先の土曜日(6月17日)久しぶりに竹田研究会に参加してきました。
竹田研究会は全国に17有って今回のは正確には京都竹田研究会です。近畿地方には大阪・京都・奈良・兵庫の四つがありまして、ぼくは兵庫を除く3つに登録されているので、開催されると連絡がきます。
今調べてわかったのですが、竹田研究会ができたのは2008年です。ぼくが入会したのは、公式ページによると2013年3月19日となっています。ちょうど十年前で、ぼくは結構古い会員のようです。
最初の参加は2013年3月2日の奈良竹田研究会でした。それが分かるのはiPhoneに写真が残っているからです。その頃は人数も少なく、後に懇親の会食が行われるのが常でした。この時は、近鉄奈良駅構内のレストランでした。その時の写真がこれです。
大阪の会にも何度も行き、懇親会で横に来られた竹田先生と盃と言葉を交わしたこともありました。
京都竹田研究会が、最初に開かれたのは、この写真の次の年2014年で、場所は御所西の護王神社でした。
竹田研究会ではどの会場でも演壇に日章旗が立てられています。それが護王神社の演壇にはなかったのです。竹田恒泰さんが登壇して日の丸に優雅に一礼する光景が大好きだったぼくは、これには結構違和感を抱きました。
それで、同じ年の4ヶ月後に同じ場所で2回目の研究会が開かれた時、帰り際に参加者を送り出している幹事の方に、「どうして日の丸を掲げないのですか?」と尋ねたのです。
彼は、少し言葉に詰まり口籠もり、「でも・・日の丸に・・拒否感を示す人もいますから」と答えました。(なんじゃ! こいつ)とぼくは思い(もう来るか!)と思いました。
そんなこともあって京都の竹田研究会には長いご無沙汰をすることになりました。
ところで、この幹事の方は、久能潤さんだったと、虎の門ニュースに出席されたことで知りました。大変立派な考えをお持ちで、ぼくの誤解がわかりました。あれは彼個人の考えではなかったと思ったのです。
この頃、京都竹田研究会の代わりにというわけではありませんが、「頑張れ日本!全国行動委員会」の京都支部の集まりに数度参加しました。
この会を仕切っていたのは椿原泰夫という有名な右翼運動家で、京都洛北高校の校長を務めた人でした。彼は旧仮名遣い論者でそうした講演も聞きました。でもぼくにとってはとても賛同できるものではなく、アナクロニズムの極みと感じられたのです。
彼の娘さんがかの稲田朋美さんで、当時防衛大臣でしたから父親もそれをいつも口にしていました。数年前にこの父親が亡くなってから稲田朋美は方向性を失ったようです。
誰の話かは忘れましたが、父親は娘をとても可愛がり、大きくなっても一緒にお風呂に入るほどだったと言います。もしかしたら、今度のLGBT法案の問題にも関係しているかもしれません。
10年以上の空白があって、久しぶりに参加した京都竹田研究会は200人を超える参加者でした。「初めての方は?」という問いかけに手を挙げたのは約半数で、加入者が急増したことが知れました。
3回目からの会場となった八坂神社の常磐新殿は、結婚式の披露宴などに使われる大きな会場でした。
細長の会場には横一列に折りたたみ椅子11個が並べられており、これが約30列ほど置いてありました。
午後5時に始まった会は、最初の1時間は「日本書紀」の購読で、面白くもなんともない話で、ぼくはほとんど居眠りをしていました。
30分の休憩の後の本番は、「疾病を克服してきた日本の歴史」という演題での竹田先生の話です。
「疾病の克服」といえば、防疫学の話かなと思えるのですが、竹田さんの話は、怨霊への対応というものでした。昔の人は、疫病や災害を怨霊の仕業と考え、大変恐れました。理不尽な仕打ちで亡くなった人の恨みは怨霊となってたたると考えたのです。
多くの神社・仏閣はこうした怨霊の祟りを祓うために建てられました。
8時半まで続いた2時間の竹田さんの講演で、彼が最も力を入れたのは最後の30分だったと思いました。そのテーマは、孝明天皇の暗殺説についてのものでした。
孝明天皇といえば、明治天皇の父君ですから玄孫である竹田さんにとっては最大関心事であることは理解できます。いろいろ調べた結論みたいなものを彼は話したのだと思いました。
満35歳で崩御された孝明天皇は天然痘による病死とされていますが、暗殺説もあります。竹田さんは徹底的に調べたのだそうです。天皇は詳細な日記をつけており、その他の関連資料もたくさんあったそうです。そうした資料の中には漢文混じりで読解困難なものもあり、そうしたものは全て現代文に翻訳しました。それは、その資料の内容について広く第三者の意見を聞くためでした。
孝明天皇は、尊皇攘夷派の大元であり続けていました。ところが、この頃になると周りに開国派が増え、天皇は孤立状態だったと言います。これは、その存在を消したいものがいることを意味しています。
この頃、日本でも天然痘が大流行していました。一切外出しない天皇がなぜか天然痘に罹患したのです。この死亡率の高い病に天皇は危険の淵を彷徨います。医師は後三日が山、そこで峠が越せるかどうかが分かれ目と診断したそうです。
神々の加護か天皇は危機を脱したのです。三日の後、順調に回復に向かっていた天皇の状態が急変します。そして急逝されたのです。その時、「九穴」(人間には九つの穴があるとされています)の全てに糜爛・出血が見られたと記録にあります。
こうした状態からなにが読み取れるのか。竹田先生が多くの人たちに聞いて得た結は、孝明天皇の死因が天然痘であった可能性はゼロであるということでした。
では天皇はなぜ亡くなったのか。
異常とも言える、ご遺体の状態から推測できることは、それはヒ素による中毒死でした。ヒ素による中毒死体には特定の特徴があり、それは「ニンニク臭」です。もしどこかにこのニンニク臭に関する記述があれば、「100%ヒ素中毒」と断定できると多くの人が言ったそうです。
でも天皇に毒を盛るなんてことが可能なのか。天皇の食事は厳密な毒味係のシステムがあり、不可能なのではないか。そもそも、天然痘の罹患についてもその経路は全く不明なのです。
そこで竹田先生が考えたのは、お酒でした。天皇が口にするもので、お酒だけは毒見なしだったのです。
インターネットで調べてみると、孝明天皇の毒殺説については、多くの記述があります。しかしこの「お酒」という説は初めて聞きました。
明治天皇の玄孫である竹田先生からその熱弁と共に、この竹田説を聞けたのは参加した甲斐があったと思ったことでした。