の医院のコンピュータ関係の保守や骨密度測定機のソフトを修理したこともあった。
二人の話題は、日本の歴史や政治、国際関係などが多かった。二人ともレコード音楽を愛していたから、一緒にオーディオを楽しむこともあった。
彼はぼくに定期検診を進めたが、ぼくはあまり聞かず、彼に従うようになったのは60歳を超えてからだったように思う。
その頃、彼の意見を聞かないぼくに彼はよくこう言った。「ワシ、タカダはんが血ぃ吐きながら死んでいくの見るの嫌やしなぁ」
そんな時、ぼくは彼がぼくより先に逝ってしまうなんて想像だにしていなかったのだった。
今、レコードを聴いている時、彼が好きだった藤沢周平のドラマを見ている時など、急に彼がそばにいるように感じることがあったりするのである。

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