3、メンバー相互の呼称
「混成隊」の場合、メンバーがどう呼び合うかは、一つの重
大な問題であると考えていました。なぜならば、高所登山とい
うフィールドに於ては、登攀能力のみに限られない、総合的能
力が必要とされ、そうした実力序列は、否応なしに、全メンバ
ーの眼に明らかとなります。そして、そうした序列を反映する
のが、呼称であると考えていたからです。
基本的に、名前でよんだり、ニックネームをつけたり、ある
いは「ちゃん」づけにするようなことには、賛成できませんで
した。それは、安直に、擬似親近感を醸成するのみで「個人」
の消滅につながるのではないかと考えていたのです。
別の推論をやってみましょう。AとBがいて、Aの方が実力
が上だとBは思っている。しかし、Bはその事実を認めたくな
いし、またAに、「ぼくは君が上だと思っている」ということ
を示したくないとします。この場合、Bは、「Aさん」と呼ん
ではいけないのです。たとえ、Aが「Bさん」と呼んでいたと
しても、この時に現われる呼び方が、「Aちゃん」ではないの
でしょうか。
遠征登山に於ては、実力の序列は、それが自然なものならば
あった方がよいと思います。例えば、トップを決める場合にも
変な張り合いが起る危険も少ないのではないかと思うからで
す。「ちゃん」呼称は、無意味に庁列づけを混乱させます。
そんな風にぼくは考えていたので、準備段階で、「そんな幼
稚園みたいなことは止めよう」と提案しておきました。結論と
して、「ちゃん」呼称はなかったようです。ほとんどの隊員
は、すべて、「さん」呼称で呼び合っていました。ぼくの場合
は時として、「隊長」と呼ばれることがあった様です。ドクタ
ーは「ドクター」でした。
ぼくが隊員を呼ぶ場合は、時として、呼びすてにすることも
ありました。これは、親近感をもった時には、そうなったよう
です。終始、呼びすてにしたメンバーも数人ありましたが、こ
れは、この遠征に最初の段階からかかかったメンバーに対し、
その事を明確にするためにそう呼んだのです。
4、終 り に
いずれにしろ、ラトック1峰は、ぼく個人の見解ですが、一
つの実験登山隊によって登られたと考えています。
実験登山隊でありましたから、正直いってたとえ成功しなく
ても、ぼくとしては、それなりの成果はあったのだろうと思い
ます。まあ、失敗していれば、こんなことを仰々しく述べる
と、世間の失笑を買うことになったのでしょうから、やはり成
功してよかったのでしょう。
パキスタン放送のインタビューで、「これまでの隊が全て失
敗していた山に、なぜ成功したか」という質問が出た時、ぼく
は、つたないウルドー語で次の様に答えました。
一つは、これまでの隊が見出せなかったルートのラインを見
つけたこと。二つ、メンバーは、みんな経験があり極めて強力
であった。三つ、アラーの神が、常に我々と共にあったからだ。
いってみれば、成功とは何とも単純なことかもしれません。
<記録概要>
隊の名称 ビアフォカラコルム登山隊1979
活動期間 一九七九年五月〜七月
目 的 ラトック1峰初登頂
隊の構成
隊長=高田直樹(43)、登攀リーダー=重廣恒夫(31)
隊員=松見新衛(32)、奥純一(31)、遠藤甲太(30)
武藤英生(29)、中村達(29)、渡辺優(29)
城崎明(22)、医師=五藤卓雄(34)
行動概要
六月十日バインダー・ルクパール氷河上四六〇〇
メートル地点にBC建設。南壁右寄りのピラーに
ルートを取り、途中二ヶ所の中間デポを設けで六
月二十日C1(五五〇〇メートル)建設。六月二
十一日雪崩によりC1が流失した為、以後はBC
・C1間の第ニデポをC1として使用した。六月
三十日(五八〇〇メートル)建設。その後核心部
である七〇メートルの垂壁を二日間を費して突破
し、七月八日C3予定地(六三〇〇メートル)に
到達。C3予定地はテントを張るだけのスペース
がなく、ビバークを繰り返すことにする。七月十
五日南壁上部のアイス・キャップに達し、C3
(六五〇〇メートル)建設。七月十七日重広、松
見、渡辺の三隊員により第一回アタックを試みる
が、ロープの不足と天候の悪化で引っ返す。七月
十九日同じ三名にて再度アタック、新雪と頂上直
下のスラブに苦労しながら十九時四十五分初登頂
に成功。七月二十二目第二次隊の三名(武藤、遠
藤、奥)と重広がC3より第二次登頂を果たす。
「高田直樹ドットコム」には『回想のラトック1』があります。
回想ラトック1峰